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京都音楽博覧会2020

今から遡ること5年、2015年の出来事といえば、世界各地でイスラム過激派のテロが発生し、ギリシャ金融危機が起こり、国内では安全保障関連法案が成立していたが、その裏でひっそりと私の京都音楽博覧会(以下「音博」)初参加という重大な出来事が起こっていたことはさほど知られていない。この年、音博はシルバーウィークと重なっており、それまでライブを見るためのいわゆる「遠征」に少し抵抗のあった私が、5連休であれば観光のついでに楽しむ形で参加してみよう、と重い腰を上げたのである。その時歴史が動いた

学生のときに旅行で訪れて以来久々の京都、初めての梅小路公園、京都の広い空の下で聴くくるりの音楽は、東京のライブハウスで聴くのとはまた違う居心地の良さがあって、それ以来、毎年この時期に音博のために京都を訪れることになった。音博の終盤、『宿はなし』の最後の和音が京都の夜空に吸い込まれて、寂寥感とともに暑さを失った風が吹きすさぶその瞬間が、ここ数年の私にとっての秋の始まりだった。

 

2020年、新型コロナウイルスは少しずつ着実に日本中に蔓延し、この京都音楽博覧会も開催が不透明なまま月日が経ち、結局オンラインでの開催となった。このイベントのためではないけれど、たまたまパソコンを買い替え、モバイルWi-Fiから光回線に切り替え、京都には行けないけれど東京の自宅で音博を楽しむ準備は万全の状態で、当日の9月20日を迎えた。

MacBookRetinaディスプレイに映し出される映像とワイドなステレオサウンドは、僅かながらリモートであることを忘れさせてくれた。ゲストアーティストを迎えての岸田繁楽団、そしてくるりの演奏を聴きながら、例年音博の前後に京都を散策したことを思い返す。引き返すタイミングが分からず結局登頂した稲荷山、京都駅ビルの空中径路から見る京都タワー、鴨川デルタを見ながら食べる出町ふたばの豆餅、鴨川の河川敷に等間隔に並んでいくカップル、24時に京都タワーのライトが消える瞬間、それらを思い出すとき、頭の中にはいつもくるりの音楽が鳴っている。MacBookのステレオから聴こえてくる『さよならリグレット』も、『京都の大学生』も、『Liberty & Gravity』も、どの曲も私の京都滞在を彩ってくれた。そんな感傷的な気分を一発で吹き飛ばす『益荒男さん』、彼らにしか作れないんじゃないかと思うような奇妙奇天烈摩訶不思議なこの曲と、同じく新曲の『潮風のアリア』はこれから先、生で聴く機会を期待してしまう、コロナ後の世界へと自分を突き動かしてくれるような気がする。

コロナ禍で、余暇の過ごし方も働き方も変わってしまった。音楽との向き合い方もまた同じく変わってしまったが、それは決して悪い方向だけではないのかもしれない。いつも休みが合わず音博に参加できないと言っていたくるりが好きな私の担当美容師さんは初めての音博を楽しむことができただろうか。コロナ後は、会場で楽しむ人、オンラインで楽しむ人、自身の都合に合わせて柔軟に楽しめるダブルスタンダードなライブになっていくのかもしれない。

そして今年も、最後の曲『宿はなし』が終わる。京都の空も、吹き付ける風もない、自宅。画面には「来年は梅小路公園でお会いしましょう」の文字が表示されていた。当たり前だと思っていたことが失われてしまった今、来年の音博は音楽を生で楽しめることの尊さを噛みしめる時間になるような気がする。コロナが収まって、音楽との向き合い方が多少変わったまま世間が日常を取り戻しても、自分は変わらずくるりの音楽を聴き続けるのだろうな、と思った。