日記なんかつけてみたりして

コメント歓迎期間中

今村夏子『星の子』について

正直、私ごときの影響力ほぼゼロ人間がここでどんなに今村夏子のことを持ち上げても(逆に蔑んでも)、この人はいずれ芥川賞を取って有名になってしまうだろうから、この記事にどれほどの価値があるのか分からない。ただ、ここまで胸をえぐってくる作家はそうそういないので、自分の中での整理の意味もこめてこの作家について思うところを認めてみよう、と書き始めた次第であるが、僅か二文目にして上手く書ける自信がない。しかし、皆様の前にこうやって公開されているということは何とかかんとか書ききったんでしょう。

私がこの作家を知ったのは、第26回太宰治賞を受賞した『こちらあみ子』という作品だった。選評では、三浦しをんが「あらすじを説明しても、そこからこぼれ落ちてゆくものの方が多い」と評せば、それを受けて小川洋子は「読み手から言葉を奪う小説」と評した。何を隠そう、私も言葉を奪われてしまった。

良い文学作品を読むと「その素晴らしさを何とか伝えたい」と強く思うが、自分の言語能力がその素晴らしさを的確に伝えるまでに至っていないもどかしさに苛まれることがある。そして、今村夏子の作品の場合はことごとくそうなのだ。『こちらあみ子』も『あひる』も、そして最近読んだ『星の子』も。

6月初旬、三省堂書店池袋本店で『星の子』のサイン本を購入し、その日のうちに読み終え、圧倒され、また例のもどかしさに苛まれ、数日が経過し、それでも表紙をめくったところに直筆で書かれた「今村夏子」というあどけない文字を見ていると、何とか自分の感想をまとめて書いてみようと決意するに至った。以下、ネタバレを含むのでその点ご了承いただきたい。

内容を簡単に言ってしまうと、病弱で生まれてきた主人公の女の子を救うためにあやしい宗教にのめりこんでいく両親、その信仰が家族に与えていく影響が淡々と描かれている。読後、私が自分の考えをうまくまとめられないままツイッターで感想を漁っていると、私の言いたいことをほとんど代弁してくれているようなツイートが見つかった。

 「不穏なものの輪郭を描く」というのは言い得て妙だと思う。例えば、湊かなえ沼田まほかるなんかは、不穏なものそれ自体をプロットの力も借りてくっきりと描いて見せるだろう。一方、今村夏子の小説の場合はその輪郭だけが提供されていき、気が付けばその不穏なものに取り囲まれている。どちらが良い悪いではないが、私は今村夏子の小説を最初に読んだときに「こんな表現方法があるのか」とただただ圧倒された。

この小説は、家族三人が丘の上で星を眺める場面で終わっている。両親が見える流れ星が主人公には見えず、主人公に見える流れ星が両親には見えない。同じ方向を向いていても見えるものが違う気持ち悪さと、肩を寄せ合って流れ星を見ようとする愛情溢れる描写。私は、こんなにも美しくかつ不穏な場面をいまだかつて読んだことがない。宗教をただ気味悪く描くだけではなく、信仰する側の愛情までもが丁寧に描かれている。

良質な文学作品は「答え」ではなく「問い」を提供するものだと常々思っている私にとって、本作品は紛れもなく良質な文学作品だった。