日記なんかつけてみたりして

コメント歓迎期間中

帰省のはなし

旅客機は島の海岸線沿いを飛行していた。窓の外を見ると、けたたましい音で回転するプロペラの向こうに、海岸線に打ち寄せる波、区画整理された田畑が見える。徐々に高度を下げる旅客機、このまま田畑に突っ込むのではないかというところで突如アスファルトの地面が現れ、ほどなく着陸の衝撃が体に伝わる。

2017年12月31日、私は約一年ぶりに故郷、沖永良部島の大地を踏んだ。

空港には「祝 NHK紅白歌合戦初出場 竹原ピストルさん 三浦大知さん」と書かれた横断幕が掲げられていた。三浦大知の両親が沖永良部出身で、竹原ピストルはよく分からないがとにかく島にゆかりのある人物らしい。島が輩出した人物ではないにもかかわらず、誇らしげに主張するその行為。自分が大した人物でもないのに著名人との人脈を自慢しているようで、気温20度弱の中にあって薄ら寒さを感じてしまう。その事実が自分と島との距離感を表しているようにも思える。

生まれてから高校を卒業するまでの18年間、島で暮らした。コンビニがない、マクドナルドがない、ショッピングモールがない、まるで吉幾三の『俺ら東京さ行ぐだ』の歌詞のような島を一刻も早く出たかった。島を離れてから、島での生活をうらやむ声に接するたび、島での退屈だった18年間が羨望の言葉を見事にかき消した。

いじめられていたとか人間関係がこじれていたとかいうことはない。ただ、良くも悪くも牧歌的な空気の中にいて、特に志望校を目指して勉学に励んでいた高校三年生の時分は周囲とのギャップを感じていた。

「将来、島に戻る気はないの?」約10年前、新入社員の私に会社の先輩が訊いた。帰るつもりはないです、と答える私に先輩は「島で過ごした18年間と同じ時間を島外で過ごしたらまた考え方も変わるかもね」と言った。

そして2018年で36歳、年男となる私は中学校の同級生との年の祝いのためにこうして島に戻ってきた。

年が明けて1月2日、よそよそしい雰囲気にならないかと多少の不安を抱えながら、待ち合わせの神社に向かった。その不安は杞憂だった。同級生と顔を合わせ、一言二言かわすだけで当時に戻っていた。距離も時間も遠く隔たった島での暮らし、私が勝手に築いていた分厚い壁は温暖な気候できれいに溶け去ってしまったかのようだった。同級生との久々の再会を喜んでいる自分がいた。

お祓い、記念撮影をして、母校の中学校へとバスで移動する。旧校舎は取り壊され、当時の面影はほとんどなかったが、どこに何があったと周囲と答え合わせをして当時を再現する時間もまた楽しい。

母校で再び記念撮影をした時点で、祝の宴まではまだ時間があった。だいぶ余裕をもって時間が設定されていたようだった。急遽、観光スポットの一つであるウジジ浜へと向かうことになった。波に浸食されてできた奇岩が並ぶその浜には初日の出を見るために訪れたこともある。この日は晴れ渡っていて、空と海の青が目にまぶしかった。

再びバスに乗り、会場へと移動する。

当時を振り返るスライドショー、島の伝統芸能であるエイサー、当時の懐かしい話などを肴に、島の特産である焼酎を飲む。遠く隔たったと思っていた当時が今目の前にあった。確かに私はここで18年間暮らしていたのだった。うろ覚えで島の民謡を踊り、フォークダンスでは青春が蘇ると同時に時にパートナーの指輪の感触が生々しくもあり、そしてまたうろ覚えで中学校の校歌を歌った。楽しかった。

「将来、島に戻る気はないの?」滞在中、会社の先輩と同じことを、同級生が、そして母親が私に問う。「帰るつもりはないよ」そう答える私は以前ほどの断定的な口調だったのかどうか。

1月4日、帰京の日に再び空港に掲げられている横断幕を見る。「祝 NHK紅白歌合戦初出場 竹原ピストルさん 三浦大知さん」。紅白歌合戦、音を重ね演出を派手にして盛り上げようとする中で竹原ピストルのギター一本での弾き語りは引き立っていたし、三浦大知の一糸乱れぬダンスと圧倒的な歌唱力には素直に感動した。その二人が故郷と関わりがあることが、少し誇らしくも思えた。