私が初めて香港の啓徳空港 に降りたのは一九八六年八月二三日のことだった。二十歳と半年、一年間限定の交換留学生という気楽な身分だった。眼下の電柱や看板をなぎ倒し、ビルの屋上にひらめく洗濯物をひっかけそうになりながら滑走路につっこんでいく、あの感じ。天国でも飲んだくれていたヨッパライが雲の上から蹴飛ばされ、ぽーんと下界に放り出される、そんな感じ。
これから人間世界にぶちこまれるんだ。
理屈でも観念でも何でもなく、いきなり視覚にそう訴えかけられたことを今でも覚えている。そしてその感覚が、私の香港に対する印象を決定づけてしまったのである。
星野博美 『転がる香港に苔は生えない』
啓徳空港 に着陸してみたかった。九龍半島 の北東部にかつて存在していたその空港は、私が最初に香港を訪れた1999年には既に閉鎖され、新しい現在の香港国際空港 に移管されていた。沢木耕太郎 の紀行小説『深夜特急 』の世界、ウォン・カーウァイ の映画『恋する惑星 』の世界、B'zの楽曲『HOME』のMVの世界。後から当時の啓徳空港 とその周辺の雰囲気を知るにつれ、間に合わなかったことを悔やんだ。そして、私はまた香港行きの航空券を手にしていた。啓徳空港 ではなく、1998年に新しくできた香港国際空港 へと向かう航空券。
香港は雨だった。気象当局は、1時間あたり70ミリ以上の豪雨に相当する「ブラックレイン」の警報を出していた。香港では降雨警報が弱い順からイエロー、レッド、ブラックと定められていて、ブラックは最悪、公共交通機関 が休みになったり、商店等が閉店したり、香港中の人々が「はぁ、今日の予定が……」とため息をつき二酸化炭素 濃度が上昇したりするという。因みに、台風についても1、3、8、9、10と、欠番入りで5段階の警報レベルがある。8以上だと学校や会社が休みとなり、T.M.Revolution ごっこ は厳禁、ナマ足魅惑のマーメイドも自宅待機を余儀なくされる。あくまで企業や個人の判断に委ねられる日本とは異なり、上が方針を決定してくれるのはありがたい、と思うのは働く側であって、サービスを受ける側からし てみれば、悪天候 の中でも働きに出てくれる人のありがたみを感じる。
8月14日、午前9:25に成田空港を発ったキャセイパシフィック航空 のCX509便は、定刻の13時過ぎに香港国際空港 に着陸。到着時には警報はブラックからレッドに緩和されていたようだが、飛行機のドアを外から開けるスタッフがおらず、機内でしばらく待たされることになった。
もう何度目の香港か。高校の修学旅行で初めて訪れた海外、かつ大学の交換留学で初めて住んだ海外である香港には、即答できないぐらい数多く訪れている。2023年から2024年の年越しを香港で過ごした際、コロナ禍以降初の海外旅行だったせいもあり、このブログでOmoinotakeが爆発、ついでに香港歴を列挙していて、そのときが14回目だった。その後、2024年の八月にクアラルンプールからの帰りに立ち寄ったのが15回目なので、今回が16回目ということになる。iPhone のナンバリングとデッドヒートを繰り広げているが、ともかく「久々の訪問」が積み重なりすぎて、毎回同じように胸に抱く「あ〜懐かしい!エモい!」という感情。もはやわざわざ記事にすることなど残されていないような気もするけれど、「懐かしい」「エモい」という感情も16回目と15回目と14回目では微妙に異なる。昨今、何かと「エモ」で片付けられがちな感情をゴリゴリに噛み砕いて、途中で読むのが面倒くさくなりそうなぐらいの長文にしたためる予定である。チャンネル、もとい画面はそのままでお付き合いいただければ幸い。騙されたと思って最後まで読んで、本当に騙されて時間を無駄にしてほしい。
八月のお盆休み、もともと出かけるつもりはなかったけれど、夏休み期間にしてはそう高くないキャセイ のチケットを見つけた。片道約3,000kmの旅が僅か数センチほどの親指移動で決定する時代。スマホ の航空券購入確定ボタンは松浦亜弥 『Yeah! めっちゃホリディ』の再生ボタンでもあった。せっかくだから足元の広い席を、と思いエクストラ・レッグルーム席を指定し、結局はそれなりの料金になってしまったが、機内で『トワイライト・ウォリアーズ』を見て、香港気分を高めることができるのはLCC にはないフルキャリアの特権(睡魔に負けて途中離脱してしまったが)。旅客機は九龍城砦 をかすめ、啓徳空港 に着陸した気分でいたけれど、それは映画の中の時代。雨水が伝う機内の窓から見えるのは1998年に開業した香港国際空港 の景色だった。
30分ほど待たされ、ようやく機内から脱出。入国審査へと急ぐ。2024年10月から、入出国カードの記入・提出が不要になっていた。その影響なのか、たまたまタイミングが良かっただけか、入国審査の列が普段より短く、通常30分ほどかかるところ10分ほどで審査を終えた。
市内へ向かう前に、交通系ICカード 、オクトパスのチャージを行おうと到着ロビーの機械に差し込んでみるものの、エラーで吐き出されてしまう。最後の使用から1,000日経過した場合は、窓口でリアクティベートが必要だが、最後に使用したのは一年前、問題はないはずだった。もう一度差し込んでみるものの、再度吐き出されてしまう。飲みすぎた新橋のサラリーマンか。ウコンの力 を差し出したい気持ちを抑え、カウンターに並ぶ。市内までのエアポートエクスプレスのチケットを買うついでにスタッフに訊いてみると、オクトパスが古すぎるので、市内のどこかの駅で新しいものに無料で交換してくれとのことだった。
エアポートエクスプレスで香港駅へ、そこから香港島 北部を東西に走る港島線に乗り換えて、ホテルのある炮台山へ向かう。炮台山駅で無事オクトパスを交換し、ホテルにチェックインした。
香港の地域を大きく分けると、ビクトリアハーバーの南に浮かぶ香港島 、ビクトリアハーバーを挟んで北に位置する九龍、更にその北にあり中国本土と接している新界(留学先の大学はここにあった)の3つで、その周囲に大小様々な島が存在する。実は香港島 にホテルを取るのは初めてで、これまでは九龍にある尖沙咀 に泊まっていた。それは、香港島 と、個人的に思い入れのある新界の両方にアクセスが良いのが理由だが、そもそも尖沙咀 という街自体が好きだった。新旧様々な店が乱立し、ペニンシュラ のような高級ホテルがあると思えば、悪の巣窟とも呼ばれていた安宿が密集する重慶 大厦もある。九龍公園で地元民が太極拳 をしているかと思えば、プロムナードでは観光客が対岸の香港島 の景色に目を奪われている。この世の全てが凝縮されているようなこの街の混沌とした感じがたまらない。
今回、初めて香港島 に宿泊することにしたのは、ともすれば「旅行」ではなく「里帰り」的な意味を帯びてしまうこの訪問に一石を投じたいからだった。また、ウェブ上で見たハーバーグランド香港の上層階からの景色が素晴らしかったのもある。
尖沙咀 のプロムナードに立てば、対岸の中環の高層ビル群が目に入り、逆に中環のスターフェリー乗り場近くからは対岸の九龍の建物が眺められる。その両方の建物が聳える景色を一度に楽しみたい貪欲な人々のために、香港島 のビクトリアピークや九龍の展望台スカイ100などが存在し、ハーバーグランド香港もそんな欲にまみれた旅行者のためにあるようなホテルだった。高層階から見下ろすと、中央にビクトリアハーバーが広がり、左には香港島 、右側には九龍のビル群がその輝かしさを競い合っている、はずだった。しかし雨。元・ブラックレイン、現・霧雨程度の雨が最後の力を振り絞ってホテルの窓を湿らせていた。41階のレストランでディナーを取ることになっていたが、窓は曇り。視界を遮られたほうがかえってコース料理の味に集中できるというもの、と自らに言い聞かせて和牛のステーキをほおばる。
翌朝、天気は回復していた。再び41階に上がってみると、ウェブ上で見た通りの景色が眼前に広がっていた。いや、一つ違う点を挙げるとすると、なんと香港島 と九龍半島 の間に虹がかかっていたのである。私は昨夜の悪天候 の全て、機内に一時閉じ込められたのも含めて全て許した。ブラックレイン後の虹。初めての香港島 宿泊で、こんな景色を見ることができるとは。
ホテルで朝食を取った後、チェックアウトをしてタクシーで尖沙咀 へと向かった。従来の香港訪問に一石を投じるために香港島 宿泊を決めたのだが、やはり尖沙咀 愛を抑えることができず、後の二泊は結局尖沙咀 のシェラトン に宿泊することにしていたのだった。シェラトン に到着したのはちょうど正午ぐらいだったが、運良く部屋に入ることができた。ハーバービュー指定で予約した部屋、カーテンを開けるとビクトリアハーバーを挟んで、香港島 の景色が目に飛び込んできた。
ホテル近くの重慶 大厦で恒例行事の外貨両替。ここの両替商はレートがすごぶる良いのである。余っていた人民元 を香港ドル に両替した。その後、新界の沙田へ向かおうと尖東の駅へ向かうと、改札がちいかわ仕様。カードをタッチするたびに「ちいかわ!」と声が鳴り響く。重慶 大厦の怪しい雰囲気との振り幅が凄まじく、またこの尖沙咀 の何もかも受け入れてしまう包容力に驚愕する。メイドインジャパン の「KAWAII 」は以前と変わらず香港を席巻し、電車内でもクレヨンしんちゃん やキティちゃんなどのキーホルダーを見かけた。
紅磡で電車を乗り換えて新界の沙田へ。広大なショッピングセンターがあるこの場所は、留学していた香港中文大学から二駅と近く、度々訪れていた。現地の友人に連れられて携帯電話を購入した場所でもあり、学食に飽きたときの逃げ場でもあった。留学中にリリースされたミスチル のアルバム『シフクノオト』を購入し、帰国時の航空券を受け取ったのもここだった。近場で買い物するとなるとまずここを訪れ、当時1香港ドル =約15円のレートで円から両替された香港ドル をこの場所に落とし続けた。
改札を抜けると広がるおびただしい数のお店が目に入る。一軒一軒は当時と異なっているはずだけれど、たくさんの商品に囲まれて圧倒される感覚は当時のままである。香港ローストのチェーン店、太興で燒味飯を食べ、僅かばかりの香港ドル を落とす。そして、再び電車に乗り、香港中文大学へと向かった。
香港中文大学、1963年に創立された香港を代表する大学の一つ。四つのカレッジが合わさってできた大学で(現在は九つ)、山の斜面に建っている広大なキャンパスには、食堂、寮、スーパー、書店、床屋、銀行などがあり、授業の時間に合わせて校内をバスが走っている。私は2003年から2004年にかけての八ヶ月、最も駅に近い崇基學院 (Chung Chi College) というカレッジに属し、そこにある寮に住んでいた。
2019年11月、私は日本にいて、思わぬ形で香港中文大学を目にすることになる。テレビに映し出されたのは、火の手が上がる校内、飛び交う叫び声、そこでは武装 した警官隊とデモ参加者が衝突していた。自分が住み、学んだ場所をこんな形で目にすることになるとは思わなかった。社会運動の混乱と、その後のコロナの流行もあってか、前回訪問した一年半前には入校制限が取られており、関係者以外の立ち入りが禁じられていた。柵の外側から校内を眺め、もうこの場所に入ることはできないのだろうか、と思っていた。今回、事前に現地の友人に確認したところ、パスポートの提示で校内へ入ることができるとのことだった。
「下一站、大學。 下一站、大学。 Next station University.」
広東語、北京語、英語の順で、大学駅 到着を告げる懐かしいアナウンスが流れた。留学中の私にとってそれは、休日、香港の街を堪能し尽くした後、一日の終わりに心地良い疲労 感と共に聞くアナウンスだった。学内の寮に住んでいた私の生活は毎日、大学に始まり、大学に終わっていた。かつては「帰る場所」だったそこは今や「訪れる場所」、三つの言語でのアナウンスも今の私には当時とは異なる響きをもって聞こえてくる。
大学駅 の改札を抜けると、前回訪問時と同様、入口が柵で囲まれていた。ただ、友人が言っていた通り、以前はなかった訪問者用のレーンが築かれている。そのレーンに並び、パスポートチェックの後、無事足を踏み入れることができた。
目の前に広がるグラウンドと、左右に伸びる道路、当時と変わらない駅前の佇まいに感慨深い思いが込み上げてきた。グラウンドと池に挟まれた小道を進むと、足繁く通っていた図書館と食堂が見える。崇基學院の図書館は、学内に複数ある図書館の中でも日本語の書籍が多く、留学中日本語に飢えた私はここに入り浸っていた。そして、留学中のほとんどの食事を取っていた食堂。最初に覚えた広東語のほとんどはこの食堂のメニューだった。ここで何度「凍咖啡」と口にしたか分からない。香港のアイスコーヒーは最初からシロップが加えられていて絶妙に甘く、ブラックが苦手だった私はよく飲んでいた。朝は点心を食べ、昼はご飯の上に肉と野菜が載ったわずか10〜20香港ドル (150〜300円)程度のシンプルな料理を口にして、アイスコーヒーで流し込む。夜も度々ここで食べていた。食の都、香港。街に出ればここより美味しいレストランなどたくさんあるけれど、私にとっての香港料理は、ここ崇基學院の食堂の料理だった。食事を取るだけではなく、友人と語らい、勉強をし、テラス席でギターを弾いて過ごした。顔馴染みの店員もできて、簡単な広東語や英語で会話することもあった。留学当初に感じていたお米の不味さに慣れた頃、この場所が自分にとって「食堂」という一言では済まされない思い入れのある場所となっていた。
香港中文大学に交換留学する学生は、中国語学 習をメインに行うことになる。中国語の共通語(普通話 )か、香港で使われる広東語のいずれかを選択し、少人数制で徹底した教育を受ける。私は前期に広東語を選択したが、後期はSARS の影響で留学生の数が少なく広東語のクラスが閉鎖となり、普通話 のほうを学習した。中国語学 習以外では、英語で開講される言語学 の授業を選んで受講していた。日本と違い、大教室での講義の後、小教室で大学院生が補足となる授業を行う形式だった。どの学生も、専攻に関わらず英語の文献を読みこなし、世界を直で知ることのできる彼らとの差を痛感した留学生活だった(ただそのギャップもAIの登場で小さくなっているのかもしれないが)。
そんな私の留学生活が始まったのも八月の暑い日だった。顔中の汗を拭って顔を上げると、あの夏へ戻れるような錯覚を抱いてしまう。それでも、以前はなかった建物が立ち並び、当時の友人らはもうここにはいない。吹き出る汗も二十歳そこそこの当時とは違い不純物を多分に含んでいるだろうし、いつしか私はブラックコーヒーを好んで飲むようになっていた。
食堂の裏手に回り、教会の側の木々に覆われた小道を進んだ。その先に、私が住んでいた寮、神學樓があるはずだった。もう何年ぶりだろうか、中文大学には時折訪れていたけれど、ここまで足を運んだのは久しぶりのことだった。留学中、毎日のように通っていた小道を歩く。木々が日差しを遮ってくれていたが、それでも汗は流れ、それに構わず歩き続ける。一歩一歩が過去につながっているような気がする。しばらく歩くと、寮へと続く上り階段が見えた。以前のまま、変わらずそこにあるだろうか、と思いながら階段を上がった。
果たして、神學樓はそこにあった。増築が施されていて、以前と寸分違わぬ姿というわけにはいかなかったが、その二階の一画が紛れもなく私が八ヵ月間過ごした場所だった。十畳ほどの空間を、現地のルームメイトと分け合って過ごしていた。トイレやシャワールーム、台所など共有しなければならない設備も多かった。シャワーはワンフロアに三つ、時には順番待ちをしなければならなかったし、適温を提供してくれないこともあった。また、思春期にプライベートがない空間で過ごすことには抵抗があった。当時を思い返しながら建物を見つめる。決して居心地の良い場所ではなかったけれど、今となっては、無性に当時に戻りたい。
新しくできた書店を覗き、中国語を学んでいた建物の前を通って、駅へと戻った。九月の新学期を前に校内は閑散としていた。授業が終わった後、教室から学生が吐き出され、広東語が飛び交い、バスに吸い込まれていく光景が見られないのが淋しくもあったけれど、見てしまうと時間の経過を否応なく突きつけられて眩暈を起こし、学内のメディカルセンターに担ぎ込まれていたかもしれない。久しぶりの中文大学、ついどこかに自分の痕跡を探して歩いていた。向いのホーム、路地裏の窓、こんなとこにいるはずもないのに。
夜は、現地の友人と旺角で飲茶をすることになっていた。以前はネオンサインが道路に迫り出し、いかにも香港らしい風景が広がっていたこの街も、安全面の問題から看板が撤去されていた。変わりゆく香港の姿にやりきれない気持ちを抱いてしまうが、そもそも香港は転がるように変化し続けてきた街。1994年に九龍城砦 が取り壊され、1997年にイギリスから中国に返還され、1998年に啓徳空港 が廃止。わずか八ヶ月、ほんの僅かな時間居候させてもらったその間の香港がまるであるべき姿であるように考えるのはお門違いも甚だしいのかもしれない。でも、そんな香港だからこそ、昔ながらの景色を見ると安心してしまう。昔のままの倫敦大酒樓で、昔のように友人と点心を囲んだ。
翌日、滞在三日目は、香港島 の淺水灣と赤柱を巡った。市街地からアクセスが少し悪いけれど、また違う香港の魅力が感じられて好きな場所である。
そして四日目の帰国日、再び香港国際空港 。今はなき啓徳空港 への強い憧れを抱いてしまうけれど、この空港も私にとって思い入れのある場所になっていた。留学開始時、たった一人で降り立った空港、帰国時には友人らが見送りに来てくれて、空港で最後の飲茶を楽しんだ。来られなかった友人らもその直前に食事に誘ってくれた。留学中、多くの人が気にかけてくれた。今となっては連絡のつかない人たちもたくさんいるけれど、今は失われた人脈も、香港に対する好意的な感情の一部になっていて、私を何度もこの場所へ向かわせている。
「離港 Departures 」の看板の方向へ。手荷物検査、出国審査を終え、制限区域内のレストラン「正斗」で最後に燒味飯を食べる。そして、キャセイ の機内に乗り込んだ。
何度も訪れている香港、四日間で十分かと思っていたけれど、終わってみれば行きたかった場所が山積みでビクトリアピークより高いし、ビクトリアピークにも行きたかった。また近いうちに香港を訪れるような気がする。それをこれからもずっと、年老いてもこの行為を繰り返すと思う。もしそのときに孫がいたら「おじいちゃん、香港はもう行ったでしょう?」と痴呆症を疑われるかもしれない。でもそれは逆で、あの八ヶ月を思い返し、しっかりと記憶に留めるための行為となる。
定刻の15時過ぎに飛行機は離陸。窓から香港の姿が見えなくなった後、『トワイライト・ウォリアーズ』の続きを見ようと、機内エンターテイメントサービスを起動した。
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