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東海地方行脚の旅3

 昨夜降っていた雨がまだしぶとく名古屋の街を濡らしていた。ホテルで朝食を取った後、傘を差して雨の栄を歩く。大学生の頃、街に出かけると言うときは今住んでいる東京ほど選択肢がなく、せいぜい栄か大須観音ぐらいで、休日にそこへ行くと結構な確率で知人と遭遇した。特に名古屋PARCO島村楽器タワレコは軽音楽部員の出現率が高い場所だった。今や誰ともバッタリ会うことなどまずない栄の街、少し歩くたびに懐かしさが込み上げてくる。

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 思い出すのは日韓W杯の光景で、午後の講義をサボって大学近くの私の下宿先で友人らとチュニジア戦の勝利を見届けた後、栄の街へ繰り出したことがあった。日本代表がW杯で初めての決勝トーナメント進出を決めた直後の栄の街は青く染まっていた。社会人になってからもW杯が来る度に胸を躍らせ一喜一憂しているが、日本のサッカー界が大きく前進した歴史的なあの瞬間を名古屋で体験したことは忘れられない。

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 変わらないようでいて、確かに変わっている街を、郷愁に満ちた間違い探しのような感覚で歩く。雨を避けて地下街へ。サカエチカを歩き、クリスタル広場に差し掛かったときだった。

 ない。

 広場の中央に噴水とクリスタルのオブジェが設置され、その前で待ち合わせをするのが栄での待ち合わせの定番だったはずが、そこはただの平地になっていた。

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 クリスタルがなくなってしまったクリスタル広場、一部の喫茶店で一日中提供されるモーニングみたいに、名が体を表していないのもまた名古屋らしさ、なのだろうか。それとも、誰か大切な人と待ち合わせをする人々の心にクリスタルが宿っていればそれでいいということなのか。調べてみると、前回私が名古屋を訪れ、正にここで友人と待ち合わせをした半年後の2016年10月の工事で撤去され、その後イベントスペースに生まれ変わったとのこと。クリスタルが失われてショックを受けるのはファイナルファンタジー5以来である。

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 気を取り直して昔住んでいたいりなか駅へと向かうことにする。地下鉄の車両、流れてくるアナウンス、名城線から鶴舞線に乗り換える動線がいちいち懐かしい。

 御器所を通過する。地元民以外には難読地名の御器所(ごきそ)には昭和区役所があって、田舎から名古屋に出てきた私がまず引っ越しの手続きのために地下鉄で向かった先だった。二十歳前にして初めて一人で電車に乗れた当時の私は一つ大人になったような気がして、普通に子供が一人で乗っているその横でいたく感動していた。私にとっては、ニール・アームストロングが人類で初めて月面に降り立ったあの瞬間ぐらい歴史的な出来事。御器所に降り立った私の足跡も形として残して、名古屋市美術館にでも展示してほしかったところである。御器所は私の心の中の初心者マークを捨てた場所だった。

 そして地下鉄はいりなか駅へ到着。駅のホームも改札も全てが懐かしい。当時はICカードなんてなく、切符かユリカというプリペイドカードで通っていた改札を、iPhoneをかざして抜ける。階段をのぼり、外へ出て、曇天の空の下、飯田街道沿いに並ぶお店をチェックしていく。

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 マックがない、ブックオフがない、異人館らーめんがない。鳥貴族ができた。ココイチと定食屋のマリオは健在。三洋堂書店がないと思ったらドラッグストアの二階に追いやられながらもしぶとく生き残っていて、足繁く通った吉野家は元の場所にあった。

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 昔を思い出して吉野家に入り、よく食べていた並と卵を注文する。建物も綺麗にリフォームされている上に、東京でも頻繁に食べる懐かしくも何ともない牛丼の味は、懐メロを聴きすぎて全然懐かしくなくなるのと似たような感覚で、この行為にどんな感情を抱けばいいのか分からなくなってくる。だけど確かに当時の私はここで卵をかき混ぜ、牛丼の上にかけて食べていた。当時280円だった並盛が今や448円になっていた。

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 物価高を憂いながら大学へ向かった。途中にあるみどり楽器は、私がいつもギターの弦を購入していたお店で、まだ存在していることが嬉しい。愛知県出身のスキマスイッチの二人もこの楽器店にあるスタジオで練習していたようだ。大学の最寄りの楽器店なので、軽音楽部の後輩らもここにお世話になっているのかも知れない。楽器店の前を通り過ぎ、いりなか駅近くの学生寮に住んでいた一年生の頃の通学路をひたすら歩いていく。通学路にあった店舗も多くがなくなっていた。バーミヤンがない、コンビニがない、NAI-NAI-NAI 恋じゃNAI、とシブがき隊が脳内再生されたところで母校に到着した。

 正門前には部外者の立ち入りを禁ずる旨の張り紙が貼ってあり、部外者の立ち入りを阻止すべく守衛が立っていた。OBである私は果たして部外者なのだろうか。学生たちが数多く行き交う平日ならまだ学生らに混じって自然と学内に入ることができたかもしれないが、この日は土曜、そして春休みでもある。閑散とした正門前で私は戸惑っていた。そんな躊躇した思いが挙動不審さを助長させ、これは見た目にも良くないぞ止められてしまう。私はこの大学の在学生でこれからテニスサークルの練習があるということにしようか。いや、証拠を要求されてしまったら、ラケットもないし、テニス経験者だけが持ちうる美しいフォームも見せることができない。よし、ここは正攻法で行こう。止められたときに伝えるべきことをシミュレーションする。この大学の卒業生であり学生番号は◯◯、数年ぶりに近くまで来たので是非母校を訪問したい、もし入れなかったらこの大学で過ごした素晴らしい思い出に悲しい思い出が上書き保存されてしまう、どうか通してください……!!!

 すんなり通れた。声をかけられることもなく堂々と校内へ。全ては杞憂に終わった。

 学内のメインストリートを歩く。懐かしいことは懐かしいのだが、どんよりとした天気、そして校内は閑散としていて、懐かしさにうら寂しさが混じった奇妙な感覚で歩く。よくバンドの練習をしていた第一食堂の地下のスタジオは建物ごと跡形もなく消え去っていて、思い出の数々を踏みにじって真新しい校舎が屹立していた。変わったことは数多くあれど、それでも6年間を過ごした場所。その6年間は遥か遠くの出来事になってしまって、思い出すら心の隅の隅の、ルンバが見落としてしまいそうなぐらいの片隅に追いやられているが、私にとっては相変わらず大切にしたい場所である。

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 大学を後にして、引き続き周辺を散策する。昔住んでいたマンションの前を通り、よく半額の惣菜を買っていた松坂屋ストアが医院になっているのを確認、そして、在学中に新しくできた名古屋大学駅から栄に戻った。

 夜、世界の山ちゃんの前で学科の友人と待ち合わせをして、手羽先を食べた。我々が属していた外国語学英米学科は男子学生が少なく、だからこそ今般のWBCの日本代表のように一体感を持って、全員野球で課題や試験に立ち向かっていた。卒業後も続くと思われたその一体感は呆気なく歳月に負けてしまった。歳月は強い。大半が、某テレビ番組ではないが、あいつ今何してる?状態になってしまった。幻の手羽先を食べながら、あの頃築いた関係も幻だったのだろうか、と考える。時を経て、各々が大学時代の繋がりより大切にしたい関係性に恵まれているのだとしたら、それはそれで素晴らしいことなのかもしれない。みんな元気にしているだろうか。私は、あの頃流行っていたブログで、頻度こそ落ちたものの今もこうして声を上げ続けている。

 部活も勉学も充実していた大学時代、あの頃の僕らはきっと全力で少年だった。同じ専攻を持つ友人らとの時間は、軽音楽部とはまた違う形での充実した時間が流れていて、ランチタイムに学食で集まっていた当時のように、いつかまた同窓会でもできたらと思うのである。

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