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本棚劇場

「やっぱり本は紙派ですか?」

読書好きの人から度々受けるそんな問いかけは「紙派です」という答えを期待しているようで、いつも僅かな後ろめたさを抱えながら「電子書籍派で……」と答える。読書好きは概して紙の本が好きなのだろうか、読書好きを自負しているものの電子書籍派の私はマイノリティーなのか、もしかして私は本当は読書好きではないのだろうか。

電子書籍が好きな理由は、場所を取らないし、荷物にならないし、語句検索もできる、そういったことが理由だが、紙派の方々もこれに負けない利点を数多く挙げるのであろうし、私もそのいくつかには、というかほとんどに納得するだろう。それでも私が電子書籍派だと言い張るのは、結局、これまで自分が本と接してきた経緯が深く関わっているのだと思う。

鹿児島県の離島で生まれ育ち、大学入学時に名古屋に移り住み、在学中に香港へ留学、名古屋に戻り大学院を修了後、就職で上京した際には千葉県の寮に住み、現在は東京に居を構えている。引っ越しのたびに荷物を減らす必要があり、特に直近二回の引っ越しの際は、たくさんの蔵書を前に途方にくれた。新居へ持っていく本を選ぶことは、処分する本を選ぶことである。読みたい、と思って購入し、ワクワクしてページをめくったときの感情ごとブックオフに売り飛ばす。支払われる金額は、手切れ金としてははしたない金であった。

引っ越しを繰り返し、今住んでいるところも仮初の場所、という意識がある以上、本の増殖をなるべく抑えたい。そんな私に手を差し伸べてくれたのは、夜空をバックに丘に腰掛け横を向いて本を読むシルエットの少年であった。Kindleのアプリ。いつしか私はAmazon電子書籍を購入し、iPadiPhoneKindleアプリで本を読むことが多くなった。

ただし、書店で見かけたサイン本や古本、そもそも電子化されていない本などは紙で購入することになり、結局は部屋の隅に無造作に積まれた本の山が隆起を繰り返している。また引っ越しのときに苦労することになるぞ、と本の山を視界の隅に捉えながらこの文章を打っているけれども、一方で本に囲まれた空間に対して憧れを抱いているのも事実。その本の山はKindleのアプリに列挙される本のリストよりも雄弁に自らの存在を主張する。未読本は早く読まれることを所望し、既読本はまるで私の知識が具現化したような顔をする。とにかく自分の読書歴の過去と未来がそこに塊として存在しているような印象を受けて、それはiPadiPhoneなどの媒体の中にしか存在しえない電子書籍とは佇まいが全く違う。

通勤時、会社とは反対方面へ向かう空いた電車に乗って遠くへ行きたい、という願望を抱くことが時折あって、12月中旬の水曜日、私はその背徳心の塊のような行為をしていた。「背徳心の塊のような」であり、塊そのものではないのは、きちんと有給休暇を取得していたからで、とは言え残してきた仕事に少し後ろ髪を引かれる心地ではあった。

電車は都心を離れ埼玉県へ入る。電車を乗り継いで目的地付近まで来たときには、車窓からのどかな景色が広がっていた。

あるツイートに添付された画像に目を奪われたのはその半月前のことだった。広角カメラで撮ったと思しきその写真の中央には、マスクを付けた女性がスカートを翻し、その女性を取り囲むように巨大な本棚が並んでいた。いつか行きたいと思っていたドイツのシュトゥットガルト市立図書館の美しい映像を思い返し、どこの国のなんという場所だろうか、とツイートのリプライを確認してみると「角川武蔵野ミュージアム」という日本語の名称が飛び込んでくる。その角川武蔵野ミュージアムという建物の中の「本棚劇場」というコーナーらしい。Google Mapsで自宅からの所要時間を確認すると約1時間、行くか行かないか、という選択肢はもう消え去っていて、いつ行くか、という時期の問題だけがあった。そして、有給休暇とチケットの両方が取得できた12月中旬に、そこへ向かう電車に揺られている。

東所沢の駅で降りて、地図を頼りに約10分、どこにでもあるような住宅街を進んでいくと、突如目の前に現れる巨大な石の塊、隈研吾が設計した角川武蔵野ミュージアムが目の前にそびえ立っていた。入口を探して建物の周りをぐるりと回ると、それにつれて巨大な石の形も変わる。それを意図しての入口の分かりづらさなのか、と思うほど多面体のユニークなデザインに圧倒される。

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開館時刻の午前10時前に到着したのは、密を避けるため、ということもあるが、本棚を独り占めしたいからでもあった。考えてみれば、コロナ流行前から密を避ける生活をしてきたような気がする。本を読み、楽器を演奏するなど、一人で完結する趣味がたくさんあって、ステイホームが苦にならない性分である。開館前ではあったが、入口前にはすでに数人が列を作っていて、適度な距離を保って自分もそれに加わる。

午前10時、開館と同時に早足で入場、エレベーターに乗り、真っ先に目的の本棚劇場がある4階へと向かった。本棚劇場へ向かう通路の両側にも、不規則な形で本棚が組まれ、その入れ物に合わせて本は気ままに並んでいるようであり、その実テーマに沿っている。その雑然と整然の融合を堪能するのは後にして、歩みを進める。

通りを抜けたところに目的の空間が広がっていた。

中央に立ち、周囲をぐるりと見回す。本、本、おびただしい数の本が天井までぎっしりと並んでいた。

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読書が好きで、様々な本を読んできたという自負があるけれども、数多くの未読の書物に囲まれ、自分があまりにも無知であることを痛感する。そして、管啓次郎『本は読めないものだから心配するな』の一節を思い返す。

――すべての人間は根本的に無知であり、どの二人をとっても共有する知識よりは共有する無知のほうが比較を絶して大きいのだから。

心のどこかで、本を読む人と読まない人との間にボーダーラインを引いていたような気がする。だけど、この空間にいて、その線引が無意味なものだという感覚が湧き上がってくる。その感覚は、電子の海を漂う膨大な文字の数々からはなかなか得られない、おびただし数の物体としての紙の本からでしか得られないものだという気がした。

これから先の人生、ほとんどの時間を読書に費やしたところで、どれだけの知識を得、知恵を養うことができるのだろうか、という絶望感と、それでも時間が許す限り読んでいたい、という決意のようなものを抱いて、その場を後にした。

天気は良かったけれど、寒さが厳しい日だった。東所沢の駅のホームで武蔵野線を待ちわびる。

ようやく到着した電車に乗り、空いている座席の一角に腰を下ろすと、iPhoneKindleアプリを開いて読みかけの小説を読んだ。