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愛の不時着沼に不時着した話

三十代男性。間違いなくターゲット層からは外れているであろう。そんな勝手な思い込みから韓国ドラマに距離を取っていた。しかも、である。タイトルに「愛」なんて言葉が使われてしまっては、どうしても安っぽいメロドラマを想起してしまい、その距離は広がるばかり、ソーシャルディスタンスの極みである。そんな私が『愛の不時着』にハマってしまった、それこそ不時着してしまった話をしようと思う。

きっかけは、バラエティー番組で某芸人がこのドラマのパロディーをやっていたことである。好きな芸人が必死に笑いを届けようとしているのに、己の勉強不足からその笑いを理解することができない、何たる醜態!

そもそも私には一つの信念があった。「流行っているものはその時代の共通言語であり、興味の有無に関わらず触れておくべきで、それは触れた後も日常を少しだけ豊かにしてくれる」(という割にはスルーしてきた作品もたくさんあるのだがともかく)。だから件のバラエティー番組を見ずとも、いつかは視聴していたのかもしれない。それがたとえ『愛の不時着』という名前の「韓国ドラマ」だったとしてもである。

かくして私は以前登録していたNetflixの門を再び叩くことになった。

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覚えてくれていましたか。あのとき加入して『全裸監督』を見てすぐ退会した者です。ただいま。

 

『愛の不時着』を一日一話ずつ視聴する生活が始まった。そして、最終話を見終えた今、ほとばしる愛の不時着愛を抑えることができず、私は久々にこうして記事を綴っている。できる限りネタバレをしないよう、注意深く感想をしたためるつもりであったが、書き終えて読み返した今、盛大にネタバレしていることに気づき、慌ててこの文章を追加している。未視聴の読者諸君はNetflixで視聴した上で読み進めて欲しい。ネタバレを恐れない勇敢な者は、北緯38度線を越える覚悟で読み進めて欲しい。

視聴するに当たり私が危惧していたのは、アメリカ産チョコレートぐらい甘ったるい場面の連続だったらどうしよう、ということである。それは半分当たっていて半分誤りであった。恋愛の要素が主軸にあるものの、ユーモア溢れる場面やシリアスな場面などがバランス良く散りばめられていて、老若男女、士農工商ゆりかごから墓場まで楽しめる作品であり、これぞエンタメかと圧倒された。また、緻密に伏線が張られていて、脚本のクオリティーがとにかく高い。

ただのエンタメではなく、異文化理解という観点から知的好奇心も満たしてくれる。ヒロインのユン・セリがパラグライダー中に北朝鮮に不時着することから物語が動き始めるが、描かれる北朝鮮の日常が興味深い。作品の前半では、彼女と同じ視点で主観的に異文化との接触を体験することができる。その後、北朝鮮の人物が韓国の文化に接触する場面が描かれることになるのだが、そこで今度は異文化と接触したとき人はどう振る舞うか、ということを客観的に見ることになる。主観から客観、その視点のシフトが面白い。また、北と南の言語のアクセントや語彙の違いも、ネイティブならもっと楽しめるのだろうな、と思いながら見ていた。

恋愛ドラマには、二人の間にいかにうまく障壁を設定するか、それをどう乗り越えるか(あるいは乗り越えられないか)という一つの型があると思う。その障壁は身分の差、価値観の差、などとにかくいろんな設定の仕方があるが、このドラマでは「北緯38度線」が障壁として見事に機能している。「アフリカにも南極にも行けるのに、どうしてあなたはここ(注:北朝鮮)に住んでいるんだろう」というユン・セリの嘆きは、作中で最も印象に残るセリフの一つである。

登場人物の造形も見事だった。主要登場人物はもちろんのこと、当初は受け入れられなかったサブキャラクターも回を追うごとに人間味の溢れる場面が登場し、気がつけば感情移入してしまっている。サブキャラクターにまで深みを感じられるその描き方が素晴らしい。

最後に一点だけ気になるところを挙げるとすると、あまりにも都合の良すぎる偶然の繰り返しについては、多少胃もたれするところがあった。あんなにも運命の人と偶然すれ違い続けるのであれば、私もスイスに行ってみたいものである。最終話、スイスでパラグライダーに乗ったユン・セリが「不時着」してしまった場所に、たまたまリ・ジョンヒョクが居合わせるというのは、再会の仕方としてはいささか出来すぎているような気がしたが、結局それが一話目の「不時着」と対を成し、タイトルに深みを持たせている点は見事である。数々の偶然がしっかり物語のドラマ性に寄与しているのであれば看過すべきか。それを逆手に取ってか、「偶然」と「運命」について語られる場面があったような気がする。所詮連ドラなんて偶然ありき、そんな意識も一方ではある。因みに、物語の感動的な場面で流れる10cmという韓国アーティストの曲の和名が『偶然のような運命』なのだそうだ。

まだまだ語り尽くせぬことが多々あるような気がするが、このあたりで締めくくることとする。『梨泰院クラス』も同時視聴していたが、これについてはまた語るときが来るかもしれないし来ないかもしれない。十数年前の冬ソナブームでは平静を保っていられた私であったが、この度、まんまと韓流の波にのまれてしまったようだ。