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この門をくぐる者は(金沢旅行本編1)

 9月23日、金曜日、秋分の日の東京は台風到来の予感を孕みながらもなんとか曇天でとどまっていた。台風の進路予想は、ちょうど私が金沢を満喫しているときに東海や関東をなぞって通り過ぎていくようで、正に台風から逃れるような旅、太平洋側の皆さんが苦しんでいるときに私は日本海側でBANG!BANG!バカンス!なわけで、喉の違和感ではなく罪悪感を抱きながら、お昼過ぎに羽田空港へと向かった。

 飛行機の離陸時には雨がぱらついていて、雨雲を突っ切るように機体は上昇、窓の外の雲海を見ながら、久々の旅行らしい旅行にちむどんどんしていた。

 富士山が見えるはずの左の窓側の席を予約したが、あいにく雲に隠れて富士山は見えず、ただ、石川県に近づくにつれて視界が開け、眼下には小さくなった家々、田畑が見える。

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 羽田空港から小松空港までは僅か一時間の空の旅である。移動時間も旅の醍醐味だと思っている私には、もう少し機内での時間も欲しい、そんなことを考えていると、なんと小松空港滑走路上に鳥の群れが居座り、石川県上空を少々旋回する格好に。思わぬ形で希望が叶ったが、違う違うそうじゃそうじゃない。

 僅か10分程度のアディショナルタイムを経て、機体は小松空港に着陸。地方空港あるあるの、飛行機の離着陸の時間帯に合わせて市内へのバス時刻表が組まれているので、乗り遅れないようにバス停へ急ぐ。

 日本海に沈む夕日が見られるはずの進行方向向かって左側の席は埋まっていたため、仕方なく右側の席に座る。機内から富士山も見えないし、朝の占いではこの日の獅子座の座席運は最悪だと言われていたかもしれない。せめてラッキーアイテムぐらいチェックしておけばよかったか。道中、ふと左側を見ると、勝者越しの窓の外に赤く染まった日本海が見え、椅子取りゲームに負けてしまったことが悔やまれる。

 西陽を左から右に受け流す逆ムーディー勝山の状態で、その反対側の田舎の風景を見ながらバスに揺られること約40分、ようやく金沢駅に到着した。シミュレーションしたところ、新幹線のほうが金沢駅着が1時間ほど早かったのだが、JALマイレージを使用しての無料旅であり、多少のタイムロスには目をつぶった形である。目をつぶりすぎて富士山も夕日も見えなかったが。

 本来は、新幹線の車内で金沢到着のアナウンスを聴き、改札を抜け、もてなしドームをくぐって鼓門を拝むのが正式な形、正に正面玄関から金沢に入る形かもしれない。飛行機とバスを乗り継いで市内へ入るのは、どこか勝手口からお邪魔したようなそんな印象を受ける。それはともかく一度は断念した金沢旅行、ようやくここに来ることができたという喜びを胸に鼓門をくぐる。この門が、私の金沢観光の入口。振り返り、ライトアップされた鼓門を眺めると、金沢の伝統芸能である鼓をイメージして作られた門が青く染まっている。

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 タクシーで香林坊のホテルへ。チェックインの後、金沢の郷土料理ハントンライスのお店へ向かった。ハントンライスとは、ケチャップで味付けしたバターライスの上に白身魚のフライやエビフライが乗り、更にタルタルソースとケチャップがかかったさしずめ豪華なオムライスといったところ。グリルオーツカに到着すると、そこは三連休の金沢、長蛇の列である。最後尾のうんざりした顔の観光客、それ以上にうんざりした顔で最後尾につくべきか悩んだが、今回は諦め、仕方なく第2候補の金沢カレーのお店、ターバンカレーへ。もはやゴーゴーカレーで全国区になった味だが、金沢で食べる金沢カレーは格別。

 舌に絡みつくソースの味わいと、ようやくここに来られたという満足感で、私の金沢の旅が始まった。

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京都音楽博覧会2022

 のぞみ213号は午前9時ちょうどに東京駅を出発、流れてくるアナウンスが懐かしく、前回新幹線に乗ったのはいつだろうと思い返してみるとそれは3年前、今回と同じく京都音楽博覧会(以下「音博」)のための東京・京都間の往復だった。

 ここ2回はオンライン開催、今回は3年ぶりに京都の梅小路公園で行われることとなった音博、数日前からウェザーニュースで当日の天気を都度チェックしては、変わっていく降水確率に一喜一憂していた。しかし直前となったこの時期は憂憂憂、と憂優勢。当初は夕方から降り始める予定だった雨が、音博開演のお昼頃から降り始める予定に変わっていた。オープニングアクトからしっかり見るつもりの雨雲である。インドア日本代表の私が、半日ほど雨に打たれて無事でいられるだろうか。ささやかな対策グッズと大きな不安を抱えて、私はすごい速さで京都へ移動する。

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 音博の前日の京都は曇天で、降らせる準備は万全、降水フラグが京都タワーと同じぐらい高くそびえ立っていた。

 音博の前後で行きたい場所リストが膨大なものになっていたので、京都タワーへの挨拶もそこそこに、駅前のホテルに荷物を預け奈良線に飛び乗った。

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 宇治で平等院鳳凰堂他を見て、宇治川のほとりのカフェで抹茶パフェを勢いよくかきこみ、京都市へ戻って清水寺へ。瞬間移動でも使えればという状況であったが、そんな教育を受けていないので、ひたすら急ぐ。本当はもっとゆったりした旅程でゆったり京都をゆったり満喫してゆったりしたかったのだが、3年分の私の京都への想いが積み重なり過ぎて、お笑い賞レース優勝直後の芸人みたいに分刻みのスケジュールになってしまった。

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 夕刻、京都の天気は回復していて、清水寺から京都タワーの向こうの山に沈む夕陽が綺麗に見えた。明日にコピペしたいぐらいの好天である。落陽を見届け、ホテルに戻ってビスケットブラザーズキングオブコント優勝を見届け、翌日の音博の全アーティストの熱演をしっかり見届けるべく早々に床についた。

 そして2022年10月9日、音博当日の朝。スマート珈琲店でたまごサンドを食べ、コレステロール値爆上がりの状態で梅小路公園へと向かう。

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 会場近くのたくさんのファンの姿を見て、ようやくこの場所に戻って来られたのだという感慨深い思いを抱く。これぐらいの数の人の強い思いがあれば、雨なんて降らないんじゃないか、そんなささやかな私の願望に対するは現代の天気予報の正確性であり、お昼過ぎ、約束されたように雨が降り始めた。ステージの上ではマカロニえんぴつが演奏していた。

 アーティストの演奏はどれも素晴らしかったが、いかんせんコンディションが悪く、時折強くなる雨が私の体温を奪っていく。体を温めようとホットコーヒーをがぶ飲みするも尿意を促すだけでもうどうしようもない。

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 Vaundy、Antonio Loureiro & Rafael Martini、SHISHAMO槇原敬之の熱演が終わり、HPが残り少ないボロボロの状態でくるり演奏の時間が近づく。くるり演奏の前にピース又吉直樹さんの朗読があった。音博直前に発表されたプログラムで、一体何を朗読するのだろうか、くるりの曲の歌詞か、自身の作った小説や詩の一節か、と思っていたら、くるりとの思い出に満ち溢れた日々を語ってくれた。氏の自伝的エッセイ集『東京百景』の中にある「日比谷野外音楽堂の風景」というエッセイを大幅に加筆修正したような、素敵なくるりとの思い出。きっとここに来ている観客も同じようにくるりの音楽が生活のすぐ側にあって、熱く語れる想いがきっとあるんだろうな、とか、もし今なくてもこれからそうなっていくんだろうな、とか、そんなことを思いながら朗読を聞く。そんな熱量もなくたまたまここに居合わせた観客もいるだろうけれど、それさえ優しく受け入れてくれるような梅小路公園の雰囲気を味わっていたら、又吉さんの朗読が終わって、軽く歪んだギターのアルペジオからくるり真夏日』の演奏が始まる。

 いつかのZepp Hanedaで初めて聴いた、儚い夏の情景が思い浮かぶこの曲のリリースを首を長くして待っていた。あまりにも焦らされたのでたぶん2〜3センチぐらい本当に首が長くなっていたかもしれない。なかなかリリースされないのでYouTube耳コピしていた方の弾き語りを聴いたりもした。ちょっと聴いただけで音を再現できるその能力が欲しい、瞬間移動の次に。音博当日の10月9日にようやくリリースされたこの曲を生で聴きながら、ここ梅小路公園で、全国から来ているくるりファンと聴くくるりの演奏はやはり形容し難い格別なものがあると感じていた。

 『東京』『ハイウェイ』『潮風のアリア』『琥珀色の街、上海蟹の朝』『ばらの花』『everybody feels the same』『太陽のブルース』『ブレーメン』『奇跡』と、一部朗読に出てきた曲をなぞるかのようにセットリストは進み、最後『宿はなし』で3年ぶりの梅小路公園での京都音楽博覧会が幕を閉じた。

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 冷えた体を引きずって、京都駅近くのホテルへ向かう。歩きながら、又吉さんの朗読にあったくるりとの思い出になぞらえるように、自身の思い出を振り返ってみる。全ての始まりは、大学の軽音楽部でくるりと出会ったことだった。そして、くるりコピーバンドを組んだこと、バンド名は「ぬるり」だったこと、学園祭にくるりが来たこと、大学の卒業アルバムにステージ上で演奏する虹色のシャツを着た岸田さんが写っていること(大学時代の思い出については過去の記事「くるりとのこと」を参照されたい)、『東京』を聴きながら上京したこと、東京で『東京』を生で聴いて感動したこと、岸田さんが日記に「初めて漫画から音楽が聴こえてきました」と書いていたので『のだめカンタービレ』を読み始めたこと、会社の先輩とバンドを組んでくるりをカバーしたこと、2014年のロッキンで岸田さんが変な曲やりますと言って演奏された曲が本当に変な曲で後になって『Liberty & Gravity』という曲名を知り気付けばやみつきになっていたこと、そのロッキンのダイジェスト映像がWOWOWで放送され私の斜め後ろ姿が映っていたがウォーリーをさがせの最終回ぐらい見つけるのが難しかったこと、一時期ライブ後にステージの上からくるりと観客の集合写真を撮っていたのでそれに映り込もうと2015年のビバラロックで前方の位置を確保したのにそのときは写真を撮らなかったこと、そのビバラロックで『ガロン』を演奏してコアなファン以外置き去りにするくるりが格好良かったこと、くるりが好きなので千葉県にある久留里(くるり)線の久留里駅に住もうと思ったけど会社まで片道二時間半以上かかるのでやめたこと、2015年に初めて音博に行くことに決めたがシルバーウィークかつ初動が遅かったためホテルがなかなか見つからず本当に『宿はなし』状態になりそうだったこと、『京都の大学生』で歌われているように京都で206番のバスに乗って後ろの席に座ったこと、くるり結成20周年記念ライブ生配信をサッカーの代表戦を観ながら視聴していて「サッカーの試合を見ながらくるりのライブも堪能する俺の視野の広さ、今の日本代表に必要なんじゃないのか~???」とツイートしたらそれが配信中に岸田さんに読まれたこと、『京都の大学生』を聴きながらパリの街を歩いたこと、コロナ禍のGWに『ばらの花』の多重録音動画を作ってみたこと、オンラインで音博を見たこと、コロナ禍で初めて見たライブがZepp Hanedaのくるりだったこと、そして今回「3年ぶりに梅小路公園で行われた京都音楽博覧会を雨に打たれながら見たこと」がまた自分にとってくるりを語る上で欠かせないものとなった。

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 音博開催を記念して緑色にライトアップされた京都タワーの前を通り過ぎてホテルへ。着替えて京都駅近くのカラオケボックス店でのくるりファンの集いに参加した。明日もあるので抑えようと思ったけれど、メニューにあった「焼酎ダブルロック」のパワーワードに抗えず、気がつけば飲み過ぎてしまった。深夜1時過ぎにお店の外へ出ると、京都タワーは消灯していて、またこの日が終わってしまったのだと強い寂寥感に襲われる。

 翌日、私はまた京都の行きたい場所リストを駆けずり回る。最終日もあいにくの天気だったけれど、それでも京都は最高だからずるい。機会があれば、音博とは関係なくゆっくり京都を見て回りたい。

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 京都駅で阿闍梨餅を買い、夕方、帰りの新幹線に乗り込んだ。行きたい場所リストはほとんどチェックが入っていない状態だったけれど、久々の音博を最後まで見届けられたことに対しては大きなチェックマーク。

 新型コロナウイルスが奪っていったものはたくさんあって、そのうちの一つが音楽イベントであり、更にそのうちの一つが梅小路公園で行われる音博であり、それは奪われた全体から見るとほんの些細なちっぽけなもののように思えるけれど、今回久しぶりに現地での音博に参加してみて、それはただの音楽イベントではなく、自分にとって特別なものになっていたと改めて思うのであった。

 のぞみ42号は午後8時過ぎに東京に到着した。東京の街に出て来ました、と『東京』の歌い出しを胸に抱いて上京してきたのがもう十余年前。東海道新幹線の車内で、浜松町駅を過ぎたあたりで建物の隙間から見え隠れする東京タワーを見るたびに、いつしか東京は自分にとって帰る場所になっていたのだと実感する。

 音博での演奏を思い返しながら、『東京』の再生ボタンを押し、山手線のホームへと向かった。

金沢旅行(プロローグ編)

——ものうさと甘さとがつきまとって離れないこの見知らぬ感情に、悲しみという重々しい、りっぱな名をつけようか、私は迷う。

 フランスの作家、フランソワーズ・サガンは処女作『悲しみよこんにちは』をこのような書き出しで始めているが、私は金沢訪問のための休暇に夏休みという開放感に満ち溢れたりっぱな名をつけようか迷っていた。いや、迷うも何も、出発日が九月でしかも秋分の日であるからにはもはや紛れもない秋、誰かさんが小さい秋の一つや二つ、場合によっては巨大な秋を見つけている頃合いである。かく言う私もマクドナルドで月見バーガーを食べ、モスバーガーで月見フォカッチャを食べ、どこか歪んだ形で秋の訪れを体感していた。これで夏休みなどとぬかしていては、秋分の日に休む権利が剥奪されてしまいそうである。

 元はと言えば八月中旬に訪れる予定だったのだ。元・夏休みなのだ。八月、会社の夏季休暇に金沢訪問の計画を立てていたのだが、出発予定日に喉の違和感を覚えた。SNSで「コロナ 初期症状」で検索すると「睡眠中のエアコンで喉いためた感じ」と出てくるその軽い感じがまさにそのときの私である。熱もなく、コロナ禍でなければのど飴でも舐めながら空港へ向かっていたのだが、東京の新規感染者数が連日二万人超のこの状況下で、私の心は揺らいだ。脳裏に浮かぶのは旅先で発症して苦しむ私の姿。帰れなくなったらどうしよう現地の人に迷惑かけたらどうしよう……。パッキングが完了した荷物を前に一人、飛行機出発に間に合うギリギリの時間まで悩んだ末に出した答えは全キャンセル。飛行機もホテルも金沢21世紀美術館の企画展も全てである。キャンセル作業が完了した後、私はこの感情に、悲しみという重々しい、りっぱな名をつけた。

 さあ、もう私は腹を括ったぞ、どっからでもかかってきやがれ新型コロナウイルス。そう思って、その日一日は部屋でゆっくり休んでいたが、一向にコロナの足音が聞こえてこない。喉の調子も悪化せず、むしろ良くなってきて、Official髭男dism『Pretender』の高音部も歌えそうなぐらいである。コロナへ、グッバイ、君の運命のヒトは僕じゃない。

 残りの夏季休暇、私の目の前にはただただ空白の時間が広がっていた。激務が続く中、当然の権利として頂いたせっかくの連休なのに。最悪だ。最悪の夏季休暇である。最悪をちょいワル程度にするために、翌日は急遽日帰りで富士吉田を訪れたのだが、私の心は既に金沢、心ここに在らずといった状態で富士山を拝んできたのはまた別のお話。

 近いうちにリベンジを。金沢卍リベンジャーズ。全く、出発日朝にタイムリープしてそのまま飛行機に飛び乗りたい……。

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 真夏のピークが去ったと天気予報士がテレビで言ってたかどうかは分からないが、とにかく九月がやってきた。九月に二回ある三連休、そのうちの二回目にようやく金沢に行ける見込みとなった。この一ヶ月、YouTubeで金沢旅行のVlogを見たり、金沢出身の文豪、泉鏡花室生犀星の文学作品を読んだりして、準備は万全である。シミュレーションが過剰になり、もはや行く必要ないのではというぐらい脳内金沢を堪能してしまったが、やはり現実の金沢はそれを飛び越えてくるぐらい素晴らしい場所なのであろう。

 今回こそは、規則正しい健康的な生活をして、少しの喉の違和感も入り込む余地のない体調万全な状態で当日を迎えよう。

 そんな私に不穏な影が忍び寄っていた。台風である。台風14号が一回目の三連休に全国ツアーを行い、その次の三連休は大丈夫だろうと高を括っていたのも束の間、南の海上でまた新たな台風が発生していた。再び金沢行きが延期になってしまったらどうしよう。そうなったらもう永遠に金沢の地を踏むことはできないような気さえしてくる。そんな折に日本テレビで放送されていたドラマ『初恋の悪魔』第9話で、小鳥琉夏(演:柄本佑)がこんなことを言っていた。

——僕の知る限り、悪いことというのは何も心配してない時に起きる。悪いことが起きるんじゃないかと思ってる時は大抵何も起きない。つまり、人間は心配してもしょうがない。

 台風到来を心配している私には結局悪いことは起こらない、ということか。でもそれって結局心配していないことになり、悪いことが起きるということになるのでは? いやそうなるとつまりは心配していることになり……とこの思考のループがまた新たな台風を生み出しそうなので、考えるのをやめた。とにかく自然を前に人類は無力、最終的には「人間は心配してもしょうがない」という同じ結論に辿り着いた。

 

 ……前口上が長くなってしまった。金沢旅行の記事のはずが、ここまで文章を書き連ねているのに、まだ金沢に到着していない、出発すらしていないとはこれいかに。慌てて記事のタイトルに(プロローグ編)と付け加え、ひとまずこの記事はこのあたりで閉じることにする。

 台風が接近する中、果たして私は無事金沢を訪れ、旅を満喫することができたのであろうか!? そして肝心の体調は!? と煽ってもSNSで私の金沢満喫垂れ流し投稿をご覧になった方も多いであろう。そこにアップされた数々の写真・動画について丁寧丁寧丁寧にキャプションをつけるような作業をしていこうと思う。

 金沢旅行、本編につづく。

 ズボラな私なので、アップされないときは想像でお楽しみください。

水戸訪問(後編)

 何かやらなければならないことがあったような気がしていたが、これだ。このブログの水戸訪問の後編を綴るのをすっかり放置していたのだった。三月下旬に訪問してから激動の四月が過ぎ去り、いざゴールデンウィークでじっくりこの日を振り返ろうと思っていたところのゴールデンカムイ全話無料配信、私の心は茨城を越え北海道そして樺太を放浪していた。かくして水戸滞在二日目はベールに包まれたままであり、そのベールを開いてみたところで特段興味深いことがあるわけでもない。iPhoneのヘルスケアのアプリを開いてみると、この日は久々に2万歩超を歩いていたようだが、その歩数の多さに反して特に語るべきこともないように思える。行く先々で深い知見なりなんなりが得られたのであれば、長文を認める甲斐があるのだろうが、楽天マガジンに入っていた「るるぶ茨城」のモデルコースを駆け足で回ったところで、この記事を読むよりガイドブックに目を通したほうがいいのではないか。しかし、一日目を(前編)として公開してしまったからには(後編)も公開しないと気持ちが悪い。それに、「書く」という行為を通じてこの日に何らかの意味を与えられるかもしれない、とこうして五月中旬にようやくキーボードを叩いているわけである。

 そんなわけで、もはや一ヶ月以上前となったこの日の出来事を今更ながら振り返ってみることにする。前述の通り、朝から「るるぶ茨城」のモデルコースをなぞるようにひたすら歩いた。水戸城の大手門をくぐり、東照宮を訪れ、昼間の水戸芸術館のタワーを見上げる。前日から天気は回復し、行く先々で春の息吹を感じられるが、時折吹き付ける風にまだ冬の名残りが感じられた。

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 途中、るるぶに小さく載っていた「黄門さんおしゃべりパーク」を訪れた。街の一角に徳川光圀銅像が立っていて、隣の印籠のボタンを押すと話しかけてくれるらしい。一体どんな金言が聞けるのだろう、これからの私の生き方に影響を与えてくれるような素晴らしい言葉を是非、と期待しながら印籠のボタンを押してみる。……返事がない、ただの銅像のようだ。もう一度押してみるものの、やはり何も語ってはくれない。何度もボタンを押し、銅像を見つめる。見つめ合うと素直にお喋り出来ないタイプなのかと思って視線を外してボタンを押す。それでも沈黙である。時はコロナ禍、会話による飛沫の拡散について喋らないことで注意喚起を促しているのだろうか、さすが黄門様である。

 祖母が健在だった頃、実家のテレビによく映し出されていた水戸黄門、チャンネル権のない幼少期の私はいつも同じような勧善懲悪の展開に辟易しながら見ていたが、今となってはその微妙な違いに注目して楽しめるような気もする。

 黄門さんしゃべらずパークを後にして、偕楽園へと向かった。時刻は正午に近づいていた。その間、移動はずっと徒歩であり、午前中の段階で足が労働基準法違反を訴えている。偕楽園駅前の段差に座り込んで、コロナ禍で衰えた体を憂う。以前は海外旅行に行くと毎日2万歩超を歩いていたのに、こんなにも歩けない体になっていたのか。

 それでも少し休むとまた歩き出せるような気がしてくるのは昨日暴食した納豆の力か。立ち上がり、足に鞭打って偕楽園入り口への上り坂を上る。

 梅の見頃には少し遅く、桜の見頃には少し早い、という微妙な時期だったが、それでも偕楽園の梅は見事であった。さすがは日本三名園のひとつである。偕楽園の構内に、徳川斉昭が詩歌の会や茶会の場として設計した好文亭という建物があった。追加料金を支払い、建物の中へ。入場料を払って入った偕楽園の中でさらに入場料を負担する、サブスクの新作映画みたいな感覚だったが、その価値はあった。木造平屋建のどこか懐かしい雰囲気の中、様々な部屋を見て回る。圧巻は三階の楽寿楼で、千波湖を一望するその眺めに目を奪われた。都会の喧騒を離れ、ここで余暇を過ごせたらどんなにいいだろうと思うほどである。

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 偕楽園を出て、千波湖の畔のカフェで少し遅い昼食を取った後、バスに乗って茨城県庁へ向かった。

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 初めての場所でバスに乗るのは緊張する。前から乗るのか後ろから乗るのか、乗車券は取るべきか、Suicaは使えるのか。国が統一した見解を出してほしい。前に並ぶ親子連れに倣い、後ろから乗ってSuicaをタッチする。

 バスを降りて少し歩くと、目の前に茨城県庁がそびえ立っていた。

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 目的は上層階の無料の展望台、エレベーターで25階へ上がると、茨城県の壮大な景色が広がっていた。都内あるいは旅行先でいくつか展望台に登ったことがあったが、それらの景色とは違う素朴な茨城県の景色。高層ビルなどなく、家々がずっと奥まで並んでいる。電源付き休憩スペースがあり、勉強している学生がたくさんいた。こんな高いところで勉強していたら、さぞかし偏差値も高くなるのだろうか、そんなわけはなかろうが、それでもこんな環境で勉強できる学生たちが少し羨ましくもなる。私もしばし足を休め、読みかけの小説をこの茨城県庁の25階で読みすすめることにする。

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 少しずつ日が低くなり、夕日が茨城の街を赤く染めていた。私の短い水戸の旅も終わりである。

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 落陽を見届け、タクシーで水戸駅近くのホテルへ、預けていた荷物を受け取って常磐線特急ひたちに乗り込む。

 2021年都道府県魅力度ランキングで最下位だった茨城県だったが、二日間この地を満喫した。どういう基準でランク付けがされているのか分からないが、ランキングに惑わされず各々が自分の感覚で魅力度を決めればいい。そして、遠く海外には行けずとも、近場で非日常を味わうことは十分可能なのだ、ということを脳内の黄門様が語りかけてくる。

 常磐線特急ひたちはあっという間に上野駅に到着した。急に襲いかかる現実感、重い気分に水戸黄門のテーマソング『あゝ人生に涙あり』の歌詞が沁みる。人生楽ありゃ苦もあるさ。その後、怒涛の「苦」が襲いかかってくるのはまた別のお話。そろそろ楽したい。

水戸訪問(前編)

 三月の最終土曜日、お昼過ぎに私は常磐線特急ひたち11号に揺られていた。窓の外は曇天で、東京から千葉に入ろうかというところで窓に雨のラインがほぼ真横に入る。せっかく窓際の席を選んだのに車窓を楽しむことができない、と残念に思っていたが、雨はすぐ上がって、車窓にはのどかな風景が映し出された。

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 上野駅を出発してから約一時間後、私は初めて水戸駅に降り立った。

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 茨城県、というと、音楽フェスやネモフィラを見るためにひたち海浜公園を何度か訪れたことがあった。その際にいつも通り過ぎていて、納豆好きとしてなんとなく気にはなっていた水戸駅にこのタイミングで訪れることになるとは。

 数日前、Yahoo!JAPANのトップページに一枚の塔の写真が表示されていた。側面は三角形を組み合わせてできており、それを斜めに捻じ曲げて伸ばしたような奇妙な形のその塔の上方は青、下方は黄色にライトアップされていた。心の中の松田優作が「なんじゃこりゃ〜!」と叫んだ直後、画像をクリックし、それが「水戸芸術館」という建物であること、三月末までウクライナの平和を願って特別にウクライナ国旗の色にライトアップされていることを知った。

 最近旅行らしい旅行もしていないし、会社の福利厚生のポイントもたまっている。水戸芸術館を訪れ、納豆の聖地で納豆に舌鼓を打ち、偕楽園で春を感じるのもよかろう。日帰りでもできそうな近場だったが、ゆっくり一泊二日で訪れることに決めたのだった。

 事前に目をつけておいた駅ビルの中の「常陸野ブルーイング水戸」というお店で、茨城県のブランド牛「常陸牛」を使用したハンバーガーとクラフトビール飲み比べセットを頼む。ハンバーガーの美味しさは言わずもがな、普段はビールなどあまり飲まないのにこういうところで飲むビールのなんとうまいこと。ビールは誰といつどこで飲むかで味が変わってくる不思議な飲み物だと思う。今にも雨が降り出しそうな水戸駅前の広場を眼下に眺めながら、三種類のビールを行き来していると、アルコールが体に回り始める。九州男児ましてや鹿児島県は奄美地方の出身、普段はアルコールに強いはずの私がこれぐらいで酔ってしまっては、故郷の両親、親戚、友人らに合わせる顔がない。これはあれだ、このところ多忙を極め疲れがたまっていること、睡眠があまり取れていないことが原因であろう、と言い訳をこしらえ、お店を後にした。

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 駅の近くのホテルへと向かい、チェックインすると即ベッドに倒れ込んだ。そもそもこの日は天気が悪く、本格的な観光は明日にしようと考えていたので、罪悪感ではなく心地よい疲労感とともにしばし休むことにした。

 目が覚めるとすでに外は暗くなっていた。とりあえず、この小旅行の主目的であるライトアップされた水戸芸術館へ向かうことにした。水戸駅からは徒歩二十分、歩くには少々遠いがのんびり水戸の街を見ながら向かうのもいいだろう、と駅前から続く大通りを歩き始める。コロナ禍だからなのか、普段からそうなのか、午後七時を回ったところで通り沿いのお店はだいたいが閉まっていた。

 水戸芸術館のアートタワーの頭の部分、青でライトアップされた箇所が周囲の建物の上方から顔を覗かせた。近くまで来たようだ。水戸芸術館の広場の入り口の逆方面から向かっていたようで、敷地をぐるりと回る形になったが、その分、実際に塔を目にしたときの感動が強くなったような気がする。写真で見たとおり、青と黄色にライトアップされた水戸芸術館の塔が、落ち着いた水戸の街中に存在感を放って屹立していた。普段は展望室の見学も可能だが、コロナ禍でそれが中止となっていたのが残念である。それでも、ライトアップされてきれいに輝く塔を外からじっくり眺め、その姿を目に焼き付ける。世界の平和を願うばかりである。

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 駅へと引き返す途中、納豆料理で有名な「てんまさ」というお店に立ち寄り、納豆御膳を食べる。納豆オムレツイカ納豆、まぐろ納豆、梅納豆、納豆天ぷら、納豆汁、納豆オールスターズである。納豆嫌いの人からしてみれば地獄かと思われるお盆の上も私にとっては天国。小学生の頃、好き嫌いが多かった私がなぜか納豆は大好きで、給食の時間、納豆が嫌いな同級生たちから納豆をもらい、パックをトレーの上に積み上げ、水戸城の城壁を築いていたことを思い出す。日常的に納豆を食べ続けてきた。自分の誕生日が納豆の日、7月10日でないことが残念だった。織田裕二Love Somebody』の曲中で繰り返される「never」が「粘(ねば)〜」に聞こえて仕方がなかった。人間の体重の60%は水分だと言われているが、私の体重残り40%はナットウキナーゼなのかもしれない。今だに多少好き嫌いがある私が、会社の健康診断で健康体を維持できているのも、日本を代表する健康食、納豆の力によるところが多いのではないだろうか。今宵、ようやく聖地で納豆を食すことができ感慨深い想いでいっぱいである。

 たくさんの納豆たちを完食して店を出る。腸内の平和を願うばかりである。

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脂肪と郷土愛

 ゆっくりと12月のあかりが灯りはじめ、慌ただしく踊る街を誰もが好きになる頃、オミクロン株の恐怖が襲いかかろうとしていた。年末年始に四年ぶりの帰省を企てる私の脳内では、奥田民生が「今年は久しぶり田舎に帰るから」とあの名曲の一節を口ずさんでいたのだが、いつの間にかその歌声が、新規感染者数を告げるニュースキャスターの声に変わっている。

 2019年はスペイン、2020年はクロアチアで年始を迎え、さすがにそろそろ実家に帰らないと、と思っていた2020年春に新型コロナウイルスが流行り始め、2021年は初めて東京で新年を迎えた。ワクチン接種の効果か、2021年の暮れには新規感染者数が徐々に減少し、今回なら帰省できる……!と思っていた矢先の聞き慣れぬ五文字「オミクロン」、もうこれ以上、新しいギリシャ文字の知識を増やしとうない!

 じわじわと上昇する都内の新規感染者数は、それでもなんとか二桁にとどまっていた。これなら帰省できると思えど、鹿児島県のコロナの状況を確認して唖然、12月に入りずっと県内の新規感染者数ゼロだったのが、中旬に何と鹿児島県で唯一、故郷である沖永良部島に突然感染者が発生していた。一週間ほどかけて計11人の感染者、人口約1万2千人の島での感染者1人は、東京の人口に換算すると1千人超が感染していることになり、感染者1人でもはや緊急事態宣言のレベルなのである。これはもしかしたら東京よりも強い緊迫感が漂っているのではないか。事実、母親からの電話には島民の危機感が感じられ、故郷の友人たちと久々に黒糖焼酎を飲み交わす至福のひとときが遠のいていくようである。

 旅行に行けずとも陸でためたマイレージ、そのマイレージを大量に消費して予約した航空券をキャンセルすることなく、帰省する12月29日を迎えたが、果たしてこのタイミングで帰省するのは正しいのか否か、そんな想いを抱きながら羽田空港へと向かう。凍てつく寒さからしばし逃れられる、という高揚感よりも、自分がコロナを持ち込みやしないか、逆に島で感染するようなことはないだろうか、という不安のほうが強い。それでも、機体が宙に浮いた瞬間、久々の旅行気分を味わっている自分がいた。窓の外には富士山、初夢でまたお会いしましょう。

 羽田から三時間かけて那覇へ、乗り継いで一時間弱で沖永良部島に到着する。飛行機の窓から見える故郷は雨にけぶり、私を歓迎する素振りが全く見られない。ナイキのエアフォースワンで踏む四年ぶりの沖永良部の地は、雨に濡れる沖永良部空港アスファルトであった。

 迎えに来てくれた父の、深く刻まれた皺や、染めるのをやめてしまった頭髪に老いを感じる。父親というより祖父の顔。弟に四人目の子供が生まれたことも「じいじ感」を助長させているのだろうか。前回帰省時には小学二年生だった弟の長男は六年生となった。幼少期の四年間はとてつもなく長い期間で、甥っ子たちからしてみれば私は、年始に会うとたくさんのお金を落としてくれるレアキャラなのかもしれない。

 父の運転する車から外を眺める。道路沿いの歩道にソテツの木が植わっていて、その向こうに田畑が広がっている。その景色は、昔と変わっていないはずなのにどこかよそよそしく見える。

 高校を卒業するまでの18年間を島で暮らした。高校がかろうじて一校だけある小さな島で、高校卒業後は就職・進学のためにほとんどの人が島を離れるが、その後結局Uターン就職する人も多い。「将来は島に帰るの?」島を離れてから幾度となく浴びせられたこの質問に私は「帰る予定はない」と即答していた。コンビニもマクドナルドもショッピングモールもない島での生活は退屈で、テレビに映し出される都会へのあこがれが退屈さを助長させた。良くも悪くも牧歌的な空気の中にあって、特に志望校を目指して勉学に励んでいた受験生の時分は周囲とのギャップを感じていたのかもしれない。私のベクトルは完全に島の外へ外へと向いていた。ちょうど反抗期真っ只中の頃に島を離れたことも関係しているのだろうか、思春期特有の、親と接するのが煩わしいような気持ちがずっと続いている私は、ホームシックなど抱いたことがなく、地元への、そして実家への執着心は全くなかった。

 数年前に祖母が倒れ、入院生活が始まった後は、これが最後になるかもしれないと年に一度は帰省するようにしていた。90歳を過ぎ、大往生を遂げた後は、また凧の糸が切れてしまったように実家を気にかけることなく、都心での生活を謳歌し、年末年始の休みは海外に飛んだ。

 一部、新型コロナウイルスの影響もあるとは言え、四年間の不在は長すぎた、と思う。懐かしさと、違和感と、疎外感と、様々な感情が混ざりあった形容しがたい想いを抱きながら、父の運転する車に揺られ、感情まで揺さぶられる。

 空港から30分ほどかけて、実家に到着した。母と、近くに住んでいる弟と再会する。冷蔵庫に貼られた健康情報、無造作に置かれている相田みつをの詩、全盛期のGLAYのポスター、家中に点在する稲中卓球部の漫画本、そういった一つ一つが無性に懐かしい。

 大晦日、そして元日と、親族が私の実家に集まり、畳部屋の重厚なテーブルの上には、寿司、すき焼き、焼き肉など私の大好物が並んだ。そして、この四年間で生まれた子供たちと初対面を果たす。気がつけば父方、母方の祖父母が皆この世から去っていて、こうして新しい命が生まれている、その生命のサイクルが繰り広げられる場面に私が不在であるという事実が寂しくもある。と同時に、自分が不在だとしても皆にぎやかに島の生活を送っているのだろうという安堵感もあった。

 年末年始の休みはあっという間で、箱根駅伝の往路が始まった1月2日、私は一足先に東京への復路についた。親の運転する車で空港へ向かう。窓の外の田舎の風景と、老いた両親。島の風景は全く変わっていないように思えるけれど、そこに暮らす人々は着実に年老いていく。景色が変わらないからこそ余計に、人の変化を痛感してしまうのだろうか。そして、実家をほとんど気にかけることのない私は、「老い」や「死」から目をそらし続けているのではないか。

 沖永良部空港の空は断続的に雨が降る悪天候で、また私を送迎しようという気が全くない。見送りに来てくれた両親と別れ、手荷物検査を終え、狭い待機場で待つ。

 滞在中、子どもたちに囲まれ、にぎやかに暮らしている家族を見て、自分一人が無理に帰省しなくてもいいだろう、とふと考えた。それでも皆、私の帰省を喜んでくれ、滞在日数の短さを残念に思ってくれる。私は紛れもなく家族の一員であり、ここにいることが求められているのだ、という実感は四年という長い不在があったからこそ感じたことなのだろうか。これまでも、そしてこれからもずっとその最中にいると思っていた反抗期のようなものから、ようやくここで抜け出したような、そんな気がした。

 40人乗りの小型旅客機が離陸する。窓の外には、海岸線に打ち寄せる波、区画整理された田畑、点在する低い建物、そのどれもにうっすらと灰色の膜がかかっていた。祖母と両親と弟と五人で暮らしていた記憶の中の島の景色、自然の原色を伴って思い出されるその景色とは対照的である。いつの間にかずいぶん遠くまで来てしまった。「将来は島に帰るの?」と内なる声が私に問いかけ、私は相変わらず「帰る予定はない」と即答する。だが、それで本当にいいのだろうか。少し後ろ髪をひかれる思いで、他の同級生と同じように島に戻って暮らす自分の姿を想像してみる。

 その思いを断ち切るかのように窓の外の景色は後方へと追いやられていく。気がつけばもう海しか見えない。

ワクチンクエスト 〜そして多摩地区へ〜

 新型コロナウイルスのワクチン接種券が届いたのは六月末のことだった。これで私は2021年の夏を心置きなく楽しむことができる。脳裏に浮かぶのは青い海、白い砂浜、打ち寄せる波。真夏の大冒険を思い描きながら、ワクチン予約開始の日時を待った。

 私の住む都内某区の予約受付開始は7月26日(月)14:00で、接種開始はその翌日からであった。悠長に構えていたせいか、少し遅れて予約サイトを開いたときには「予約は満枠になりました」という一文。キャンセルが出たら予約できるかも、と思い、日をおいて何度もサイトに入ってみるものの、空きが全く出ない。予約できないままどんどん時間が経過していき、私の脳内にはシャ乱Q『シングルベッド』が流れ始める。

――恋は石ころよりもあふれてると思ってた なのにダイヤモンドより見つけられない

 はたけの感情的なギターソロがこんなにも胸に響いてくることがかつてあっただろうか。新型コロナウイルスのワクチンは誰でもすぐ接種できると思ってた、なのに全くその気配がない。

 八月に入り、新規感染者数が急増、デルタだかラムダだかシロタだかよく分からない株の名前を目にするようになる。謎の横文字は総じてこちらの恐怖心を煽ってくる。社内でも感染者がぱらぱらと出始め、夜、シングルベッドの上で恐れおののく私。

 早く打ちたい。

 もう居住する自治体に頼っていられず、なんとか早く打てる方法をSNSで模索し始めた。そんなとき、多摩地区でワクチン接種対象者を拡大したという情報を入手した。対象者について、ウェブサイトには以下のような記載があった。

――多摩島しょ地域、東京23区内で営業を行う中小企業の経営者、従業員、個人事業主等の方々が対象となります。(筆者注:現在は再び対象者が制限されている可能性があります)

 東京23区に対象を広げてくれたことに感謝する一方で、果たしてその後の条件に私は合致するのだろうか、という疑問を抱く。私が所属する企業は中小企業なのか。連結で考えると大企業に属するような気がするが、単体では職域接種の最低2000回(1000人×2回接種)に達していない。職域接種が行われなかった、すなわち中小企業という認識を持って、予約を進めようとしたが、もう一つ「営業を行う」という言葉も気になった。私は事務職であるが、これは会社として東京23区内で営業活動を行っていればよかろう。拡大解釈に次ぐ拡大解釈で、私はとにかく予約を完了したのである。

 サイトの申請フォームには属する企業名と電話番号を入力する欄があった。もし多摩地区のワクチン接種センターから「おたくの社員、対象者じゃありませんよ」と電話がかかってきたらどうしよう、という一抹の不安があったが、悪いのは私ではなく曖昧な基準、いや、なかなかワクチンを行き渡らせることができない自治体、いや、新型コロナ対策に後手後手の政府、いや、発生時に然るべき対策を行っていなかった某国……。RPGを進めるにつれて敵が強くなっていくように、考えれば考えるほど脳内の怒りの矛先も個人ではどうしようもないレベルになってしまうので考えるのをやめて、接種の日をおとなしく待つことにした。

 8月14日(土)の接種日、とりあえず五体満足、新型コロナウイルス未感染(恐らく)の状態でこの日を迎えられたことに喜びを感じる。接種会場へ向かう前に近所の薬局にワクチン接種後の解熱剤を求めたところ、カロナールを小分けにして処方してくれた。準備万全である。

 予約するに至る時間も長ければ、会場への移動時間も長かった。自宅から一時間かけて接種会場へ向かう。ワクチンを接種できるまでのあれこれが私にとっての真夏の大冒険、ワクチンクエストであった。

 多摩センターの駅で下車し、接種センターへ。予約時刻の15分前に入場し、受付、診察、接種、待機、退場と流れるように終えた。会場に着いてしまえばあっという間である。

 とりあえず一度目の接種が終わり、少しの安堵とともに会場を後にする。

 接種会場の近くにはサンリオピューロランドがあった。二度目の接種を終えた暁にはその開放感からここに足を踏み入れてしまいそうである。

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 そして接種から一日が経過。腕の痛みが気になるが、この記事を綴るほどの余裕はある。