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東海地方行脚の旅4

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 2016年2月13日、私は名古屋駅前の超高層ビル、ミッドランドスクエアの42階にいた。お世話になった軽音楽部の先輩の結婚式に参列していた。久々に部活の先輩方と会い、テーブルは同窓会の雰囲気で、学生時代と変わらない先輩方の立ち振る舞いが否応なしに私を学生時代に引き戻した。学生時代の心地よさが披露宴にそのまま繋がっていて、本当に自分は先輩方に可愛がってもらっていたのだと実感した。こだわりを持って選ばれたであろう式中に流れる曲の数々は、我々元軽音楽部員の共通言語でもあり、好きな音楽を共有して過ごした学生時代から長い時間を経て、こういう場でまたそれを共有できるのは素晴らしいことだと思った。豪華な料理と、楽しい語らいと、あたたかい雰囲気の中で披露宴は進んでいく。高層階にいて、私の結婚願望も高まっていた。

 それが、前回名古屋を訪れたときの記憶。あれから7年が経過し、久々の名古屋滞在も最終日となった2023年3月19日、7年前の新郎である先輩とお昼前に名古屋市美術館の前で再会を果たした。同じくお久しぶりの先輩の奥さんと、はじめましての娘さん。幸せな家族の形を目の前にして、7年という月日の重みを感じる。少し立ち話をした後、奥さんと娘さんは名古屋市科学館へ、先輩と私は大須観音の飲食店へ移動した。

 店名に「ワインのー」と付いていたので、ランチプレートにワインを付ける。昼からアルコールを注入、店名に「ワインのー」とあるのでこれはもうどうしようもない抗うことができない。店名を決めた人の気持ちに寄り添う優しい私。

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 2つ上のその先輩とは、私が1年生の頃に1度だけバンドを組んだことがあった。先輩はベース、私はギター、加えてボーカル、ドラム、キーボード、と先輩方を中心とした5人編成のバンドであった。さてバンド名をどうしようかと学食で会議をしていて、様々な案が挙がったが、私が少し席を外したときにベースの先輩が口にしたバンド名「216R」に決まっていた。175R(イナゴライダー)のパロディで、私の苗字をもじって216R(ニイムライダー)、後の私のHN誕生の瞬間である。その時歴史が動いた。因みに175Rコピーバンドではなく、フィオナ・アップルクラウドベリー・ジャムなどをコピーし、私は先輩を引き立たせるべく隅っこでひたすら和音を刻んでいただけだったが、バンド名は下っ端のはずの私の名を冠していた。

 それまで馴染みのない曲を演奏するのは、難しくもあり楽しくもある行為だった。振り返ってみると、自分にとって新しいジャンルの曲が自然とインプットされる軽音楽部の環境はとても恵まれていたように思う。当時、様々な新しい音楽と出会い、私の学生生活を彩ってくれた。

 もし軽音楽部ではなくサッカー部に入部していたら、と考える。216Rは存在せず、私は違う名前でインターネットの海を徘徊していたかもしれない。弾き語り動画ではなく、リフティング動画をアップしていたかもしれない。それはそれで違う人生、違う幸せがあっただろうが、とにかく私は、軽音楽部を選んだことで得られたあれこれにとても満足している。

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 車で来ているかつ普段からそんなに飲まないシラフの先輩の横でワインをがぶ飲みし、アルコールが記憶を呼び起こし、昔話に花を咲かせた。

 家族サービスの予定がある先輩と別れて、ほろ酔いの私は大須を散策する。よく古着を求めてさまよった大須の街は、当時とは違う店舗が並んでいたけれど、雰囲気はあの頃のままでなんだか懐かしい。コメ兵、変わらずいてくれてありがとう。

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 栄のホテルへ戻る途中、矢場とん矢場町本店前を通った。まわしを締めた豚の像は、連日飲んで食うての今の私の姿なのかもしれなかった。伊勢志摩でも名古屋でも、舌が喜ぶ瞬間の多いこと多いこと。また次の機会に矢場とんも味わうことにしよう、という気が削がれるぐらいの長蛇の列のそばを通り過ぎる。

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 ホテルに預けていた荷物を受け取り、バスで名古屋駅へ。ナナちゃん人形に別れを告げる。名古屋を離れて十数年、東京で様々な経験を積み、人間的に成長して大きくなったつもりでいたけど、身長ではまだまだナナちゃん人形に勝てなかった。

 17時前の新幹線で帰路についた。

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 学生時代6年間を過ごした名古屋、ここに来た当初は、飛行機はおろか電車も一人で乗れず、父親同伴で小牧空港に降り立った。生まれてから高校卒業までの18年間を過ごした島から遠く離れて暮らすのは、期待より不安が大きかったかもしれない。実家を思って枕を濡らす日々が訪れたらどうしよう、と思っていたが、ホームシックのホの字も子音のHすらもない、少しは家族のことも考えてホームシックになれよと思うぐらいに毎日が楽しく充実していた。

 島出身の私にとっては、世間一般のことが新鮮だった。電車が走っていること、コンビニがあること、CMでしか見なかったマックがあること。世間知らずだった私が、社会で真っ当に生きていく術を学んだ場所が名古屋だった。

 床屋ではなく美容院に行き始め、スパゲティのことをパスタと呼び始め、ニッセンのカタログではなくセレクトショップで服を買うようになった。都会の絵の具に染まり、気が付けば髪まで茶色に染まり、ステージの上でギターをかき鳴らしていた。

 大学3年生のときには交換留学で香港へ。ドメスティックな世界で育った私は、名古屋経由で世界に繋がっていったような気がする。電車も一人で乗れなかった自分が、海外で現地の公共交通機関を乗りこなしているとき、随分と遠くまで来たな、と物理的ではなく比喩的な意味で思うことがある。

 森見登美彦の小説を読み、くるりの音楽を聴くと、つい京都で過ごす大学生活に強い憧れを抱いてしまうけれど、名古屋での生活を振り返ってみて、いやいや自分は名古屋でも個性的な友人らに囲まれて延々と語れるような物語の数々に恵まれたなと思う。

 名古屋・東京間は新幹線に乗ってしまえばあっという間、わずか1時間半の距離だけれど、名古屋で過ごした学生時代はもうずっと遠い過去の出来事。時間の流れはそのときに築いた関係性も記憶も風化させてしまうけれど、時には全力で抗うことをしたい。東海地方行脚の旅は、ひたすら時間の流れに抗う旅だった。