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欧州旅行 イントロ(上海)

 何に縛られるでもなく僕らはどこへでも行ける。そうどんな世界の果てへも気ままに旅して廻って。というMr.Children『Worlds end』の歌詞を旅先で時々思い返す。カンボジアのアンコールワットの参道に立ったとき、フランスのモン・サン=ミシェルを対岸から眺めたとき、クロアチアのスルジ山からドゥブロヴニクの街並みを見下ろしたとき、目に映る絶景に対する感動とともに感じるのは、行こうと思えばどんなところだって行けるんやなあ、ということだった。もちろん、様々な制約があるかもしれない。ただ、それは自分で選択した結果の制約であって、本来はきっとなんの制約もなく、行こうという強い意思があればどこへだって行けるのだ、と。だから、リヴァプールのアンフィールドでサッカーを観たい、という願望は、そのうち実現するだろうとは思っていた。何に縛られるでもなく僕らはどこへでも行けるから。

 そんな自由気ままな感覚が脅かされる昨今だった。伝染病によって、国際情勢によって、行動が制限される。縛られる。

 年末年始、欧州への往復航空券を予約していた。上海経由の中国東方航空の便である。しかし年末が近づく頃、日中関係の悪化により中国は日本への渡航自粛を呼びかけ、日本路線の便が一部キャンセルとなっていた。国際情勢はいかんともしがたく、予約した便がキャンセルにならないよう、祈るしかなかった。もし欠航になってしまったら、もちろん代金は返金されるだろうが、代替便は見つかるのだろうか、あったとしても高額で手が出せないのではないか、そんな悶々とした気分で、年末の出発の日を待った。

 さすがに主要路線だったためか欠航は免れ、2025年12月27日の夕刻、羽田空港の中国東方航空のカウンター前には無事この日を迎えられた乗客らが列をなしていた。オンラインチェックインや手荷物預け入れのサービスが充実していないのか、40分も待ってようやくカウンターへ辿り着き、荷物を預ける。その後の手荷物検査や出国審査は割とスムーズに終え、搭乗口へと辿り着いた。

 最終目的地はリヴァプールだったが、同行者がバルセロナに行きたがっていたため、両方を訪れることにしていた。リヴァプールでサッカーが観たいボーイとバルセロナを観光したいガール。そんなわがままな二人を今回の年末年始のカレンダーは受け入れてくれた。九連休の包容力よ。バルセロナとリヴァプールでそれぞれ三泊ずつの六泊九日。旅の前半と後半で目的の違う二つの旅を楽しむことにした。更には往路の上海乗り継ぎ六時間も観光を楽しもうという強欲が過ぎる旅である。それはこの旅にかかる費用の元を取ろうという強い意志の現れでもあった。往復航空券で一人35万円、サッカー観戦で9万円、その他の費用はもう考えとうない。円安と物価高と年末年始価格の三重苦は、その分旅を充実させなければという使命感に繋がる。

 欧州での年越しは三度目。七年前の同時期のバルセロナ往復便は23万円(香港乗り継ぎのキャセイ便、十一月上旬予約)、六年前の同時期のローマ往復便は22万円(香港乗り継ぎのキャセイ便、十月中旬予約)、二年前に仮押さえして結局キャンセルしたマンチェスター往復便は30万円(アムステルダム乗り継ぎのKLM便、十月下旬予約)だった。そして今回、往路:羽田→上海→バルセロナ、復路:マンチェスター→アムステルダム→上海→羽田の中国東方航空の往復便が35万円である。航空券代は高騰し続ける。欧州内の移動は、バルセロナ→リヴァプールのライアンエアーの便を別途1万7千円で予約した。

 航空券やホテルはなるべく早く予約するに越したことはないが、年末年始のプレミアリーグの日程がなかなか確定しなかった。それが決まらないことには先にどちらを訪れるべきかが決まらず、航空券やホテルの値はその間もじわりじわりと上昇する。本来なら二ヶ月半前には確定するはずの年末年始の試合日程が、二ヶ月前の十一月に入ったところでようやく確定、現地時間1/1夕方のリヴァプールの試合を目指すことにして、先にバルセロナを訪れる旅程を組んだ。にしても年末年始も休みのない世界の中でも過酷なイングランドのサッカーリーグ、労働基準法はないのか。そのおかげで年末年始のこの時期に観戦ができるわけではあるのだが、クオリティの低い試合を数多く観られるよりも、選手皆が絶好のコンディションで臨める試合が観られるほうが良い。チャンピオンズリーグもW杯もいたずらに試合数が増え、全く選手のことを考えない、運営側の金のにおいが漂ってくるのが何とも残念で……、とサッカー界への苦言を呈していたらアディショナルタイム長すぎて出国できなさそうなのでこのぐらいにして、さて、中国東方航空。ネット検索すると悪評が目立つ、安さしか取り柄がないこの航空会社のもはや安さすら享受できない事態。他の航空会社の便はもっと高かった。どうしても安さを求めるなら、乗り換えを三度四度と繰り返す便しかなく、それならもうユーラシア大陸をヒッチハイクで横断しようかという電波少年世代。

 お手並み拝見と機内に乗り込む。危惧していた遅延はなく17時過ぎに上海へ向かって離陸した。機内エンタメは事前の調査通り食指を動かされるものはなく(あったとしても恐らく日本語字幕に非対応か)、ただKindleに積読たっぷりの自分には影響なしで、機内食はまあこんなもんだろうというレベル。約三時間後に上海浦東国際空港に到着した。ほぼ遅延はなかったが、駐機場までの移動に時間がかかり、観光に費やせる時間は容赦なく減る。

 乗り継ぎ時の行動指針はYouTubeで予習済みで、それをなぞるように行動した。

 羽田空港にて、上海乗り継ぎ時にシールを服に貼るように言われていたが、一度入国するので無視して入国審査へ。以前はなかったはずの英語での質問を二、三受け、無事入国したらリニアに乗って龍陽路駅へ。そこから地下鉄に乗り換えて南京東路で下車。上海随一の繁華街を、上海中心部を流れる川、黄浦江へ向かって歩くと、上海夜景のシンボル、東方明珠電視塔が見えてくる。

 2013年8月に訪れて以来、二度目の上海。くるりが「上海蟹食べたいあなたと食べたいよ」と歌う三年前、上海蟹よりむしろ自らが蒸し上がってしまうような灼熱の上海だった。 外灘の夜景も、 豫園の伝統美も素晴らしかったけれど、最も心を動かされたのは中国の伝統的な水郷、朱家角だった。小舟に乗り、狭い水路を巡った。舟を漕ぐ女性の舟頭、水路両側に続く並木道、朱家角の雰囲気に浸った私は、 つかの間、暑さを忘れる、なんてことはなく、やはり暑かった。上海の中心地からバスで二時間弱かけて行ったこの場所にも今は電車が通っているという。

 2025年12月の上海。当時とは異なり、冬の冷たい風が吹き付ける。外灘から眺める対岸の浦東の夜景は相変わらず美しかった。そして、迫るタイムリミット。駅へ戻る途中にせっかくだからと小籠包をつまんで、空港へ直通の地下鉄に乗り込んだ。そして再び上海浦東国際空港。チェックインカウンターへは行かず、そのまま保安検査場へ。出国審査を終え、空港内シャトルに乗って搭乗口にたどり着いたのは深夜0時過ぎ、出発の約一時間前だった。

 移動時間を除けば、正味一時間ほどの観光だったけれど、ふとした瞬間にあの灼熱の上海が蘇り、記憶が一時間を膨張させる。また機会があれば、ゆっくり観光したい。小籠包じゃ足りない。思い出ひとつじゃやり切れない。

 そして、いざバルセロナへ。つづく。

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僕らのソニー

 初めて手にしたデジカメは、SONYのサイバーショットだった。初めて手にした携帯用音楽プレーヤーはSONYのウォークマンで、初めて手にしたパソコンはSONYのVAIOだった。SONYのコンポで音楽を聴き、プレイステーションでゲームをした。ここまでSONY製品に囲まれて育ったのは、実家がSONY製品を扱う小さな電気店だったからで、それらの製品は親から譲り受けたものだった。 実家の営業車には側面に「SONY」のロゴが入っていたし、父はたまにSONYのTシャツを着ていた。似合っていなかったので、商売にとっては逆効果だったのかも知れないが。

 誰もが実家の職業に何かしらの形で恩恵を受けていると思う。私にとってそれは、世界のSONY製品に囲まれて便利な暮らしができるということだった。ただ、それは一方で、SONY製品に傾倒しすぎて、他社製品の美点に目をつぶることでもある。

 高校を卒業して親元を離れてからも、SONY製品に対する愛着は失われることなかったけれど、実家にいた頃には気付かなかった他社製品の素晴らしさが目につくようになる。それはSONYの凋落とも関係しているかも知れないが、気が付けばSONYのMDプレーヤーがiPod更にはiPhoneになり、サイバーショットが富士フイルムのコンデジ更にはオリンパスのミラーレス一眼になっていた。

 そんなときに出会ったのが、文藝春秋から出ている『さよなら!僕らのソニー』という新書だった。エレクトロニクス重視からエンターテイメント重視の路線に移り変わっていく中で、以前の「ソニーらしい商品」を出せなくなっていく状況が、内部の人事・組織の変遷を絡めながら丹念に記されていた。その本を、周囲からSONY製品が消えていく自分の状況と照らし合わせながら読んだ。これから先、SONY製品を新たに手にすることがあるのだろうか。それ以降も、VAIOがMacBookになり、唯一使い続けていたSONYのブラビアも10年間使用した後、2025年初夏の引っ越し時にTCLのアートテレビに置き換わってしまった。まるで親離れをするようにSONY離れが進んだ。

 2025年12月。コロナ禍以降、初となる欧州旅行が目前に迫っていた。これまで漠然と抱いていたカメラを買い換えたい欲求が抑えきれなくなっていた。オリンパスのミラーレスを使い始めて約八年が経過、その間、重いし使いづらそうだと思っていたフルサイズ機はスペックを上げながら軽量化が進み、一方で使い続けたオリンパス機のところどころにガタがきていた。買うべきか、それとも、高額な旅費を支払ったのだから我慢すべきか、心の中で天使と悪魔が戦っていた。どっちが天使なのか。

 それでも最終的には旅行をいい画質で残したい、買い替えるタイミングとしては今が最適では、と思い、ヨドバシカメラでフルサイズ機を購入した。本体には、幼少期に飽きるほど目にした四文字、もしかしたらひらがなやカタカナよりも早く認識していたかも知れない「SONY」の文字が刻まれていた。そして私は久しぶりのSONY製品であるα7C IIを手にした。

 

 初めて手にしたデジカメは、SONYのサイバーショットだった。それは香港留学前に親から譲り受けたもので、手のひらに乗るほど小さく、今のスマホよりも画素数のずっと低い機種だった。とぼけたような画質は、それでも中国返還直後の香港の空気を、そして当時の私の視点を今に伝えてくれる、大切にしたい写真データである。

 あれから何年が経過しただろうか、他社のデジカメを経て、今、私の手にはSONYのフルサイズ一眼がある。これまで使っていたマイクロフォーサーズのオリンパス機に比べると、フルサイズとなりセンサーサイズが四倍になったのに、サイズ・重量ともにほぼ変わらず、手にしっくり馴染んだ。恐ろしいほどに高解像度で、クロップしても細部を損なわず、その瞬間を切り取ってくれる。今後の体験をくっきりと残すことのできる喜び。

 たかがブランド、されどブランド、久々のSONY製品はなんだか旧友と再会したような気持ちで、懐かしさと目新しさの両方を感じながら、そのカメラと欧州旅行を共にした。バルセロナではサグラダ・ファミリアの進捗を撮影し、リヴァプールではビートルズの歩みを記録した。

 今所有している電子機器の数々もいつかは古くなり使えなくなる。買い替えを検討するとなったら、これまで通り価格.comの評価口コミを読み、ガジェット系YouTuberの動画を見て、徹底的に調べた上で忖度なしにそのとき気に入った製品を購入するだろう。そのとき手にしているものがSONYの製品であるよう、魅力的なものを生み出してくれたら嬉しい。SONYに囲まれて過ごした過去を思い返しながら、僕らのソニーが帰ってくることを期待している。

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マンチェスターのジジイに捧げるこの記事

 初めて手にしたOasisのCDは、彼らの四枚目のオリジナルアルバム『Standing on the Shoulder of Giants』だった。高校三年生の私がどういう経緯でそのアルバムを手に取ったのか、今となっては全く覚えていない。当時の私はオリコン至上主義で、売れている邦楽をとにかく片っ端から聴いて、勝手に音楽通を自負していた。私の興味関心の中に洋楽はほぼなかったけれど、エレキギターを始めて数年が経過し、GLAYラルクLUNA SEAのコピーに飽きた頃合いの私は、その次のステップとしてMR.BIGSteve Vaiなどの速弾きに手を出していた。ハードロック専用の特別レーンだけは用意されていたわけである。ただそれを除けば鎖国ブリットポップ(UKロック?オルタナティブロック?)のOasisが入ってくる余地などなかったはずだった。そんな私の音楽ラインナップにいかにしてあの兄弟が潜り込んできたのか、思い出せないのが悔しい。大学デビューを前に、自分の音楽の幅も広げていかねば、と意識改革でも行ったのだろうか。それがなぜOasisだったのか。とにかく、私の手元にはあのマンハッタンの高層ビル群を映したジャケットのアルバムがあった。

 しかし、邦楽にどっぷり浸かっていた私にはこのアルバムの良さが理解できず、熱心に聴くことはなかった。そのまま高校を卒業、故郷の島を離れて名古屋の大学に入学し、サッカー部と迷った末、軽音楽部に入部した。そこでOasisと再会したのである。

 たまたま仲良くなった軽音楽部の友人がOasisのファンで、Oasisの素晴らしさを滔々と語った。まだ売れない頃に小さいライブハウスで「俺はロックンロールスターだ」と歌っていたこと、二枚目のアルバムが世界中で高く評価されていること、兄弟喧嘩が絶えないこと。その熱量全てを受け入れきれず若干右から左に受け流していたものの、過去のアルバムを借りてMDに落とし、MDコンポで丁寧に曲名まで登録し、繰り返し聴くうちにOasisの音楽は体に染みついていった。気がつけばその彼とOasisコピーバンドを組んでいた。否、結果的にOasisコピーバンドになった、と言うべきか。メンバー四人の音楽的嗜好はバラバラで、各々が好きな曲を持ち寄って練習する、というスタイルだったが、次第にOasisの曲に集約されていった。彼はギターボーカル、私はリードギターを担当し、気分がいいときにはコーラスもした。

 軽音楽部では、掛け持ちに一定の制限があるものの、比較的自由に好きな人と好きなようにバンドを組むことができた。二〜三ヶ月に一回ぐらいの頻度でライブ(というのは名ばかりで客はほぼ身内ばかりの発表会)を行っており、ライブ一回限りのバンドもあれば、長く続けていくバンドもあった。Oasisバンドは、他のバンドとの兼ね合いや自身の留学もあり、四年間ずっと続けていたわけではないけれど、大学で組んだバンドの中では割と長い時間を過ごしたバンドだった。当時作っていた私の個人ホームページにバンドでカバーした曲のリストを載せていて、見返してみると以下の八曲をカバーしていた。

Supersonic、FADE AWAY、DON'T GO AWAY、GO LET IT OUT!、Live Forever、Roll With It、Rock'n' Roll Star、Champagne Supernova

 それまで、ギタリストたるもの速弾きすべし、という危険思想の持ち主だったけれど、Oasisの曲には速弾きのフレーズはなく、ペンタトニックスケール(五つの音で構成される音階)を使用した簡単なリフ、ギターソロが多かった。派手なことをしなくてもこんなに素晴らしい音楽が作れるのか、と思いながらシンプルだけど奥深いフレーズの数々を練習していた。

 もし大学で軽音楽部ではなくサッカー部を選んでいたら、Oasisを聴くことはなかっただろうか。或いは、今と同じまたはそれ以上にイギリスサッカーに傾倒し、マンチェスターシティのスタジアムで流れるOasisの曲を耳にして、結局はそこに辿り着いていただろうか。それは誰にも分からない。

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 2002年秋、Oasisは新しいアルバム『Heathen Chemistry』を引っさげての日本ツアーを行った。幸運にも名古屋は飛ばされることなく、名古屋市総合体育館レインボーホールで行われたライブに学科の友人と参加した。初めてOasisの音楽を生で体験し、興奮冷めやらぬ我々は、翌日二人揃ってOasis Tシャツで授業に出席した。

 2005年の夏、同じ大学の修士課程に進みモラトリアムを謳歌していた私は、部活の先輩に誘われ、Oasisがヘッドライナーを務めるSUMMER SONIC(大阪会場)に参加した。『Lyla』で踊って『Live Forever』に聴き入り『Champagne Supernova』のギターソロに鳥肌で『Don't Look Back in Anger』で大合唱、そして夜空に花火が上がった。Salyuアジカンweezer、そしてOasis、私にとって初めての音楽フェスは、音楽の素晴らしさをこれでもかと凝縮したような一日だった。

 2009年夏、Oasis解散。大学院を修了し、就職で上京していた私はそのニュースを冷静に受け止めた。Oasisがリリースするアルバムは聴き続けていたが、初期の楽曲ほど熱を入れて聴いていたわけではなかった。毎日欠かさず弾いていたギターも手にしない日が増えていた。私の学生時代の象徴とも言えるOasisは、卒業・就職と同じタイミングでもはや過去の思い出のバンドの一つとなっていた。もし学生時代と同じ熱量を持っていたら、Oasis解散を受け入れきれず、解散を阻止すべく渡英し兄弟の仲を取り持ってノーベル平和賞でも受賞していたかも知れない、というのは冗談で、イギリスを訪れたところで会えるわけがないし、会えたところでマンチェスター訛りの英語が聞き取れないし、聞き取れたところで二人の関係性に対して影響力などないしょうもないちっぽけな人間である。

 ただ、Oasisが解散してからも、折に触れて過去の大事な思い出を反芻するように彼らの音楽を聴いた。それだけで十分だった。

f:id:m216r:20251115160649j:image(2012年、初の欧州旅行はロンドン。Oasis二枚目のアルバムのジャケット写真の場所、Berwick Streetにて)

 そして時は流れ2024年夏、Oasis再結成が決まったときも、どこか遠い国の出来事のような、否、実際遠い国の出来事ではあるのだが、その成り行きをただ静観していた。それでも、二日間の東京公演が決まり、六本木で特別展が開催され、周囲の雰囲気にのまれるように気分は高まった。東京公演のチケット抽選に応募し落選、また抽選に応募して落選した。落選する度にやっぱり見たいという思いが強くなっていった。過去、あれだけOasisと向き合ってきた時間があったのだから、最後にはチケットを手にしているだろうという根拠のない自信があった。それでも、チケットを入手できないまま時が流れ、東京公演まで半年、一ヶ月、一週間、とその日は近づいてくる。ぴあのリセールページはパンク、高橋名人のようにリロードボタンを連打し、ようやくサイトに繋がっても「リセールチケットはありません」と表示されるばかりで、その一文は私の流行語大賞候補になっていた。リセールチケットはありません。チケットをください。

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f:id:m216r:20251115161358j:image(特別展でリアムになりきる私。いくらなりきってもチケットは入手できなかった)

 そして東京公演の一日目が明日に迫ったとき、今回の公演には縁がなかったのだと自分に言い聞かせた。昔からOasisを聴き、何曲もコピーしてきた自分には他の誰よりも見る権利があるはずだ、という選民思想のようなものは持ちたくなかった。まっとうな手段でチケットを手にした者であれば、知識も経験も興味の深さも関係なくライブを見る権利があるのだ。SNSで大々的にチケットを探していることを周知し、当日に会場である東京ドームの近くに居座ってボードを掲げることだってできたかも知れない。でも、私の心の中には2005年の夏のOasisのステージが大きな財産のように居座っていて、今回は自分以外の誰かがあの夏の私と同じ体験をしてくれればいいと思った。それは「諦め」というより「悟り」に近いものかも知れなかった。そうして2025年10月25日、東京ドーム公演の一日目は過ぎていった。

 2025年10月26日、Oasis東京ドーム公演の二日目。私にとってそれは何の変哲もない日曜になる、はずだった。近所のカフェで京都旅行の動画編集をした後、ユニクロヒートテックを買った。夕刻、Oasisの前座のおとぼけビ〜バ〜が演奏を始めている頃だっただろうか、そろそろ帰宅してサザエさん症候群と戦うか、と思っていたところ、XのフォロワーさんからDMが届いた。チケットが余っている。メッセージを目にした瞬間、「諦め」とか「悟り」とかはどうでも良くなって、ただ「見たい」という欲求だけがあった。すぐさま東京ドームへの経路を調べ、地下鉄乗り場へと急いだ。

 春日駅を出て、初秋の冷たい雨が濡らす歩道を走った。階段を駆け上がると「oasis live '25」と書かれた大きな看板がドームのそばに設置されていた。巨大なギャラガー兄弟と目が合う。何だかとてつもなく長い道のりを経て、ここでまた再会を果たしたような気がした。地元で出会い、名古屋でのめり込み、そしてこの日の東京ドーム。Oasisも解散があり、兄弟それぞれの音楽活動があって、再結成を経て、そしてこの日の東京ドーム公演があった。

 フォロワーさんと連絡を取り、無事に合流。挨拶もそこそこに現金三万円とチケットを交換して、入場口に急いだ。

 汗だくの状態で会場に入る。客席で別のフォロワーさんと合流、Oasisの開演には何とか間に合った。ドーム内はおとぼけビ〜バ〜の余韻とOasisの期待が入り混じった不思議な熱気に包まれていた。18時、バンドが登場する際のSE『Fuckin' in the Bushes』が流れる。それは私が初めて手にした四枚目のアルバムのオープニングを飾るインストの曲でもあり、またここからOasisへの熱狂が始まるのだという気がした。そして、バンドメンバーが登場、仲睦まじい様子の兄弟を見て、嗚呼本当に再結成したのだなと感慨深い想いを抱く間もなく『Hello』。ドームの屋根が吹っ飛びそうなほどの熱狂の中『Acquiesce』『Morning Glory』とパワーソングが続く。初ポズナン恥じらいの『Cigarettes & Alcohol』、最初にバンドで合わせた思い出の『Supersonic』、VAIOのCMで魅力を再認識した『Whatever』に、もはや歌わずにはいられない『Don't Look Back in Anger』……。遠い昔にカバーした曲もいくつか演奏された。全てがアンセムだった。歌詞が口をついて出てきた。左手が架空の指板の上を動いた。

 一曲一曲の周辺にたくさんのバンドの思い出があるはずだった。曲を決める話し合いや、スタジオで合わせたときの感覚、練習の合間の些細なやり取り、ステージ上の高揚感、そういった覚えていたいはずのことがもはや記憶から抜け落ちていた。それだけの時間が経過していた。それでもOasisの曲を口が、指が覚えている。目の前のステージを見ながら、過去の残り香のようなものがふっと漂ってくる気がした。またバンドがやりたい、と思った。

 中学三年生の頃、GLAYに憧れてギターを始めた。当時の私は圧倒的陰キャで、それを変えようと思ったのかも知れないが、ギターを手にしたところで陰は陰、バンドを組みたかったがそんな話はなく、一軍の男子らがバンド活動をしているのを羨ましげに眺めていた。高校に軽音楽部はなく、三年間帰宅部として過ごした。いつかバンドが組めるのだろうかと思いながらひたすら一人でギターを弾いていた。大学で初めてバンドを組み、セッションの楽しさを知った。少なくともステージの上では陽でいられた。社会人になってからも会社の先輩とバンドを組み、何度かライブを行った。音楽性の違いを理由に、ではなくメンバーの転勤をきっかけにそのバンドも無期限活動休止。もうバンドはいいかな、と思っていたところにOasisが昔の感情を呼び起こしてきた。

 『Champagne Supernova』の世界観に圧倒され、Oasisのライブは幕を閉じた。過去、何かに夢中になったということが、時を経てこんなにも感情をかき乱すことがあるのか、と思った。それはOasisでなくても、音楽でなくてもいいのかも知れなかった。私にとってそれがたまたま音楽であり、Oasisだった。

 東京ドームを出ると、秋のひんやりとした空気が熱のこもった体を包み込んだ。冷たい雨が私を、Oasisの看板をしっとりと濡らした。巨大なギャラガー兄弟に背を向けて、雨の中、春日駅へと急いだ。

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あの夏へ

 私が初めて香港の啓徳空港に降りたのは一九八六年八月二三日のことだった。二十歳と半年、一年間限定の交換留学生という気楽な身分だった。眼下の電柱や看板をなぎ倒し、ビルの屋上にひらめく洗濯物をひっかけそうになりながら滑走路につっこんでいく、あの感じ。天国でも飲んだくれていたヨッパライが雲の上から蹴飛ばされ、ぽーんと下界に放り出される、そんな感じ。

 これから人間世界にぶちこまれるんだ。

 理屈でも観念でも何でもなく、いきなり視覚にそう訴えかけられたことを今でも覚えている。そしてその感覚が、私の香港に対する印象を決定づけてしまったのである。

 星野博美『転がる香港に苔は生えない』

 

 啓徳空港に着陸してみたかった。九龍半島の北東部にかつて存在していたその空港は、私が最初に香港を訪れた1999年には既に閉鎖され、新しい現在の香港国際空港に移管されていた。沢木耕太郎の紀行小説『深夜特急』の世界、ウォン・カーウァイの映画『恋する惑星』の世界、B'zの楽曲『HOME』のMVの世界。後から当時の啓徳空港とその周辺の雰囲気を知るにつれ、間に合わなかったことを悔やんだ。そして、私はまた香港行きの航空券を手にしていた。啓徳空港ではなく、1998年に新しくできた香港国際空港へと向かう航空券。

 香港は雨だった。気象当局は、1時間あたり70ミリ以上の豪雨に相当する「ブラックレイン」の警報を出していた。香港では降雨警報が弱い順からイエロー、レッド、ブラックと定められていて、ブラックは最悪、公共交通機関が休みになったり、商店等が閉店したり、香港中の人々が「はぁ、今日の予定が……」とため息をつき二酸化炭素濃度が上昇したりするという。因みに、台風についても1、3、8、9、10と、欠番入りで5段階の警報レベルがある。8以上だと学校や会社が休みとなり、T.M.Revolutionごっこは厳禁、ナマ足魅惑のマーメイドも自宅待機を余儀なくされる。あくまで企業や個人の判断に委ねられる日本とは異なり、上が方針を決定してくれるのはありがたい、と思うのは働く側であって、サービスを受ける側からしてみれば、悪天候の中でも働きに出てくれる人のありがたみを感じる。

 8月14日、午前9:25に成田空港を発ったキャセイパシフィック航空のCX509便は、定刻の13時過ぎに香港国際空港に着陸。到着時には警報はブラックからレッドに緩和されていたようだが、飛行機のドアを外から開けるスタッフがおらず、機内でしばらく待たされることになった。

 もう何度目の香港か。高校の修学旅行で初めて訪れた海外、かつ大学の交換留学で初めて住んだ海外である香港には、即答できないぐらい数多く訪れている。2023年から2024年の年越しを香港で過ごした際、コロナ禍以降初の海外旅行だったせいもあり、このブログでOmoinotakeが爆発、ついでに香港歴を列挙していて、そのときが14回目だった。その後、2024年の八月にクアラルンプールからの帰りに立ち寄ったのが15回目なので、今回が16回目ということになる。iPhoneのナンバリングとデッドヒートを繰り広げているが、ともかく「久々の訪問」が積み重なりすぎて、毎回同じように胸に抱く「あ〜懐かしい!エモい!」という感情。もはやわざわざ記事にすることなど残されていないような気もするけれど、「懐かしい」「エモい」という感情も16回目と15回目と14回目では微妙に異なる。昨今、何かと「エモ」で片付けられがちな感情をゴリゴリに噛み砕いて、途中で読むのが面倒くさくなりそうなぐらいの長文にしたためる予定である。チャンネル、もとい画面はそのままでお付き合いいただければ幸い。騙されたと思って最後まで読んで、本当に騙されて時間を無駄にしてほしい。

 八月のお盆休み、もともと出かけるつもりはなかったけれど、夏休み期間にしてはそう高くないキャセイのチケットを見つけた。片道約3,000kmの旅が僅か数センチほどの親指移動で決定する時代。スマホの航空券購入確定ボタンは松浦亜弥『Yeah! めっちゃホリディ』の再生ボタンでもあった。せっかくだから足元の広い席を、と思いエクストラ・レッグルーム席を指定し、結局はそれなりの料金になってしまったが、機内で『トワイライト・ウォリアーズ』を見て、香港気分を高めることができるのはLCCにはないフルキャリアの特権(睡魔に負けて途中離脱してしまったが)。旅客機は九龍城砦をかすめ、啓徳空港に着陸した気分でいたけれど、それは映画の中の時代。雨水が伝う機内の窓から見えるのは1998年に開業した香港国際空港の景色だった。

 30分ほど待たされ、ようやく機内から脱出。入国審査へと急ぐ。2024年10月から、入出国カードの記入・提出が不要になっていた。その影響なのか、たまたまタイミングが良かっただけか、入国審査の列が普段より短く、通常30分ほどかかるところ10分ほどで審査を終えた。

 市内へ向かう前に、交通系ICカード、オクトパスのチャージを行おうと到着ロビーの機械に差し込んでみるものの、エラーで吐き出されてしまう。最後の使用から1,000日経過した場合は、窓口でリアクティベートが必要だが、最後に使用したのは一年前、問題はないはずだった。もう一度差し込んでみるものの、再度吐き出されてしまう。飲みすぎた新橋のサラリーマンか。ウコンの力を差し出したい気持ちを抑え、カウンターに並ぶ。市内までのエアポートエクスプレスのチケットを買うついでにスタッフに訊いてみると、オクトパスが古すぎるので、市内のどこかの駅で新しいものに無料で交換してくれとのことだった。

 エアポートエクスプレスで香港駅へ、そこから香港島北部を東西に走る港島線に乗り換えて、ホテルのある炮台山へ向かう。炮台山駅で無事オクトパスを交換し、ホテルにチェックインした。

 香港の地域を大きく分けると、ビクトリアハーバーの南に浮かぶ香港島、ビクトリアハーバーを挟んで北に位置する九龍、更にその北にあり中国本土と接している新界(留学先の大学はここにあった)の3つで、その周囲に大小様々な島が存在する。実は香港島にホテルを取るのは初めてで、これまでは九龍にある尖沙咀に泊まっていた。それは、香港島と、個人的に思い入れのある新界の両方にアクセスが良いのが理由だが、そもそも尖沙咀という街自体が好きだった。新旧様々な店が乱立し、ペニンシュラのような高級ホテルがあると思えば、悪の巣窟とも呼ばれていた安宿が密集する重慶大厦もある。九龍公園で地元民が太極拳をしているかと思えば、プロムナードでは観光客が対岸の香港島の景色に目を奪われている。この世の全てが凝縮されているようなこの街の混沌とした感じがたまらない。

 今回、初めて香港島に宿泊することにしたのは、ともすれば「旅行」ではなく「里帰り」的な意味を帯びてしまうこの訪問に一石を投じたいからだった。また、ウェブ上で見たハーバーグランド香港の上層階からの景色が素晴らしかったのもある。

 尖沙咀のプロムナードに立てば、対岸の中環の高層ビル群が目に入り、逆に中環のスターフェリー乗り場近くからは対岸の九龍の建物が眺められる。その両方の建物が聳える景色を一度に楽しみたい貪欲な人々のために、香港島のビクトリアピークや九龍の展望台スカイ100などが存在し、ハーバーグランド香港もそんな欲にまみれた旅行者のためにあるようなホテルだった。高層階から見下ろすと、中央にビクトリアハーバーが広がり、左には香港島、右側には九龍のビル群がその輝かしさを競い合っている、はずだった。しかし雨。元・ブラックレイン、現・霧雨程度の雨が最後の力を振り絞ってホテルの窓を湿らせていた。41階のレストランでディナーを取ることになっていたが、窓は曇り。視界を遮られたほうがかえってコース料理の味に集中できるというもの、と自らに言い聞かせて和牛のステーキをほおばる。

 翌朝、天気は回復していた。再び41階に上がってみると、ウェブ上で見た通りの景色が眼前に広がっていた。いや、一つ違う点を挙げるとすると、なんと香港島九龍半島の間に虹がかかっていたのである。私は昨夜の悪天候の全て、機内に一時閉じ込められたのも含めて全て許した。ブラックレイン後の虹。初めての香港島宿泊で、こんな景色を見ることができるとは。

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 ホテルで朝食を取った後、チェックアウトをしてタクシーで尖沙咀へと向かった。従来の香港訪問に一石を投じるために香港島宿泊を決めたのだが、やはり尖沙咀愛を抑えることができず、後の二泊は結局尖沙咀シェラトンに宿泊することにしていたのだった。シェラトンに到着したのはちょうど正午ぐらいだったが、運良く部屋に入ることができた。ハーバービュー指定で予約した部屋、カーテンを開けるとビクトリアハーバーを挟んで、香港島の景色が目に飛び込んできた。

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 ホテル近くの重慶大厦で恒例行事の外貨両替。ここの両替商はレートがすごぶる良いのである。余っていた人民元香港ドルに両替した。その後、新界の沙田へ向かおうと尖東の駅へ向かうと、改札がちいかわ仕様。カードをタッチするたびに「ちいかわ!」と声が鳴り響く。重慶大厦の怪しい雰囲気との振り幅が凄まじく、またこの尖沙咀の何もかも受け入れてしまう包容力に驚愕する。メイドインジャパンの「KAWAII」は以前と変わらず香港を席巻し、電車内でもクレヨンしんちゃんやキティちゃんなどのキーホルダーを見かけた。

 紅磡で電車を乗り換えて新界の沙田へ。広大なショッピングセンターがあるこの場所は、留学していた香港中文大学から二駅と近く、度々訪れていた。現地の友人に連れられて携帯電話を購入した場所でもあり、学食に飽きたときの逃げ場でもあった。留学中にリリースされたミスチルのアルバム『シフクノオト』を購入し、帰国時の航空券を受け取ったのもここだった。近場で買い物するとなるとまずここを訪れ、当時1香港ドル=約15円のレートで円から両替された香港ドルをこの場所に落とし続けた。

 改札を抜けると広がるおびただしい数のお店が目に入る。一軒一軒は当時と異なっているはずだけれど、たくさんの商品に囲まれて圧倒される感覚は当時のままである。香港ローストのチェーン店、太興で燒味飯を食べ、僅かばかりの香港ドルを落とす。そして、再び電車に乗り、香港中文大学へと向かった。

 香港中文大学、1963年に創立された香港を代表する大学の一つ。四つのカレッジが合わさってできた大学で(現在は九つ)、山の斜面に建っている広大なキャンパスには、食堂、寮、スーパー、書店、床屋、銀行などがあり、授業の時間に合わせて校内をバスが走っている。私は2003年から2004年にかけての八ヶ月、最も駅に近い崇基學院 (Chung Chi College) というカレッジに属し、そこにある寮に住んでいた。

 2019年11月、私は日本にいて、思わぬ形で香港中文大学を目にすることになる。テレビに映し出されたのは、火の手が上がる校内、飛び交う叫び声、そこでは武装した警官隊とデモ参加者が衝突していた。自分が住み、学んだ場所をこんな形で目にすることになるとは思わなかった。社会運動の混乱と、その後のコロナの流行もあってか、前回訪問した一年半前には入校制限が取られており、関係者以外の立ち入りが禁じられていた。柵の外側から校内を眺め、もうこの場所に入ることはできないのだろうか、と思っていた。今回、事前に現地の友人に確認したところ、パスポートの提示で校内へ入ることができるとのことだった。

「下一站、大學。 下一站、大学。 Next station University.」

 広東語、北京語、英語の順で、大学駅到着を告げる懐かしいアナウンスが流れた。留学中の私にとってそれは、休日、香港の街を堪能し尽くした後、一日の終わりに心地良い疲労感と共に聞くアナウンスだった。学内の寮に住んでいた私の生活は毎日、大学に始まり、大学に終わっていた。かつては「帰る場所」だったそこは今や「訪れる場所」、三つの言語でのアナウンスも今の私には当時とは異なる響きをもって聞こえてくる。

 大学駅の改札を抜けると、前回訪問時と同様、入口が柵で囲まれていた。ただ、友人が言っていた通り、以前はなかった訪問者用のレーンが築かれている。そのレーンに並び、パスポートチェックの後、無事足を踏み入れることができた。

 目の前に広がるグラウンドと、左右に伸びる道路、当時と変わらない駅前の佇まいに感慨深い思いが込み上げてきた。グラウンドと池に挟まれた小道を進むと、足繁く通っていた図書館と食堂が見える。崇基學院の図書館は、学内に複数ある図書館の中でも日本語の書籍が多く、留学中日本語に飢えた私はここに入り浸っていた。そして、留学中のほとんどの食事を取っていた食堂。最初に覚えた広東語のほとんどはこの食堂のメニューだった。ここで何度「凍咖啡」と口にしたか分からない。香港のアイスコーヒーは最初からシロップが加えられていて絶妙に甘く、ブラックが苦手だった私はよく飲んでいた。朝は点心を食べ、昼はご飯の上に肉と野菜が載ったわずか10〜20香港ドル(150〜300円)程度のシンプルな料理を口にして、アイスコーヒーで流し込む。夜も度々ここで食べていた。食の都、香港。街に出ればここより美味しいレストランなどたくさんあるけれど、私にとっての香港料理は、ここ崇基學院の食堂の料理だった。食事を取るだけではなく、友人と語らい、勉強をし、テラス席でギターを弾いて過ごした。顔馴染みの店員もできて、簡単な広東語や英語で会話することもあった。留学当初に感じていたお米の不味さに慣れた頃、この場所が自分にとって「食堂」という一言では済まされない思い入れのある場所となっていた。

 香港中文大学に交換留学する学生は、中国語学習をメインに行うことになる。中国語の共通語(普通話)か、香港で使われる広東語のいずれかを選択し、少人数制で徹底した教育を受ける。私は前期に広東語を選択したが、後期はSARSの影響で留学生の数が少なく広東語のクラスが閉鎖となり、普通話のほうを学習した。中国語学習以外では、英語で開講される言語学の授業を選んで受講していた。日本と違い、大教室での講義の後、小教室で大学院生が補足となる授業を行う形式だった。どの学生も、専攻に関わらず英語の文献を読みこなし、世界を直で知ることのできる彼らとの差を痛感した留学生活だった(ただそのギャップもAIの登場で小さくなっているのかもしれないが)。

 そんな私の留学生活が始まったのも八月の暑い日だった。顔中の汗を拭って顔を上げると、あの夏へ戻れるような錯覚を抱いてしまう。それでも、以前はなかった建物が立ち並び、当時の友人らはもうここにはいない。吹き出る汗も二十歳そこそこの当時とは違い不純物を多分に含んでいるだろうし、いつしか私はブラックコーヒーを好んで飲むようになっていた。 

 食堂の裏手に回り、教会の側の木々に覆われた小道を進んだ。その先に、私が住んでいた寮、神學樓があるはずだった。もう何年ぶりだろうか、中文大学には時折訪れていたけれど、ここまで足を運んだのは久しぶりのことだった。留学中、毎日のように通っていた小道を歩く。木々が日差しを遮ってくれていたが、それでも汗は流れ、それに構わず歩き続ける。一歩一歩が過去につながっているような気がする。しばらく歩くと、寮へと続く上り階段が見えた。以前のまま、変わらずそこにあるだろうか、と思いながら階段を上がった。

 果たして、神學樓はそこにあった。増築が施されていて、以前と寸分違わぬ姿というわけにはいかなかったが、その二階の一画が紛れもなく私が八ヵ月間過ごした場所だった。十畳ほどの空間を、現地のルームメイトと分け合って過ごしていた。トイレやシャワールーム、台所など共有しなければならない設備も多かった。シャワーはワンフロアに三つ、時には順番待ちをしなければならなかったし、適温を提供してくれないこともあった。また、思春期にプライベートがない空間で過ごすことには抵抗があった。当時を思い返しながら建物を見つめる。決して居心地の良い場所ではなかったけれど、今となっては、無性に当時に戻りたい。

 新しくできた書店を覗き、中国語を学んでいた建物の前を通って、駅へと戻った。九月の新学期を前に校内は閑散としていた。授業が終わった後、教室から学生が吐き出され、広東語が飛び交い、バスに吸い込まれていく光景が見られないのが淋しくもあったけれど、見てしまうと時間の経過を否応なく突きつけられて眩暈を起こし、学内のメディカルセンターに担ぎ込まれていたかもしれない。久しぶりの中文大学、ついどこかに自分の痕跡を探して歩いていた。向いのホーム、路地裏の窓、こんなとこにいるはずもないのに。

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 夜は、現地の友人と旺角で飲茶をすることになっていた。以前はネオンサインが道路に迫り出し、いかにも香港らしい風景が広がっていたこの街も、安全面の問題から看板が撤去されていた。変わりゆく香港の姿にやりきれない気持ちを抱いてしまうが、そもそも香港は転がるように変化し続けてきた街。1994年に九龍城砦が取り壊され、1997年にイギリスから中国に返還され、1998年に啓徳空港が廃止。わずか八ヶ月、ほんの僅かな時間居候させてもらったその間の香港がまるであるべき姿であるように考えるのはお門違いも甚だしいのかもしれない。でも、そんな香港だからこそ、昔ながらの景色を見ると安心してしまう。昔のままの倫敦大酒樓で、昔のように友人と点心を囲んだ。

 翌日、滞在三日目は、香港島の淺水灣と赤柱を巡った。市街地からアクセスが少し悪いけれど、また違う香港の魅力が感じられて好きな場所である。

 そして四日目の帰国日、再び香港国際空港。今はなき啓徳空港への強い憧れを抱いてしまうけれど、この空港も私にとって思い入れのある場所になっていた。留学開始時、たった一人で降り立った空港、帰国時には友人らが見送りに来てくれて、空港で最後の飲茶を楽しんだ。来られなかった友人らもその直前に食事に誘ってくれた。留学中、多くの人が気にかけてくれた。今となっては連絡のつかない人たちもたくさんいるけれど、今は失われた人脈も、香港に対する好意的な感情の一部になっていて、私を何度もこの場所へ向かわせている。

 「離港 Departures」の看板の方向へ。手荷物検査、出国審査を終え、制限区域内のレストラン「正斗」で最後に燒味飯を食べる。そして、キャセイの機内に乗り込んだ。

 何度も訪れている香港、四日間で十分かと思っていたけれど、終わってみれば行きたかった場所が山積みでビクトリアピークより高いし、ビクトリアピークにも行きたかった。また近いうちに香港を訪れるような気がする。それをこれからもずっと、年老いてもこの行為を繰り返すと思う。もしそのときに孫がいたら「おじいちゃん、香港はもう行ったでしょう?」と痴呆症を疑われるかもしれない。でもそれは逆で、あの八ヶ月を思い返し、しっかりと記憶に留めるための行為となる。

 定刻の15時過ぎに飛行機は離陸。窓から香港の姿が見えなくなった後、『トワイライト・ウォリアーズ』の続きを見ようと、機内エンターテイメントサービスを起動した。

 

youtu.be

アナザースカイ

 あのちゃんがカンボジアで口にしていた。MEGUMIバルセロナで口にしていた。一ノ瀬ワタルがタイで、石田ゆり子がパリで、とにかく明るい安村がロンドンで口にしていた。

「ここが私のアナザースカイ、◯◯です」

 言いたい。

 中高生の頃は「カウントダウンTVをご覧の皆様、こんばんは、◯◯です」というフレーズに憧れたけれど、最近はもっぱらGoogle Pixel presentsのこの番組のキラーフレーズ。自分にとって大切な場所を訪れ、偉そうに人生観を語り、件のフレーズで締める。やりたい。だけど私は有名人でも何でもないし、Google PixcelではなくiPhoneのヘビーユーザーだし、GeminiではなくSiriと二人三脚で歩いてきたし、最近はChatGPTに浮気がちだし、そのChatGPTに「どうすればアナザースカイに出演できますか?」と訊いてみたところ「タレント・モデルとして活動を始める」「SNSYouTubeなどで影響力を持つ」などという回答が返ってきた。ドラゴンボール蛇の道ぐらい険しい道のりである。だけど、空想するのは自由で、もし自分だったらどの場所を選ぶだろうか、と考えてみる。大学生活を過ごした名古屋か、在学中に留学した香港か、そもそも私のルーツを掘り起こすことができる生まれ故郷の沖永良部島か。それとも、住んだことはなくとも、ほんの僅かな時間訪れて、自分の人生観を大きく変えた場所か。様々な場所を思い浮かべては、これは一度の出演では足りない、と思う。有名人でも何でもないのに。

 十八年ぶり、三度目の訪問だった。その間、経済特区のこの街は急速に発展を遂げていたが、旅客機の窓から見える空港周辺の景色は、低い建物の間を縫って緑が散りばめられていて、以前の素朴な雰囲気を残していた。2025年5月3日、お昼過ぎ、私は交際相手とともに彼女の故郷である広州に到着した。中国人の彼女と入国審査で一時別れ、再度合流し、手荷物を受け取って、緊張した面持ちでロビーへ出る。空港には彼女の両親と弟夫婦が迎えに来てくれていた。はじめまして、に当たる広東語はないので「你好」と挨拶、そして当然のように始まる広東語会話。それなりに話せるつもりでいたのにほとんど聞き取ることができない。香港なら英語に逃げることができるけれど、ここは広州。退路を断たれ私は必死に耳をそばだてる。もはや広東語が不自由な私のことは気にせず、私抜きで会話を繰り広げてもらっても構わない、けれど当然のように時に私へ質問が投げかけられる。授業中先生に当てられたくなかった学生時代を思い返しながら、彼女の弟が運転する車で市内へと向かう。もっと広東語が堪能であれば。香港を訪れるたびに思うことをデジャヴのようにまた考える。すぐ近くに広東語の先生がいるのに、いつでも教えてもらえるという慢心から、上達は亀の歩み、しかも前進ではなく後退している気さえする。どんなに学習のための好条件が整っていても、結局自らの強い意志がないと上達はない。

 食は広州にあり。「飛んでいるものは飛行機以外、四つ足のものは机以外食べる」と言われる広東省の広州を私が最初に訪れたのは、高校の修学旅行だった。1999年の秋、ノストラダムスの大予言が外れて生きながらえた鹿児島県立沖永良部高等学校の二年生は、香港、深圳、広州を訪れていた。私にとって初めての海外、どの都市も印象的だったけれど、特に印象に残っているのが、広州での現地の高校生との交流イベントだった。それぞれに現地の学生のパートナーがついて、校庭で顔合わせの後、まだ発展途上の広州の街を案内してくれた。夜はホテルで盛大なパーティーが催された。中国に暮らす同年代の子と拙い英語でコミュニケーションを取った経験は、当時の私に異文化への憧れを強く抱かせた。もっと世界を見たい。文化の異なる人々と会話してみたい。もともとは数学が得意で理系の道を邁進中だったけれど、帰国後に文転、異文化理解のツールとしての外国語に興味が湧いて、留学制度が整っている大学への進学を希望した。

 パートナーの女の子との文通は一年ほど続いただろうか。ChatGPTはおろか電子辞書も普及していない時代で、身の回りの他愛もないことを紙の辞書を引きつつ英作文して送った。少しずつ返信の間隔が開いて、結局私からやり取りを途絶えさせてしまった。ちょうど大学入試の準備をしなければならない時期だった、というのは言い訳か。言い訳だ。社会人になって、ビジネスメールのやり取りで、要件が解決したと思っても律儀に最後の最後までメールをくれる人がいるけれど、もし文通をしているのが私ではなくそういう人だったら、ずっとそのやり取りは続いていただろうか。返信する必要があるかないか、その判断が微妙なときにはことごとく返信しないで生きてきたような気がするし、時には返信すべきときにも返信してこなかったのだろうと思う。

 無事、大学に入学した私は外国語学部で英語を専攻し、三年生のときに何の因果か一応英語圏である香港へ留学することになった。2003年から2004年にかけての八ヶ月、多くの友人らに囲まれ楽しく留学生活を送る中で、すぐ近くにあるはずの広州のことは片隅に追いやられ、香港が第二の故郷のように思えるほど愛着を抱いた。「留学生」という気楽な身分で住むことができたからだろうか、それが例えば「駐在員」といった形だったら、香港に対してまた違う印象を持っていたと思う。

 英語と中国語と広東語、全てを流暢に操りたいという目論見は失敗に終わり、全てが中途半端になって帰国した。それでも外国語への興味は薄れることはなく、今でも断続的にではあるが英語を勉強したり、広東語の復習をしたりしている。

 文通を途絶えさせてしまったことに無理やり意味を見出すとしたら、いつか突然パートナーのもとを訪れて、拙い広東語でお詫びと、あの日の出来事がどれだけ私の人生に影響を与えたのかを語り、驚かせることができる、ということぐらいなのかもしれない。彼女は私が返信しなかったことに対して、がっかりしただろうか。何で返事くれへんねん、と怒りを抱いただろうか。あの日の出来事がその後の人生に何か影響を与えただろうか。青春時代の何てことない一日として片付けられてしまっただろうか。それをいつか会って話してみたい、と今更ながら思うけれど、今も変わらず広州に住んでいるのかすら分からない。今回の広州訪問前に、送り主の住所が書かれた当時の手紙を探してみたものの、見つけることができなかった。引っ越しの際に荷物のどこかに紛れてしまったか、実家で眠っているのかもしれない。

 二度目の広州訪問は2007年、香港旅行のついでに現地の友人と日帰りで訪れただけで、昔を懐かしむ暇もなくそそくさと香港に戻ってきた。だから、宿泊してじっくり広州を見て回るのは約25年ぶり、初めて広州を訪れてから四半世紀が経過していた。その久しぶりの広州滞在は、観光というより交際相手の親族・友人らとの顔合わせの意味合いが強かった。車で二時間かけて父親の故郷を訪れたり、市内で彼女の友人らと飲茶をしたりした。

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 広州滞在三日目にようやくまとまった時間が取れたけれど、それも観光と言うよりほぼ自分の過去を辿るための時間に費やされた。当時訪れた場所を久しぶりに訪ねてみたい。前述の通り、手紙は見つからなかったけれど、幸い写真はいくつか手元に残っていて、広州訪問前に交際相手と共に場所の特定をした。まずは何といっても当時訪れた高校である。校内の写真を見て、何か場所の手がかりがないかを探した。そして、現地の学生が胸につけていたプレートを拡大し、何とか学校名を読み取ろうと試みた。交際相手の知人も加わり、国境を越えた一大プロジェクトが始動していた。しかし、制服、学校の場所、学校名すら変わっている可能性があり、特定は困難を極め、結局確証が持てないままこの日を迎えた。

  茶餐廳で昼食を取った後、タクシーで目的地へと向かった。程なく、恐らくここだろう、と結論を付けた学校の前に到着した。門が固く閉ざされており、外から中の様子を伺う。そして、高校生の私が、そこでパートナーと会話している場面を思い浮かべた。上手くいかない。あの学校が本当にここだったのか、確証が持てず、懐かしむことができない。ここだったとしても、もはや四半世紀前の出来事。「懐かしい」という感情は、それなりに月日を経た後に抱かれるものだが、賞味期限というのもあるのではないだろうか。

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 もう一枚、ショッピングモールで私の同級生と現地の学生らが一緒に写っている写真があった。こちらに関しては、交際相手に見せた瞬間、場所を特定してくれた。吹き抜けの一階部分から見える、エスカレーターが重なって上層階へ伸びていくその形が特徴的だったのだ。学校を後にして、その場所へ地下鉄で向かった。駅を出て、交通量の多い交差点を渡り、大きな建物の中に入ると、正面に写真で見るのと同じエスカレーターが現れた。当時の記憶は全くないけれど、写真と見比べると、確かに私はここに来ていたようだった。感慨深い思いはあるけれど、やはりそれを「懐かしい」と思うことはできず、ただただ事実として受け止めた。学校で顔合わせをしたとき、移動中、そしてこのショッピングモールで、どんな会話をしたのだろうか。その細部は覚えていなくとも、その時のやり取りが確かに今の私を形作っているはずだった。

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 目の前に巨大な塔がそびえ立っていた。ショッピングモールから更に地下鉄で移動し、広州タワーのふもとまで来ていた。2009年に完成したこの中国で最も高い電波塔は、私にとって、いやこの地域の住民にとっても変化の象徴なのかもしれなかった。過去を一気に分断されたような印象を受ける。この街はだいぶ変わってしまったけれど、その分自分も変わっているのだとしたら、自分が歩んできた道のりを無理やりこの街になぞらえることができる気もする。

 滞在三日目の夜、交際相手の親族と沙面のホテルでビュッフェを楽しみ、食後、再び広州タワーを訪れ夜景を堪能した。そして、あっという間に広州を離れる四日目の朝を迎えた。彼女の両親と近所で飲茶をして、彼女の父親が運転する車で空港へと向かった。

 四半世紀前、この場所で、異文化への強烈な憧れを抱き、その後、様々な場所を訪れることになった。あのちゃんのアナザースカイ、カンボジアを訪れ、当時の人々の叡智を感じながらアンコール遺跡群を見て回った。MEGUMIのアナザースカイ、バルセロナを訪れ、ガウディの建築物に感動し、スペイン料理に舌鼓を打ち、メッシのフリーキックに熱狂した。三島由紀夫豊饒の海(三)暁の寺』を読んで訪れた一ノ瀬ワタルのアナザースカイ、タイでは黄金に輝く寺院や壮大な宮殿を見て回った。石田ゆり子のアナザースカイ、パリでは美しい街並みや芸術を楽しみ、とにかく明るい安村のアナザースカイ、ロンドンでは極寒のアビーロードを何往復もした。その全てが自分にとって思い入れのある場所となったけれど、その全てはここ広州から始まったのだと思う。必死に自分の拙い英語を理解しようとしてくれた、そしてこちらも理解しようと努めたあのやり取り。パートナーがその人でなければ、ここまで強く異文化への渇望を掻き立てられなかったかもしれない。これから先、どこかで会うことはあるのだろうか。会って、そしてたった一言「多謝」と告げることができれば、それだけでこれまで何年もかけて広東語を学習してきた意味があるのかもしれない。もっと世界を知りたい、見てみたい、そのために自分はどう生きていくべきか。あの時の広州での経験がその後の自分の人生を大きく変え、今に繋がっている。そしてこれから先の人生でも自分にとって重要な意味を持つことになるであろう場所。ここが私のアナザースカイ、広州です。

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初夏にフリース

 西野カナが「会いたくて会いたくて震える」という名フレーズをこの世に産み落としてから早15年が経過し、もはやこのフレーズがネタとしても使い古され、誰も使わなくなり、皆の記憶の片隅に追いやられようとしているこの頃、あえてこのフレーズで記事を始めようと思う。2025年5月初旬、季節は夏に向けて爆走中なのに、悪寒に体を震わせていた。買ったばかりの体温計を脇に差し込む。最近の体温計は体温が表示されるまでのドキドキ感をも味わわせてくれず、僅か15秒ほどで表示される40度。これは15秒で表示させるような体温ではない。もっともったいぶって「 クイズ$ミリオネア」のみのもんたぐらい溜めて然るべきであろう。40度。幼少期に到達したことがあったような体温にノスタルジーを感じる余裕などなくただただしんどい正直しんどい。会いたくて会いたくて、の対象となる人物は医者か。翌朝、体温が下がっていなければクリニックへ行こう、そう決めて眠りについた。新居での最初の夜だった。

 その前日、5月9日、金曜日、朝。まだ古い住居で目を覚ました私の喉は乾燥していた。軽い喉の違和感を抱きながら通勤し、軽い喉の違和感を抱きながら仕事をして、軽い喉の違和感と倦怠感を抱きながら帰宅した。仕事由来の倦怠感+α。まさかこんなタイミングで風邪でもひいてしまったか。引越しが翌日に迫っていて、帰宅後はラストスパートをかけなければいけなかった。あとは適当に詰めるだけでええやろ、と思っていた作業はそれなりに重く、時計の針は進み、体力は消耗。直前まで普段の生活を続けながらスムーズに引っ越すことの難しさよ。もう何度目の引越しか、アート引越センターからもらった「引越ガイド★ブック」という冊子をもってしても永遠の初心者。午前二時にようやくたくさんの段ボール箱に囲まれて就寝した。

 土曜日、八時半過ぎに引越し屋さんが登場。業者さん三人のチームワークで作業はつつがなく進む。君たちはネイマール、メッシ、スアレスか。全盛期のバルセロナの華麗なパスワークのように、家具が運ばれていく。難攻不落かと思われたドラム式洗濯機すらもいとも簡単に室外へ。空っぽになる部屋と、後ほど新居で会いましょう、という業者さんとのこの部屋での最後の約束。そして私は彼らの後を追って新居へと向かう。

 電車で僅か二駅の新居へ。引越し屋さんと再会を果たし、運び込まれる家具。あっという間に荷物の搬入が終了した。終わってみれば、目を離した隙に荷物が瞬間移動してきたようなほどのプロフェッショナル。

 深夜の作業と早起きが体調不良に拍車をかけ、ベッドにダイブ、そして気がつくと外は夕暮れ。何か食べなければ。依然体調は悪く、寒気を感じて上着を着て外に出た。aikoに『夏にマフラー』という曲があるが、そのアンサーソングか『初夏にフリース』という格好で歩く。もういつ街角でTUBEやサザンの夏の曲が流れてきてもおかしくない頃合いである。フリースを着てサマーソングを聴くなんて転居先の地域の条例に抵触しそう。桑田佳祐もフリース着て聞いてもらうために『希望の轍』とか作ってない。

 松屋の看板に吸い寄せられる。丼の中でも勝手に健康丼と認定している、キムチや卵や牛肉がのっかった牛ビビン丼をオーダー。そして食べ始めるも食欲がわかず、丼も味噌汁も少し残してしまった。並盛完食不可にいよいよ我が身を案じる。帰宅したら体温を測ってみよう、と思えど、体温計はいずこへ。まさか転居後すぐに使うことになるとは想定しておらず、積み上げられたたくさんの段ボール箱のどれかの奥底で待機している。もう長年使用している体温計だしここは新しいものを購入してもいいだろう、と自分に言い聞かせ、帰りにドラッグストアで購入、帰宅して早速測ったところのオーバー40である。

 日曜日の朝。微かな希望を胸に体温を測ってみるも全く下がっておらず、日曜でもやっている駅近のクリニックに当日の予約を入れた。お昼前、クリニックに向かって歩くものの徒歩10分が遠い。いつもは背筋を伸ばして颯爽と歩いている道を、毒に侵されたドラクエのキャラクターみたいに必死に一歩ずつ踏み出し、その度に体力を削られる。長旅の果てにようやく街に辿り着いたときの気分でクリニックに到着した。受付で名前を告げようとして驚愕、ろくに声が出ない。声帯を引越し元に置いてきてしまったのか。問診票の職業欄には「会社員」ではなく「天龍源一郎のモノマネ芸人」と書くべきなのかもしれなかった。そんな私の声にもならないような声を医師はじっくり丁寧に聞いてくれる。喉の痛み、咳、軽い頭痛に、倦怠感、食欲不振、関節痛。症状のフルコースであるが、不幸中の幸い味覚はある。そして、コロナとインフルエンザの検査を同時に行うことになった。コロナ禍以降、体調が悪くなることなどなかった私にとって初めての鼻腔拭い。

 検査終了から10分弱が経過し、結果が出た。インフルエンザは陰性だったが、新型コロナウイルスは陽性。お初にお目にかかります。あれほど国中が騒いでいて、周囲に感染者が続出していたピーク時を無傷で乗り越えたのに、まさかこのタイミングで感染してしまうとは。小学生の頃、よくドッヂボールで最後まで逃げ回っていたことを思い出す。避けるだけなら上手くできるのに、そもそも運動神経が良くないので、最後の一人になった状態で向かってくるボールをキャッチすることができず、当てられてしまう。悔しい、結局ボールがクリーンヒットして、感染してしまった。もはや第何波の何株なのか、そしていつまで新型なのかコロナウイルス

 思い返してみれば、ここ数ヶ月は激務の日々だった。平日、退勤は午後10時をまわることも多く、更にゴールデンウィークの海外旅行の準備、その直後の引越しの準備、とオンオフの境目なく奔走していた。盆と正月と旧正月が一緒に来たような忙しさの中、トランプ大統領が理不尽な関税政策を発表した直後の株価みたいに免疫力は暴落、これまで鎖国を貫いてきた体内はフリーパス状態、都民の日に無料開放される上野動物園のようになっていた、のかもしれない。

 処方された薬と休養でとりあえず熱はすぐ下がり、月曜朝にはほぼ平熱に。平日に熱が下がるなんて、なんという社畜体質。とは言えまだ喉が本調子ではなく休みたいところであるが仕事が溜まりに溜まっている。そしてしっかりテレワークができる環境である。くそっ、現代文明の利便性が憎い! しかしプライベートで技術革新の恩恵を受けていながら、一方でそれを非難するのはアンフェアなのかもしれない。遠くの友人らと簡単にリアルなコミュニケーションが取れる今、それが仕事でも付き纏ってくることを受け入れるべきだろうか。

 清濁併せ呑む覚悟で、私はパソコンの電源を入れた。

30年後のultra soul

 那覇の初日の出の時刻は7時17分で、その少し前にフェリーの客室を出てデッキへ向かった。まだ闇に包まれている那覇港を朝7時に出港したフェリーは、私の故郷である沖永良部島へ向け、沖縄本島の西側を北上していた。7時のフェリー、5時40分のタクシー、5時の起床……と逆算して作成したスケジュールをきちんとこなし、あとはフェリーの上から初日の出を見るだけであった。5時の起床であれば遅くとも夜11時ぐらいには就寝したいところであるが、そこは大晦日、大人しく眠るわけにもいかず、宿泊していた那覇のホテルのカウントダウンイベントに参加した。プールサイドでエイサーの演舞と、HYのボーカル仲宗根泉のいとこにあたる平川美香の歌唱、そして、年が明けた瞬間の花火を楽しんだ。新年の目標など立てるタイプではないけれど、当座の目標「朝5時に起きる」を胸に就寝。そして見事目標を達成し、順調にスケジュールをこなして、たどり着いたデッキの上、眠い目をこすりながら、東の方角に目を向ける。海の向こうに沖縄本島が横たわり、その上から朝日が顔を覗かせるはずだが、そこには分厚い雲が覆い被さっていた。曇天。地元で初日の出を見るときもいつもそうだった。水平線から昇る朝日を期待してもそこは雲に覆われ、ある程度の高さになった太陽が雲の隙間からようやく海上を照らすのが常だった。周囲を海に囲まれていると雲が発生しやすいのだろうか。逆に関東はいつも晴れているイメージで、自身、コロナ禍で一度だけ都内で新年を迎えた際も、浅草ビューホテルスカイツリービューの部屋から見事な初日の出を見ることができた。

 2016年の元旦に地元で初日の出を見てからもはや10年連続、世界中どこにいても初日の出を拝んできた。年末年始をどこでどう過ごすかは、どうやって初日の出を見るか、と同義だった。スペインはグエル公園から見たサグラダ・ファミリア越しの初日の出、クロアチアドゥブロヴニクで見た初日の出、コロナ禍の東京で見た初日の出、香港は尖沙咀から見た初日の出、そしてその合間合間に曇天の沖永良部島で見た初日の出があった。

 特にきっかけがあったわけでもなく、何となく始めたこの行為を惰性で続けて10年目、そして2025年の初日の出の時刻、7時17分を迎えた。太陽は雲に隠れたまま、その姿を見せようとしない。沖縄の気温は10度を下回らないものの、潮風が容赦なく吹きつけ、体感温度を下げる。一度客室に戻ることにして、ちょうど東向きだった窓から状況を見守った。

 雲の上下から光芒が伸び、その背後で太陽が出番を待ち構えていた。「今でしょ!」と元予備校講師の声が脳内に響き渡り、再びデッキへ。同じく初日の出を見ようと待機する乗客とともに固唾を飲んで見守る。雲が途切れたその隙間からようやく太陽が現れ、デッキの上の乗客と睡魔を照らした。今年もなんとかその姿を拝むことができた。謹賀新年。初日の出に照らされ、フェリーは北上を続ける。故郷までは7時間の船旅、左右に大きく揺れるフェリーに船酔いの危険を感じ、睡魔の助けを借りて、到着までの間、深い眠りについた。

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 14時、沖永良部島和泊港には、弟夫婦とその息子二人(四兄弟のうち三男と四男)が迎えに来てくれていた。少子化に奮闘する弟の運転する車で実家へと向かう。車窓から右に目を向けると田畑が連なり、左側には太平洋が広がっている。二年ぶりの景色だけれど、もはや「二年ぶりの帰省」慣れしている私。地元の雰囲気は懐かしいけれど、その懐かしいという感情に慣れてしまっている不思議な心地がする。鹿児島県の離島にある沖永良部島へは、東京からの直行便はなく、鹿児島経由の飛行機、または沖縄経由の飛行機またはフェリーという、時間もお金もかかる経路を辿らなければならない。もはや直行便のある東アジアの国々の方が近い感覚もあり、実家への足は遠のくばかり。結果、二年に一度ぐらいの帰省になってしまっている。30分後に実家に到着し、両親とも久々の再会を果たした。

 翌1月2日、日中は弟の家族と曇天の沖永良部島の観光地を巡った。道中、自分の子供を諭し、面倒を見る弟に幼少期の面影はない。勉強を教えても物分かりが悪く注意散漫で、いつまでも子供のように思っていた、そんな弟がいつの間にか立派に家族を築いている。

「 兄とは常に、弟の先を行ってなければならない」漫画『宇宙兄弟』で兄の六太の心の声として頻出する文章である。将来共に宇宙飛行士になることを約束した兄弟、時が経ち、弟の日々人が宇宙飛行士となって月へ旅立とうとしているとき、兄の六太は上司に頭突きをして自動車開発会社をクビになっていた。「だけど……何をやっても俺を追い越し、先を行くのは弟・日々人じゃないか」という兄・六太の苦悩と共に物語は幕を開ける。いつからか宇宙飛行士になるのを諦めた六太が、再び宇宙を目指すその姿に胸が熱くなるが、それはまた別のお話。私の話をしよう。

 ずっと弟の先を行っていると思っていた。勉強もスポーツも音楽も何もかも。島にかろうじて一校だけある高校を卒業後、大学進学を機に弟より一足先に島を離れ名古屋に住み、就職で上京して以来ずっと都心に住む生活をしている。一方弟は、私より二年遅れて高校を卒業し島を出て、大阪の専門学校に通った。その後早々に島に戻り、実家の電気店を継ぐ前提で今は電力会社で働いている。私が全く経験したことのない「家族を築く」という点においては、ずっと先に行ってしまった。弟の長男は、四月から高校に通うらしい。

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 その日の夜は親戚20人弱が実家に集まり宴会をした。父、母、弟、義妹、叔母、従兄、甥、その他、もはや関係性を一言で言い表せないたくさんの親族たち。テーブルの上に並ぶ料理の上を箸が行き来し、話題は過去と現在を行き来する。帰省すると繰り広げられるいつもの風景。数年前に祖母が他界し、弟や従兄に新たな命が生まれ、メンバーを変えながらもただただ楽しいひと時は変わらずにそこにある。しばらくするとお菓子を景品にしたビンゴゲームが始まり、それに続いてカラオケ大会が開催された。近しい人にこそ歌声を披露するのに恥じらいが生じてしまう私は歌うのを固辞し、甥っ子たちの盛り上げ役に徹するが、周囲からの圧に屈し、結局B'zの『ultra soul』を熱唱、実家が紅白のNHKホールと化した。思い返せば、人生で初めて購入した音楽アルバムはB'zの『LOOSE』だった。子供にとっての3千円はとても高価で、弟をそそのかしてお金を出し合い、今は亡き近所のCDショップで購入した。あれから約30年が経過していた。新進気鋭のアーティストたちに追いやられることなく、今もなお第一線で活躍している二人の凄さを痛感しながら、声を張り上げて歌った。親族一同の「ハイ!」が鹿児島県の離島の片隅に響き渡った。

 翌日は近所で親戚の子どもと過ごし、母方の実家を訪れた後、居酒屋で家族と酒を飲み交わす。その翌日の1月4日、あっという間に島を離れる日。沖縄行きのフェリーは時刻通りお昼の12時に和泊港に入港した。夕方に那覇港に到着し、夜のフライトでその日のうちに東京へ戻ることになっていた。

 初めて親元を離れたときのことを思い返す。高校卒業まで18年間過ごした島での生活は退屈極まりなく、ようやく島を出て都会での生活を謳歌できると期待に胸を膨らませていた。テレビも無え、ラジオも無え、は流石に言い過ぎだけれど、車はそれほど走ってないし、コンビニやマクドナルドもなかった。映画館とボウリング場は幼少期になくなってしまった。映画『タイタニック』が巡業でやって来て、同級生と町民体育館へ見に行ったのを覚えている。とにかく、都会の若者が享受できるあれこれが島には欠けていた。いつからか心の中に吉幾三が住みついて、『俺ら東京さ行ぐだ』で歌われる「俺らこんな村いやだ」という心の叫びを胸に抱くようになった(さすがに東京で牛を飼おうとは思わなかったが)。テレビに映し出されるマクドナルドの広告や、鹿児島市内にあるデパートのセール情報や、ドラマの登場人物の暮らしぶりなど、島民には手が届かない、手を伸ばしたところでブラウン管で突き指するだけの別の世界の出来事だった。

 スーパーファミコンの名作RPGMOTHER2』をご存知だろうか。主人公のネスは地球の未来を救うため、実家を離れて旅に出るが、ことあるごとにホームシックになり戦意喪失してしまう。ママに電話することでその状態は回復するのだが、私はというと島を離れてからホームシックにかかることなどなく、実家への電話も必要最小限。故郷を顧みず、ブラウン管の中の生活を楽しんだ。ちょうど反抗期真っ只中の時期に島を離れたことも関係しているのだと思う。思春期特有の、親と接するのが煩わしいような気持ちがずっと続いている私は、実家への執着心はなかった。「親ガチャ」という言葉が流行語になるずっと前に、それと似た考え方で自らの境遇を嘆いていたのかもしれない。それでも、毒親、虐待、ネグレクト、家庭内暴力、そういった言葉が他の家族の実例とともに目の前を通り過ぎて行くたびに、自分の家族への印象は改められる。特段誇れるようなものがない平凡な田舎の家族だったけれど、普通に愛情を注がれて育てられることの尊さを最近になってようやく思い知る。今なら少し分かるよ、ネス。ホームシックは家族への愛情の裏返しだったんだろう? 私もテレポートが使えるようになりたい。

 親族と宴会をしているとき、黒糖焼酎を飲みながらふと、島で暮らし、家族を築き、折に触れて親族と宴会を楽しむありえたかもしれない(これからありえるかもしれない)日々を想像した。そんな生活は今となっては魅力的に感じるけれど、一方で近しい人を島外へ送り出す寂しさもついて回る。高校卒業後、進学や就職のために一度は皆島を出ることが多い。去る者と去られる者、どちらが辛いだろうか、と考えたとき、それは去られる者だと思う。だけど、去られる者の心象に寄り添うとき、もはやこれまでのようにただ無邪気に去るだけの者ではいられない。和泊港で家族と別れる際、母親の表情から名残惜しさを感じ、去られる側の寂寞感を胸に私は去る。それは、都会で忙しなく生活する間に忘れ去ってしまうかもしれないし、心の隅にしぶとく残る類のものかもしれない。

 両親ももう高齢で、この帰省のペースでは、生きているうちにあと何度、あと何日会えるだろうか、と考えたりもする。その日が来たときに、ほとんど側にいられなかったことを後悔するだろうか。いつかそう遠くないうちに、島に戻って暮らすという決断を下すことがあるのだろうか。元予備校講師の「いつ戻るか?今でしょ!」という声が、胸に響くそのときが来るのだろうか。島に戻るとして、一体何をして生計を立てればいいのだろうか。

 フェリーが島を離れていく。島での3泊4日を振り返り、その遥か向こうにある18年間を思う。故郷がゆっくりと遠ざかり、見えなくなる。フェリーはしっかりと南へ航路を取って進んでいくけれど、私は大きく蛇行しながらの航海を続けている。