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脂肪と郷土愛

 ゆっくりと12月のあかりが灯りはじめ、慌ただしく踊る街を誰もが好きになる頃、オミクロン株の恐怖が襲いかかろうとしていた。年末年始に四年ぶりの帰省を企てる私の脳内では、奥田民生が「今年は久しぶり田舎に帰るから」とあの名曲の一節を口ずさんでいたのだが、いつの間にかその歌声が、新規感染者数を告げるニュースキャスターの声に変わっている。

 2019年はスペイン、2020年はクロアチアで年始を迎え、さすがにそろそろ実家に帰らないと、と思っていた2020年春に新型コロナウイルスが流行り始め、2021年は初めて東京で新年を迎えた。ワクチン接種の効果か、2021年の暮れには新規感染者数が徐々に減少し、今回なら帰省できる……!と思っていた矢先の聞き慣れぬ五文字「オミクロン」、もうこれ以上、新しいギリシャ文字の知識を増やしとうない!

 じわじわと上昇する都内の新規感染者数は、それでもなんとか二桁にとどまっていた。これなら帰省できると思えど、鹿児島県のコロナの状況を確認して唖然、12月に入りずっと県内の新規感染者数ゼロだったのが、中旬に何と鹿児島県で唯一、故郷である沖永良部島に突然感染者が発生していた。一週間ほどかけて計11人の感染者、人口約1万2千人の島での感染者1人は、東京の人口に換算すると1千人超が感染していることになり、感染者1人でもはや緊急事態宣言のレベルなのである。これはもしかしたら東京よりも強い緊迫感が漂っているのではないか。事実、母親からの電話には島民の危機感が感じられ、故郷の友人たちと久々に黒糖焼酎を飲み交わす至福のひとときが遠のいていくようである。

 旅行に行けずとも陸でためたマイレージ、そのマイレージを大量に消費して予約した航空券をキャンセルすることなく、帰省する12月29日を迎えたが、果たしてこのタイミングで帰省するのは正しいのか否か、そんな想いを抱きながら羽田空港へと向かう。凍てつく寒さからしばし逃れられる、という高揚感よりも、自分がコロナを持ち込みやしないか、逆に島で感染するようなことはないだろうか、という不安のほうが強い。それでも、機体が宙に浮いた瞬間、久々の旅行気分を味わっている自分がいた。窓の外には富士山、初夢でまたお会いしましょう。

 羽田から三時間かけて那覇へ、乗り継いで一時間弱で沖永良部島に到着する。飛行機の窓から見える故郷は雨にけぶり、私を歓迎する素振りが全く見られない。ナイキのエアフォースワンで踏む四年ぶりの沖永良部の地は、雨に濡れる沖永良部空港アスファルトであった。

 迎えに来てくれた父の、深く刻まれた皺や、染めるのをやめてしまった頭髪に老いを感じる。父親というより祖父の顔。弟に四人目の子供が生まれたことも「じいじ感」を助長させているのだろうか。前回帰省時には小学二年生だった弟の長男は六年生となった。幼少期の四年間はとてつもなく長い期間で、甥っ子たちからしてみれば私は、年始に会うとたくさんのお金を落としてくれるレアキャラなのかもしれない。

 父の運転する車から外を眺める。道路沿いの歩道にソテツの木が植わっていて、その向こうに田畑が広がっている。その景色は、昔と変わっていないはずなのにどこかよそよそしく見える。

 高校を卒業するまでの18年間を島で暮らした。高校がかろうじて一校だけある小さな島で、高校卒業後は就職・進学のためにほとんどの人が島を離れるが、その後結局Uターン就職する人も多い。「将来は島に帰るの?」島を離れてから幾度となく浴びせられたこの質問に私は「帰る予定はない」と即答していた。コンビニもマクドナルドもショッピングモールもない島での生活は退屈で、テレビに映し出される都会へのあこがれが退屈さを助長させた。良くも悪くも牧歌的な空気の中にあって、特に志望校を目指して勉学に励んでいた受験生の時分は周囲とのギャップを感じていたのかもしれない。私のベクトルは完全に島の外へ外へと向いていた。ちょうど反抗期真っ只中の頃に島を離れたことも関係しているのだろうか、思春期特有の、親と接するのが煩わしいような気持ちがずっと続いている私は、ホームシックなど抱いたことがなく、地元への、そして実家への執着心は全くなかった。

 数年前に祖母が倒れ、入院生活が始まった後は、これが最後になるかもしれないと年に一度は帰省するようにしていた。90歳を過ぎ、大往生を遂げた後は、また凧の糸が切れてしまったように実家を気にかけることなく、都心での生活を謳歌し、年末年始の休みは海外に飛んだ。

 一部、新型コロナウイルスの影響もあるとは言え、四年間の不在は長すぎた、と思う。懐かしさと、違和感と、疎外感と、様々な感情が混ざりあった形容しがたい想いを抱きながら、父の運転する車に揺られ、感情まで揺さぶられる。

 空港から30分ほどかけて、実家に到着した。母と、近くに住んでいる弟と再会する。冷蔵庫に貼られた健康情報、無造作に置かれている相田みつをの詩、全盛期のGLAYのポスター、家中に点在する稲中卓球部の漫画本、そういった一つ一つが無性に懐かしい。

 大晦日、そして元日と、親族が私の実家に集まり、畳部屋の重厚なテーブルの上には、寿司、すき焼き、焼き肉など私の大好物が並んだ。そして、この四年間で生まれた子供たちと初対面を果たす。気がつけば父方、母方の祖父母が皆この世から去っていて、こうして新しい命が生まれている、その生命のサイクルが繰り広げられる場面に私が不在であるという事実が寂しくもある。と同時に、自分が不在だとしても皆にぎやかに島の生活を送っているのだろうという安堵感もあった。

 年末年始の休みはあっという間で、箱根駅伝の往路が始まった1月2日、私は一足先に東京への復路についた。親の運転する車で空港へ向かう。窓の外の田舎の風景と、老いた両親。島の風景は全く変わっていないように思えるけれど、そこに暮らす人々は着実に年老いていく。景色が変わらないからこそ余計に、人の変化を痛感してしまうのだろうか。そして、実家をほとんど気にかけることのない私は、「老い」や「死」から目をそらし続けているのではないか。

 沖永良部空港の空は断続的に雨が降る悪天候で、また私を送迎しようという気が全くない。見送りに来てくれた両親と別れ、手荷物検査を終え、狭い待機場で待つ。

 滞在中、子どもたちに囲まれ、にぎやかに暮らしている家族を見て、自分一人が無理に帰省しなくてもいいだろう、とふと考えた。それでも皆、私の帰省を喜んでくれ、滞在日数の短さを残念に思ってくれる。私は紛れもなく家族の一員であり、ここにいることが求められているのだ、という実感は四年という長い不在があったからこそ感じたことなのだろうか。これまでも、そしてこれからもずっとその最中にいると思っていた反抗期のようなものから、ようやくここで抜け出したような、そんな気がした。

 40人乗りの小型旅客機が離陸する。窓の外には、海岸線に打ち寄せる波、区画整理された田畑、点在する低い建物、そのどれもにうっすらと灰色の膜がかかっていた。祖母と両親と弟と五人で暮らしていた記憶の中の島の景色、自然の原色を伴って思い出されるその景色とは対照的である。いつの間にかずいぶん遠くまで来てしまった。「将来は島に帰るの?」と内なる声が私に問いかけ、私は相変わらず「帰る予定はない」と即答する。だが、それで本当にいいのだろうか。少し後ろ髪をひかれる思いで、他の同級生と同じように島に戻って暮らす自分の姿を想像してみる。

 その思いを断ち切るかのように窓の外の景色は後方へと追いやられていく。気がつけばもう海しか見えない。