日記なんかつけてみたりして

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くるりとのこと

それは、河合神社の片隅にひっそりと建っていた。「広さはわづかに方丈、高さは七尺がうち也。」と『方丈記』に記されている通り、わずか四畳半ほどで高さは約2m、茅葺き屋根の質素な小屋である。

京都で様々な災害を経験した『方丈記』の著者、鴨長明は、世の無常観を嘆き、出家して、郊外にある日野山に簡単に移動できる庵を作って住んだ。そのときの住まい、方丈庵を復元したものが河合神社に建てられていた。

方丈記』と言えば、「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。」という書き出しの名文句を覚えている人は多いであろう。あらゆるものは流転してやまない、というヘラクレイトスにも通ずるこの思想に、私は勝手に、時代とともに変遷していくくるりの音楽を重ねてしまっていた。フォークの『さよならストレンジャー』、オルタナロックの『図鑑』、テクノ・ダンスミュージックの『TEAM ROCK』、エレクトロニカの『THE WORLD IS MINE』……、くるりはアルバムを出すごとに新しい顔を我々に見せてくれた。そして、リリースされたばかりの『songline』を聴きながら、私はまたあのイベントのために京都へとやってきた。

河合神社は、女性守護としての信仰を集める社である。たくさんの女性が訪れる境内において、くるりの曲を脳内再生しながら一人粗末な庵を見つめる私に、外国人の女性が訝しげな視線を送っていた。

京都音楽博覧会の前日の出来事である。

 

 

2018年9月23日、京都音楽博覧会当日の京都の朝は晴れ渡っていて、青い空を背景に京都タワーが映える。二年前の京都音楽博覧会で経験した、滝行にも思える土砂降りの中の鑑賞という事態は避けられそうである。

人の流れに従い、京都タワーを背に、もはや通勤路と同じように馴染みとなった梅小路公園までの道を歩く。この日、各地からくるりのファンがこの場所に集うということが感慨深い。あまり信心深いタイプではないが、今後、ファンにとっての聖地とも言えるこの梅小路公園のある方角に向かって、一日五回の礼拝を自らに義務づけたほうがいいのではないかと思うほどである。

会場に到着し、つるや染物店ののれんをくぐって入場、適当な位置にシートを敷いて、開始時刻を待った。今年の夏に猛威を振るった太陽が、最後の力を振り絞って梅小路公園を照らしつけていた。

正午にさしかかろうというところで、ステージにくるりのメンバーが登場。開会宣言の後、「若い頃のくるりに似ている」というような紹介からトップバッターのnever young beachの演奏が始まる。

きっと昔、私がくるりを聴いていたのと同じように、今の若い子たちはnever young beachを聴いているのだろう、と思いながら、『どうでもいいけど』の軽快なメロディーに耳を傾けた。穏やかな風が吹いて、暑さを和らげていた。

 

 

私がくるりの音楽に出会ったのは、大学の軽音楽部でのことだった。『京都の大学生』というくるりの曲があるが、私はというと「名古屋の大学生」として青春を謳歌していた。大学入学時、軽音楽部かサッカー部かで悩みに悩み、アディショナルタイムで軽音楽部に入部を決めた私、もしあのときサッカー部を選んでいたら、くるりを聴くこともなく、毎年秋に京都を訪れることもなかったかもしれない。高校まではGLAYやB'z、Mr.Childrenといった、テレビで流れるアクセスしやすい音楽がすべてだった私に、周囲からどっと様々な音楽が流れ込んでくるようになる。

BUMP OF CHICKENASIAN KUNG-FU GENERATIONスーパーカー真心ブラザーズ中村一義GRAPEVINELOST IN TIMEELLEGARDENGOING UNDER GROUNDNUMBER GIRLOasisRed Hot Chili PeppersWeezerBlurRadioheadNIRVANA……

今振り返ってみると所謂「ロック」という狭いジャンルにとどまっている気がするが、当時は自分の音楽の趣味嗜好がとてつもなく広がっていくようなそんな錯覚を抱いていた。当時新しく耳にした数々のアーティスト、そのうちの一つがくるりだった。

ただそれだけなら、ここまでくるりに魅せられ、大学を卒業して何年も経った今、京都にまで遠征してくるりを見るなんてことなどなかったであろう。私がくるりにここまで傾倒してしまった大きな理由は、大学四年生の頃に部活の友人らとくるりコピーバンド「ぬるり」を結成したこと、そして、その年の学園祭でくるりが我々の大学にやってきたこと、である。卒業アルバムをめくると、若々しい岸田繁が虹色のシャツを着て演奏している姿が写っている。

当時コピーした曲を聴くと、学生食堂の地下のスタジオのかび臭いにおいや、ステージの上からの景色や、大学の体育館の二階席から初めてくるりを見たときのことなどを思い返してしまう。

大学を卒業し、就職して上京したときには、『東京』の歌い出し「東京の街に出て来ました あい変わらずわけの解らない事言ってます」という歌詞を反芻した。その曲のイントロの目まぐるしく変わるコード進行にも似たせわしない日々の中でも、くるりの音楽は常にそばにあって、上京して10年余りが経過した今も、あい変わらずわけの解らない事を言いながら、あい変わらずくるりの音楽を聴き続けている。

そんな私が初めて京都音楽博覧会を訪れたのは、このイベントがシルバーウィークと重なった2015年の秋のことであった。京都で、秋の心地よい気候の中で聴くくるりの音楽を体感してしまった私は、その後、毎年京都音楽博覧会を訪れることになる。

 

 

京都の空が暮れていく。自身、四度目の京都音楽博覧会も終盤を迎えようとしていた。

各アーティストの熱演の後、ヘッドライナーであるくるりが登場した。新しいアルバムを引っ提げてのステージは、アルバムのオープニングソングでもある『その線は水平線』から始まった。絶妙に歪んだギターのストロークから始まる、いい意味で肩の力が抜けた曲が、夕刻の京都の空に吸い込まれていく。その後、『ソングライン』、『Tokyo OP』と新しいアルバムからの曲が続く。この二曲に代表されるように、今回のアルバムはアウトロが長い曲やインストの曲もあり、楽器(特にエレキギター)の印象が強い。それは、ギタリストとしてどんな演奏をして観客を惹き付けるかということに苦心していた学生の頃に私を引き戻してくれるような気がする。

『特別な日』の歌い出し、その瞬間にステージの上の月が雲から姿を出し、特別な日の特別な瞬間を噛みしめる。

『どれくらいの』、この曲もアウトロが特徴的で、ピアノが主旋律を弾いていたかと思えば、徐々にテンポが上がり、エレキギターが入って、速弾きになる。さあここからというところでふっと音が途絶え、何もかもが儚い夢であったかのように静寂が訪れる。作曲家で芥川龍之介の息子でもある芥川也寸志は、著書『音楽の基礎』で、音楽とはまず静寂の美を認めることから始まり、音楽はそれへの対立から生まれると述べている。冒頭の僅か3ページ、「静寂は音楽の基礎である」と言い放つその箇所だけでも、私の音楽に対するとらえ方を変えてくれた名著である。演奏が終わった瞬間、梅小路公園が静寂に包まれたその瞬間に私は芥川也寸志の言葉を思い返していた。

最後はくるり三人のみで『宿はなし』を演奏し、京都音楽博覧会2018は幕を下ろした。

 

 

ここで話は再び私の学生時代に遡る。以下の文章は、当時の日記に、かなり大胆な補足を加えたものである。

 

2004年11月2日、お昼過ぎ、私は軽音楽部の後輩と大学内の駐車場で整理券の列に並んでいた。学園祭は全四日間のうちの三日目、くるりの学内ライブの日である。整理券配布開始時刻から遅れること一時間、出足の遅い我々が手にした整理券は体育館の二階の席であった。

せめてくるりのメンバーのご尊顔を近くで拝みたいと、控室のある研修センターの近くへ行ってみるものの、我々の前にはサッカーイタリア代表カテナチオを彷彿とさせる広告研究会の強固なディフェンスが立ちはだかる。もしサッカー部に入部していたらこの厚い壁も乗り越えて、メンバーとの接触を図れていたかもしれない、否、そもそもライブのことなど気にも留めずグラウンドでボールを追いかけていたかもしれない。とにかく、そのときの私は、ライブ前の接触を諦め、ライブが始まる時間をただただ待つことにしたのだった。

午後六時、開場の時刻を過ぎても体育館の外の列は動かないままである。日が落ちるとぐっと気温が低下し、冬が着実に近づいていることを実感させた。あい変わらず季節に敏感にいたい、などと思っていると少しずつ動き始める列、体育館が近づくにつれて胸が高鳴る。席は二階だったがステージにほど近く、全体を見渡しやすい場所だった。後輩と話しながら、開演を今か今かと待った。

結局、くるりのメンバーが舞台に登場したのは開演時刻を30分過ぎた頃であった。ステージが照らされ、刻まれる和音、『ワンダーフォーゲル』の演奏が始まると、そこはもはや、普段我々が目にする体育館ではなかった。ライブハウス武道館、もとい、ライブハウス体育館。虹色のシャツを着た岸田繁がギターを弾きながら歌い、佐藤征史がベースを弾く。リードギター大村達身で、ドラムは直前に脱退が発表されたクリストファー・マグワイアに代わって臺太郎が叩いていた。ずっと聴いてきた、ずっと弾いてきた音楽が、音圧となって体に直に響いてくる。音楽を生で体感することの醍醐味を味わいながら、私は演奏する側としての自分を振り返っていた。何度か立ってきたステージで、どこかに甘えはなかったか、もっといい演奏ができたのではないか。興奮と熱狂と猛省と、様々な感情が複雑なテンションコードの響きのようにまとわりつく。

その翌日、この舞台とは比べられないほど小さな教室で演奏することになっていた。演奏時間はくるりの6分の1、チケット代はくるりの10分の1、演奏技術は何分の1だろうか。音楽の楽しさを体現して演奏するくるりのメンバーの姿を見て、せめてその楽しさだけは同じくらい伝えられたらいいな、と思った。

初めてのくるりは、そんなことを考えながら母校の体育館の二階から見るくるりであった。

 

 

ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。京都音楽博覧会の翌日、私は『方丈記』の一節を思い返しながら、河川敷に腰を下ろしていた。目の前で、賀茂川と高野川が合流し、鴨川と名前を変え、流れていく。

学生時代から時を経て自身変わったことは数多くある。くるりの音楽だって変わり続ける。けれども、恐らく自分はこれからも変わらずくるりを聴き続けるのだろう。

彼らは次どんな変化球を投げてくるのか、そして、私はどうやってそれを受け止めるのか。今からまた来年の京都音楽博覧会が楽しみで仕方がない。

飛び石を渡る人々をぼんやりと眺めながら、30分弱並んで購入した出町ふたばの豆餅を昼食代わりに口にした。餅の風味と豆の食感が絶妙で、餡の甘さと適度な塩味が美味しかった。