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愛の不時着沼に不時着した話

三十代男性。間違いなくターゲット層からは外れているであろう。そんな勝手な思い込みから韓国ドラマに距離を取っていた。しかも、である。タイトルに「愛」なんて言葉が使われてしまっては、どうしても安っぽいメロドラマを想起してしまい、その距離は広がるばかり、ソーシャルディスタンスの極みである。そんな私が『愛の不時着』にハマってしまった、それこそ不時着してしまった話をしようと思う。

きっかけは、バラエティー番組で某芸人がこのドラマのパロディーをやっていたことである。好きな芸人が必死に笑いを届けようとしているのに、己の勉強不足からその笑いを理解することができない、何たる醜態!

そもそも私には一つの信念があった。「流行っているものはその時代の共通言語であり、興味の有無に関わらず触れておくべきで、それは触れた後も日常を少しだけ豊かにしてくれる」(という割にはスルーしてきた作品もたくさんあるのだがともかく)。だから件のバラエティー番組を見ずとも、いつかは視聴していたのかもしれない。それがたとえ『愛の不時着』という名前の「韓国ドラマ」だったとしてもである。

かくして私は以前登録していたNetflixの門を再び叩くことになった。

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覚えてくれていましたか。あのとき加入して『全裸監督』を見てすぐ退会した者です。ただいま。

 

『愛の不時着』を一日一話ずつ視聴する生活が始まった。そして、最終話を見終えた今、ほとばしる愛の不時着愛を抑えることができず、私は久々にこうして記事を綴っている。できる限りネタバレをしないよう、注意深く感想をしたためるつもりであったが、書き終えて読み返した今、盛大にネタバレしていることに気づき、慌ててこの文章を追加している。未視聴の読者諸君はNetflixで視聴した上で読み進めて欲しい。ネタバレを恐れない勇敢な者は、北緯38度線を越える覚悟で読み進めて欲しい。

視聴するに当たり私が危惧していたのは、アメリカ産チョコレートぐらい甘ったるい場面の連続だったらどうしよう、ということである。それは半分当たっていて半分誤りであった。恋愛の要素が主軸にあるものの、ユーモア溢れる場面やシリアスな場面などがバランス良く散りばめられていて、老若男女、士農工商ゆりかごから墓場まで楽しめる作品であり、これぞエンタメかと圧倒された。また、緻密に伏線が張られていて、脚本のクオリティーがとにかく高い。

ただのエンタメではなく、異文化理解という観点から知的好奇心も満たしてくれる。ヒロインのユン・セリがパラグライダー中に北朝鮮に不時着することから物語が動き始めるが、描かれる北朝鮮の日常が興味深い。作品の前半では、彼女と同じ視点で主観的に異文化との接触を体験することができる。その後、北朝鮮の人物が韓国の文化に接触する場面が描かれることになるのだが、そこで今度は異文化と接触したとき人はどう振る舞うか、ということを客観的に見ることになる。主観から客観、その視点のシフトが面白い。また、北と南の言語のアクセントや語彙の違いも、ネイティブならもっと楽しめるのだろうな、と思いながら見ていた。

恋愛ドラマには、二人の間にいかにうまく障壁を設定するか、それをどう乗り越えるか(あるいは乗り越えられないか)という一つの型があると思う。その障壁は身分の差、価値観の差、などとにかくいろんな設定の仕方があるが、このドラマでは「北緯38度線」が障壁として見事に機能している。「アフリカにも南極にも行けるのに、どうしてあなたはここ(注:北朝鮮)に住んでいるんだろう」というユン・セリの嘆きは、作中で最も印象に残るセリフの一つである。

登場人物の造形も見事だった。主要登場人物はもちろんのこと、当初は受け入れられなかったサブキャラクターも回を追うごとに人間味の溢れる場面が登場し、気がつけば感情移入してしまっている。サブキャラクターにまで深みを感じられるその描き方が素晴らしい。

最後に一点だけ気になるところを挙げるとすると、あまりにも都合の良すぎる偶然の繰り返しについては、多少胃もたれするところがあった。あんなにも運命の人と偶然すれ違い続けるのであれば、私もスイスに行ってみたいものである。最終話、スイスでパラグライダーに乗ったユン・セリが「不時着」してしまった場所に、たまたまリ・ジョンヒョクが居合わせるというのは、再会の仕方としてはいささか出来すぎているような気がしたが、結局それが一話目の「不時着」と対を成し、タイトルに深みを持たせている点は見事である。数々の偶然がしっかり物語のドラマ性に寄与しているのであれば看過すべきか。それを逆手に取ってか、「偶然」と「運命」について語られる場面があったような気がする。所詮連ドラなんて偶然ありき、そんな意識も一方ではある。因みに、物語の感動的な場面で流れる10cmという韓国アーティストの曲の和名が『偶然のような運命』なのだそうだ。

まだまだ語り尽くせぬことが多々あるような気がするが、このあたりで締めくくることとする。『梨泰院クラス』も同時視聴していたが、これについてはまた語るときが来るかもしれないし来ないかもしれない。十数年前の冬ソナブームでは平静を保っていられた私であったが、この度、まんまと韓流の波にのまれてしまったようだ。

今年になって初めて「禍」という漢字を知った。「災い」や「災難」、「不幸な出来事」を表す漢字で、「わざわい」と入力すると変換される。当初、「渦中」の「渦」だと思って、ツイッターで思いっきり「コロナ渦」と投稿してしまい、慌てて訂正ツイートを入れる。街角で知人に声をかけたら知らない人だったときのような気まずさ。

そんなわけで皆様、コロナ渦、もといコロナ禍、いかがお過ごしでしょうか。

 

初期のPCR検査数、緊急事態宣言の早すぎる解除、謎のマスク配布など、一小市民の私には愚策だと思われるそれらには、そうせざるを得ない理由があるのだろうけれど、であればそれをきちんと説明して欲しい、と思う。もし「アベノマスク」が流行語大賞に選ばれたら「マスク配布の効果を国民に認めてもらえた結果」などと言い出しそうで怖い。

隣の島国の政策と比較して暗澹たる気持ちになる。嗚呼、隣の芝が青い。数年前、台北で小籠包や巨大なかき氷を食べたことを思い出し、コロナが落ち着いたらまた訪れたい、と思う最中のGo Toキャンペーン、「今じゃないでしょ」と裏林修先生が登場する。注:Go Toキャンペーンは国内旅行が対象のようだが、それはともかく。九份のあの雰囲気が懐かしく、そこを訪れる代わりにちょうど上映中の『千と千尋の神隠し』を見に行けばよいのかもしれない。否、映画館に足を向けるのもためらうほどの都内の新規感染者数は、本日も200人を超え、ステイホームでこのような文章を綴っているのであった。

ドゥブロヴニク

最初にその写真を見たのがいつなのか、今となっては覚えていない。城壁に囲まれた場所にオレンジ色の屋根がひしめき合い、その向こうには海が広がっている。ジブリ作品に出てきそうな光景に私の目は奪われた。クロアチアドゥブロヴニク、その場所の写真をインターネットやガイドブックで何度も見るうちに、いつか行ってみたい場所となっていた。しかし、スカイスキャナーで航空券をチェックするたびに、その「いつか」が遠のくような、もしかしたら訪れないような気がした。乗り継ぎの回数と航空券の価格にため息をつく。

だが、その「いつか」を遠ざけるのも近づけるのも結局は自分の意志次第。9月30日にツイッターで年末年始の旅行先候補地として「ドゥブロヴニク」の名前を挙げたのは、自分で自分の背中を押したかったのかもしれない。その「いつか」、2020年1月1日とその前後の記事をこうしてここに綴れることを嬉しく思う。

スマホで時間を確認し、その瞬間が訪れたことを認識する。現地時間は、と言っても高速で移動する旅客機の中にいてどの地点の時刻を切り取ればいいのか分からないが、出発地のローマも目的地のドゥブロヴニクも大晦日の午後四時になったところ。日本で令和二年を迎えたその瞬間、私はアドリア海の上空にいた。

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西日を受けながら旅客機は徐々に高度を下げ、日本で新年の挨拶も落ち着いた頃合いにドゥブロヴニク空港に到着した。僅か一時間の空の旅、遠いと思っていたドゥブロヴニクは、ローマまで来てしまえば近い。

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入国審査を抜けて、ユーロをクロアチアの通貨クーナに両替、そのクーナで旧市街と空港間のバスの往復チケットを購入する。ドゥブロヴニク空港は小さく、飛行機の離着陸の時間に合わせてバスが運行していた。

進行方向に向かって左側の席が景色が綺麗に見える、とどこかに書いてあったのを思い出し、左側の席に座るが、外はもう闇に包まれかけていて、煌めくアドリア海も鮮やかなオレンジ色の屋根も見えそうにない。代わりに、日本では見られないような色の夕焼けが広がっていて、紛れもなく異国にいることを実感させた。

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山の斜面を切り崩してできた狭い道路をバスはすごいスピードで進み、約30分後、周囲を約2kmの城壁に囲まれたドゥブロヴニクの旧市街に到着した。この日から二泊するアパートは旧市街の中央にある。メインゲートのピレ門から旧市街に入り、Google Mapsを頼りにメインストリートのプラツァ通りを歩く。大晦日のイベントだろうか、通りの両側には屋台が出ていて、奥の広場にはステージが設置されていた。

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アパートはホテルとは違い、スタッフが常駐しているわけではない。事前に管理人におおよその到着時刻をメールで伝えておいた。その時刻17:30の少し前にアパートの近くまでたどり着き、どれが正しい建物かとあたりを見渡していると、近くの飲食店のテラスで会話していた二人の男性のうちの一人が声をかけてきた。管理人のようである。プラツァ通りから一本路地を入ったところにあるアパートの一階のロビーに案内される。主要観光地へのアクセス、朝食の場所や、暗証番号式のドアの解錠方法等について説明を受け、宿泊する三階の部屋に階段で移動(旧市街にはエレベーターがない)、今度は部屋の設備の説明を受ける。

アパートは広く快適で立地も良く、ここに二泊できる喜びと共にベッドに横になる。もはやここに住みたいと思うほどである。

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少し休んで、夜の旧市街を散策する。街頭に照らされる石畳の上を歩き、アドリア海の海の幸を堪能し、アパートへ戻る。

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いつしか広場のステージでは演奏が始まっていた。聴衆も一緒に熱唱しているところを見ると、クロアチアのポップス、Cポップ(?)だろうか。COUNTDOWN CROATIA 19/20の音漏れが、通りにほど近いアパートの部屋にも容赦なく届く。熱狂はその瞬間が近づくにつれて上昇しているようである。

新年が訪れる少し前に再び外に出てみると、プラツァ通りはたくさんの人で入ることができない。路地裏をステージの方へ向かい、更にステージの裏まで行ったところでようやくプラツァ通りに入ることができた。何を言っているのか全く分からないMCの声が熱を帯びる。そして、一秒毎に発せられる謎の言葉はクロアチア語の数字だろうか。10、9、8(恐らく)、その言葉と共に花火が上がる。7、6、5(恐らく)……。

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スマホで時間を確認し、その瞬間が訪れたことを認識する、までもなく夜空には無数の花火。日本に遅れること八時間、クロアチアでも2020年を迎えた。花火を見上げながら、この瞬間を一番訪れたかった場所で迎えられることの喜びを感じていた。

そしてCOUNTDOWN CROATIA 19/20は続く。部屋に戻ってもその熱気は届く。今夜は眠れそうにない、と思っていたがいつの間にか眠っていたようだ。途中でしっとりとしたバラードが演奏されたのかもしれない。

アドリア海を挟んで遠くの陸地と空の境目が赤く染まり、日の出を予感させる。当初は惰眠をむさぼって旅の疲れを癒そうと思っていたが、日の出の30分前に目が覚めてしまい、朝の散歩を、あわよくば初日の出を拝もうと旧港までやってきたのである。空は快晴。しばらくすると太陽が顔を覗かせた。ドゥブロヴニクの城壁と、旧港と、早起きの猫を朝日が照らす。オレンジ色の屋根屋根を見る前の、圧倒的なまでのオレンジ色。

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アパートと提携している近くのレストランで朝食を取った後、ロープウェイでスルジ山へ。オフシーズンで閑散としているゴンドラ内、陽気なBGMと好天が侘しさを補う。旧市街が少しずつ小さくなる。

山頂に到着して旧市街を一望する。

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来た。

とうとう来てしまった。

城壁に囲まれた場所にオレンジ色の屋根がひしめき合い、その向こうには海が広がっている。写真で何度も目にした光景が、思い描いていた「いつか」が目の前にあった。何となく行きたい場所から、行く予定の場所になり、そして来た場所に。青とオレンジと緑のコントラストを目に焼き付ける。

私にとって忘れられない景色がまた一つできた。

旧市街の反対側に目を向けると、荒凉とした大地が広がっている。近くの独立戦争展示館を訪れ、ここで確かに戦争があったという事実を目の当たりにした後、カフェで一息つく。

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午後は旧市街に戻り、約一時間かけて城壁の上を一周した。遠くからではなく、高さ最高25mの城壁の上から間近に見る屋根の連なりもまた絶景。インスタ映えという概念を城壁の中に凝縮したような町並みを眼下に見ながら歩く。とてもいい天気で、2020年の天気運を全てここで使ってしまったのではと思うほど。日の光を浴びてアドリア海が眩しい。広場で行われているクラシックの演奏会をBGMにして、城壁の上で贅沢な時間を過ごした。

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オフシーズンでしかも元日なので、残念ながらお店やレストラン、博物館などは半分以上閉まっていた。一方で、人が少なくゆっくり散策できるという一長一短。旧市街の中を自由に彷徨う野良猫さながら私も自由気ままに歩き回った。

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新年の挨拶もおせちも年賀状もない、オレンジ色の屋根と城壁と野良猫の私の2020年1月1日が満足感と共に終わる。

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午前五時前、夜明け前の旧市街をロープウェイ乗り場へ向かって歩く。そこから五時過ぎに空港行きのバスが出ることになっていた。街頭に照らされる石畳を歩きながら、名残惜しさを感じる。到着は大晦日の夕方、出発は二日の早朝のため「二泊三日」という言葉よりも短く感じるドゥブロヴニクでの時間だった。

空港行きのバスの右側に座ってみるが、やっぱりあたりは闇に包まれていて、景色を楽しめそうにない。

ローマへの復路はフランクフルト経由である。ドゥブロヴニク空港でスムーズに搭乗手続きを終え、七時半、クロアチア航空の便でフランクフルトへと飛び立った。

飛行機の窓から遠くドゥブロヴニクの旧市街が見えた。目を凝らしてみるものの、遠すぎて鮮やかなオレンジ色の屋根は判別できない。

いつか記憶からも遠ざかってしまうであろうそのオレンジ色をまた目に焼き付けたい。いつかまたクロアチアを訪れよう、と機内誌のモドリッチに誓うのであった。

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香港

5時間15分。その時間はいつも「現地に着いたらやりたいこと」を脳内に列挙して気持ちを高ぶらせる時間だった。香港行きの旅客機の機内、普段なら眼前のスクリーンに表示される「目的地までの時間」の数字が小さくなるのを期待と共にちらちらと眺めているはずだったが、今回は違う。目の前の数字はただ無機質に減り続け、気がつけば雨天の香港国際空港。もう片手でも両手でも足りないぐらい香港を訪れているが、こんな気持ちで香港国際空港に降り立つのは初めてだった。現地時刻午後3時、ローマ行きの便まで9時間あった。

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香港国際空港、年間7,450万人の旅客が利用するアジアを代表するハブ空港。高校の修学旅行で初めてここを訪れたときのことはほとんど記憶にないが、その数年後、何の因果か大学の交換留学で再び訪れたときのことは何となく覚えている。事前に留学先の大学から案内のあった空港内のミーティングスポットへ覚束ない足取りで向かったあの日。それから8ヶ月後、友人らに見送られながら香港を後にした。たった一人でやってきた香港だったけれど、去るときにはこんなにも友人ができていた。香港国際空港で寂しさと嬉しさの入り混じった複雑な感情を抱いて帰国の途についた。それ以降、度々香港を訪れた。現地に住む女性と交際していたときは、ここで再会の喜びと別れの哀しみの両極端の感情を短期間で味わった。空港とはそんな場所なのだろうな、と思う。様々な感情が入り乱れる場所。喜怒哀楽、だけでは済まされない様々な感情を抱いてきたこの香港国際空港で、私はまた言葉では言い表せない感情を抱いたまま、ベンチに腰を下ろしている。

連日報道されていたデモ隊と警官の衝突は、日本国民が興味を失ったタイミングで報じられなくなった。それでも、香港の友人と数多く繋がっているFacebookには記事や動画が日々投稿される。外務省の発する危険レベルはレベル1、広範囲に渡る抗議活動と警察当局との衝突のため「十分注意」との勧告が出されている。まだ激動の最中にいる香港、そんな状況下にあってこの悪天候、そして、今回の旅の目的地はあくまでもヨーロッパであり、なるべく体力を温存すべきではないか。乗り継ぎの時間はあえて長めに9時間の便を選んでいたが、今回はただの乗り継ぎと割り切り、ただひたすら空港で次の便を待とうか。都合が良ければ現地の友人と夕食でも、と思っていたが友人は予定が入っており、会えるかどうかは分からない。

迷った挙句、結局私は市内へと向かうエアポートエクスプレスに乗っていた。24分後、香港島の香港駅で下車。隣接しているショッピングモールから出て、フェリー乗り場へと歩く。フェリーに乗って対岸の九龍半島へ。約10分間、波に揺られて尖沙咀に到着した。

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留学が始まった当初、現地の学生に香港中を案内してもらい、すっかり日が落ちた時間帯に連れてこられたのがこの尖沙咀のプロムナードだった。ヴィクトリア湾を挟んだ対岸、香港島の夜景に目を奪われた。あれから10年以上が経過した今、ここから見る対岸の景色は雨靄に包まれてよそよそしく、振り返っても当時の学生たちはいない。

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プロムナードでは何組かのストリートミュージシャンが思い思いの方法で自己表現をしていた。若い男性が、香港の流行歌なのかオリジナルなのか分からないキャッチーな曲を弾き語っている。中年の女性が、ライブ中継でもしているのだろうか、スマホをセットして音楽に合わせて踊る。近くを歩いていた黒人の男性を巻き込み、輪は広がっていく。自由でいい、と思った。老若男女関係なく、政治的なことに至るまで表現したいことを自由に表現できる土壌、それが香港なのだ、そして、これからもそうであって欲しい。

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再びフェリーに乗って香港島へ。来たときと逆のルートを辿り空港に戻ることにした。途中、どこからかシュプレヒコールが聞こえてくる。あの頃と変わらないようでいて、でもどこか違う香港。

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「またの機会にしようか」と友人にメッセージを送って、エアポートエクスプレスに乗り込んだ。直後、ちょうど用事が終わったというメッセージが届く。既に列車は走りはじめており、どうしようかと思ったが、結局、空港の構内で一緒に夕食を取ることになった。

第1ターミナルにある中華レストラン「美心・翠園」の前で待ち合わせた。香港国際空港は混乱を防ぐために搭乗券がないと入場できないようになっていたが、友人は過去に使用したイーチケットの日付を画像編集して書き換えて入場してきてくれた。

一年ぶりの再会。香港のデモと、日本を襲った台風と、東京五輪と、たわいもない話をしながら広東料理を食べる。こんな瞬間がとても貴重なことだと留学中に気付いていればよかった。

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出発の時間が迫り、彼と別れて「離境 Departures」と書かれたゲートへ向かう。

9時間の香港滞在と、その何百倍もの時間があったはずの留学中の時間、そして、記憶の彼方の修学旅行。

高校の修学旅行で初めてここを訪れたときのことはほとんど記憶にないが、その経験が海外に出ることがどんなにエキサイティングで楽しいことなのかを教えてくれたような気がする。そして、私の手にはまた別の行先の航空券がある。初めて訪れるローマ、きっとまたエキサイティングで楽しいことがたくさんあるはず。香港に背中を押されて、私はローマ行きの便の搭乗口へと向かう。

ナンバーガールとのこと

ナンバーガールが解散したときの記憶がないのは、それが当時の自分にとって重大な出来事ではなかったからであろう。大学の軽音楽部の友人に影響され一通りは聴いていたつもりであるが、解散前と解散後の私の生活になんら変化はなく、再結成前と再結成後の私の生活にもなんら変化はなかった。

毎年くるりのファンクラブ先行でチケットを入手している京都音楽博覧会、and moreの影からナンバーガールが登場した瞬間、チケット争奪戦が始まる。ナンバーガールの解散に涙し、ナンバーガールの再結成に涙した根っからのファンに譲るべきか、否、私とて主催者のくるりの根っからのファンである。

いつも行っている美容院のいつも切ってもらっている美容師さんがナンバーガールが好きで、京都音楽博覧会ナンバーガールを見られることになった私を羨んだ。『IGGY POP FAN CLUB』という曲が好きで〜チョキチョキ。晴れるといいですね〜チョキチョキ。

久々にギターマガジンを買った。表紙には「ナンバーガールに狂って候」という文字と、ギターを抱える向井秀徳田渕ひさ子の姿。ナンバーガールの曲の楽譜が載っていて、ギターを始めた頃の気分になって弾いてみる。『透明少女』とか『IGGY POP FAN CLUB』とか。気がつけば、iPhoneの音楽の「最近再生した項目」にナンバーガールの曲の数々が並んでいる。

ウェザーニュースとにらめっこをしていた。そして曇天の京都音楽博覧会当日。降らないでくれ、という願いは叶わなかったけれど、ナンバーガールを生で見るという願いが叶った瞬間。雨が降ってきた、と思った直後の音の圧力。聴く位置が悪かったのかもはや歌詞なんてよく聞き取れないけれど、言葉の意味が濾過されてただ「伝えたい」という意志にぶん殴られている感じ。打たれている雨が霧雨程度に思えてくる。

解散前と解散後の私の生活になんら変化はなく、再結成前と再結成後の私の生活にもなんら変化はなかったけれど、生でナンバーガールを見る前と後では何かが変わってしまったような、そんな気がする。それが私にとって初めてのナンバーガール

 

あの日濡れた髪が切られていく。いつも行っている美容院のいつも切ってもらっている美容師さんが京都音楽博覧会ナンバーガールを見た私を羨んだ。初めて生で見て感動したナンバーガールナンバーガール一色だった会場の空気を一瞬で自分たちの色に染めたBEGIN、そして何度見ても素晴らしいくるり。話している間に髪が切られていく。いいなぁ〜チョキチョキ。田渕ひさ子さんのギターかっこいいですよね〜チョキチョキ。髪の量が多いので、いつも目一杯すいてもらう。軽くなった頭で美容院を出るとあの日と真逆の好天。

ナンバーガールを聴きながら帰る。『鉄風 鋭くなって』の疾走感のあるベースラインに、あの日雨が降った瞬間のこと、その後に目にした光景を思い出したりしている。

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令和元年のフットボール

子供の頃、よく何をして遊んでいたか。漫才の導入によくある感じで始まったこの記事には残念ながら笑いの要素はほとんどなく、笑いを求める読者諸君は今すぐこの記事から離れて、YouTube霜降り明星の漫才でも見て欲しい。同じくお笑い第七世代で言えば、ハナコやAマッソなどもお勧めであるが、若手お笑い芸人について語ることがこの記事の趣旨ではない。サッカーである。

娯楽の乏しい鹿児島県の離島に生まれた少年たちにとって、ボール一つあればできるサッカーは人気で、キャプテン翼の存在がそれに拍車をかけた。そして、その人気を不動のものとした出来事が、1993年のJリーグ開幕。巨大に膨れ上がるJリーグのマスコット、TUBE春畑道哉の奏でるギター、その熱気は、遠く離れた辺境の地にも確かに届いていた。ゴールデンタイムにテレビ放送されるJリーグの試合を観戦し、Jリーグチップスを主食とし、ミサンガを編み、休みの日には友人らと公園でボールを追いかけた。将来はサッカー選手になりたい、そう公言していた時期もあったような気がする。

成長するに従い、サッカー以外のことに興味関心が移り、偶然にもそれはJリーグの衰退とシンクロする。ボールを蹴らなくなったのはいつからだろう。中田英寿はドイツW杯のグループリーグ3戦目、ブラジルに敗退した後、引退を宣言、「人生とは旅であり、旅とは人生である」と題する長文をオフィシャルブログに認めた。私にはそんな明確な瞬間があったわけではなく、気がつけばボールと距離を置いている。「ボールは友達」、大空翼が口にするこの名言は、私にとってはもはや「ボールは知人」もしくは「ボールは赤の他人」だろうか。足の甲でボールを蹴る感覚はすっかりなくなってしまったけれど、それでも、観客としてずっとサッカーを楽しんできた。ボールの行方を、足ではなく目で追いかけ続けた。追いかけて、追いかけて、追いかけて、気がつけば私はバルセロナカンプノウスタジアムに来ていた。

令和元年5月1日、現地時間10:50にパリのオルリー空港を発ったブエリング航空の旅客機は12:30にバルセロナのエルプラット空港に到着した。その日、カンプノウスタジアムでチャンピオンズリーグの準決勝1stレグ、バルセロナリヴァプールの試合が行われることになっていた。年初に、準決勝がゴールデンウィーク中に行われることを知った私は、まだ勝ち上がるチームも試合が行われる場所も未定の状況下で準決勝観戦を目論み、とりあえずパリに滞在することを計画。4月中旬に準決勝のカード、バルセロナvsリヴァプールトッテナムvsアヤックスが決定した後、速やかにパリからバルセロナ行きの航空券と試合のチケットを手配、ホテルだけはキャンセル無料の条件で事前に手配をしていた。

バルセロナは年末年始に訪れたばかりであった。そのときは長距離飛行の疲労と時差ボケに悩まされての到着であったが、今回はただただ試合を観戦できることの期待感だけである。二度目のバルセロナであったが、もう何度も訪れているといった風情で、空港巡回のバスに乗り、切符を買い、市内へ向かう列車に乗り込む。

バルセロナ・サンツ駅に到着、駅近くのホテルにチェックインした後、駅構内のFCバルセロナのショップへ。「今日の試合を観に来たのかい?とてもラッキーだね」と店員に声をかけられて購入したユニフォームの背中には「MESSI 10」。

果たして私はとてもラッキーであった。メッシの蹴ったボールは緩やかな弧を描いて、リヴァプールGK、名手アリソンの手をすり抜け、ゴールに吸い込まれる。それを正にそのゴールの側で目の当たりにする。ゴール直後、スタジアムが揺れ、メッシを神と崇める観客。まるでスタジアム自体が感情を持っているかのような、そんな感覚を抱く。

バルセロナのメッシ、スアレスビダル、ピケ……、リヴァプールのサラー、マネ、ファンダイク、アリソン……。サッカーファンの夢を集めて一つの空間に閉じ込めたようなこの日のカンプノウの空気を深く吸い込む。隣の観客のあおるウオッカの臭いがする。

サッカー選手にはならなかったし、きっとなれなかった。普通の会社員だとしても、自分の意思で自分の観たい試合を観に行けること、それはそれで悪くない未来のようにも思える。

バルセロナ 3-0 リヴァプールチャンピオンズリーグ準決勝の1stレグはバルセロナの圧勝で終わった。数日後、2ndレグでリヴァプールが奇跡の大逆転劇を演じることになるのだがそれはまた別のお話。これだからサッカーは面白い、と数日後の私はそこでまたサッカーの魅力を感じることになる。

ボールを蹴り始めた昭和、ボールを蹴ることをやめた平成、そして時代は令和へ。もはやボールを蹴ることはないかもしれないけれど、それでも私はこのスポーツに魅力され続けるのだと思う。あの日カンプノウで目にしたメッシのフリーキックは、死ぬまでずっと私をサッカーの虜にしてしまうような、そんな力があった。

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プロローグ(スペイン篇7)

仕事始めを明日に控え、時差ボケが抜ける気配はなく、私の心はまだバルセロナでピンチョスを頬張っていた。午後9時過ぎにテレビをつけてみると、そんな私の社会復帰をより困難にする番組が放送されていた。見てきたばかりの景観が画面に映し出される。『NHKスペシャル サグラダ・ファミリア 天才ガウディの謎に挑む』、スペインから帰国して間もないこの時期に、NHKが逆に私に対して用意してくれたお土産なのか。

サグラダ・ファミリアのシンボルとも言えるイエスの塔を建築するにあたり、その内部の装飾をどうするのか、この旅行記でも度々紹介してきたサグラダ・ファミリアの主任彫刻家、外尾悦郎氏が苦悩する姿が映し出されていた。

生前、ガウディが残した模型や建築資料、そのほとんどがスペイン内戦で失われてしまった。跡を継いだ弟子たちは、ガウディの言葉や模型の破片などからガウディの意図を汲み取り、建設を続けている。イエスの塔の内部を装飾するにあたり、試行錯誤を繰り返す外尾氏。「種」をモチーフにオブジェを作り、郊外の実験場の壁に取り付けてみるものの、しっくりこない。創作に行き詰まる最中、別の教会の地下からガウディが残した資料が大量に見つかる。そこから、ガウディがイエスの塔を構想していた時期に、色の研究に没頭していたことが分かる。そして、資料の中にグラデーションの実験をしていた形跡が。外尾氏はイエスの塔のテーマは「色彩」だと結論付けた。

番組内で、外尾氏はこう語っている。

――自然には境目がないんですよね。いろんな色はあるけど境目はないんですよ。空の色も海の色も。色が無限にグラデーションがかかって変わっていく。ところが人間が作るものはすべて境目がある。それをガウディは悲しく思ったんじゃないかなと思うんですよね。

番組内で映し出される、イエスの塔の内部のイメージCG、色とりどりのグラデーションの壁、この空間に私が足を踏み入れることはあるのだろうか。もしあるとすれば、その瞬間に何を感じるのだろうか。

私はバルセロナで見た景色を思い返していた。ガウディの建築物の背後には、自然が作ったグラデーションが広がっていた。

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そして今日もサグラダ・ファミリアの建築は続いている。ガウディの後を継いだ多くの人々の努力と苦悩が少しずつ形になっていく。

またここを訪れたい、と思った。サグラダ・ファミリアの完成は、2026年、東京五輪よりも先の未来が、私にとって意味を持つようになった今回の旅。もしかしたら、完成後に訪れるかもしれないし、それ以前にまた訪れるかもしれない。これまで時間をかけて書いてきたこの記事は、そのときの私に向かって書かれたもののようにも思える。そして、この続きを将来の私が書くことをどこかで期待しているのかもしれない。だから、私はあえて、この言葉でこの旅行記を締めくくることにする。

つづく