日記なんかつけてみたりして

コメント歓迎期間中

アディオス(スペイン篇6)

もはや、語ることはそう多く残されていない。ホテルで最後の朝食をとり、部屋の窓から見えるサグラダ・ファミリアに後ろ髪を引かれながら寂寞のチェックアウト。12:15の飛行機の便に間に合うようにホテルを出た。最後は少し贅沢をして、ホテルが用意してくれたタクシーで空港へと向かった。

タクシーの運転手の英語が聞き取りづらく、よくよく聞いていると「Park Guell」を「パルクグエル」のように"r"をはっきりラ行で発音しているようだった。母語の影響だろうか。訛りが強いからといって相手の英語を理解しようとする努力をやめず、相手の母語の影響まで考えて相手の英語を聞き取れたら理想だと思った。もちろんスタンダードな英語が聞けて話せて、というのは大前提にあって、自分はまずそこから取り組むべきだと思うけれど。

日本に行ってみたい、というので、これから私がたどる道のり(香港まで12時間、更に日本まで4時間のフライト)を伝えると、意気消沈した様子。そう、極東までの道のりは長い。私も意気消沈する。

バルセロナ郊外のエル・プラット空港に到着。スーツケースを預け、手荷物検査を終え、お土産を買い、牛歩よりも遅い入国審査の列の進み具合にやきもきしたものの、なんとか搭乗口の前に到着する。

f:id:m216r:20190209205806j:image
f:id:m216r:20190209205811j:image

搭乗して座席につく。しばらくすると、機体が動き出した。背中に感じる無情な重力、まだここにいたいという私の想いを引き剥がすように旅客機は加速する。

離陸。

アディオス、スペイン。今度は是非サッカー観戦で訪れたい。完成して未完成となったサグラダ・ファミリアを見に訪れたい。この数日で、私は完全にスペインの魅力に取り憑かれてしまっていた。

 

 

画面に映し出されるリリー・フランキーの尻。機内で映画『万引き家族』を見ていた。是枝監督の作品は『誰も知らない』や『そして父になる』などもそうであるように、家族のあり方を問う作品が多いような気がする。本作品で描かれるのは、特異な繋がりで生活を共にする集団。輪郭が不確かなものを描いて家族とは何かを突きつける素晴らしい作品であった。

そしてふと気づく。「サグラダ・ファミリア」、日本語に訳すと「聖家族贖罪教会」。これは、サグラダ・ファミリアの建設を提案した聖ヨセフ帰依者協会の基本精神によるものである。社会が混乱していく時代に、その最小単位である家族を大切にしようという思想。

映画が終わったあと、私はこの不思議な偶然について考えていた。そして、サグラダ・ファミリアについて、それから、スペインで経験した私の感情を否応なしに揺さぶってきた瞬間について。私がスペインへ想いを馳せるそのときにも、旅客機は無慈悲にも極東へ向けて猛スピードで向かっているのだった。

少し休もうと、ネックピローを膨らませる。そして、目を閉じる。徐々に意識が遠のいていく。

こうして、私のスペインの旅は終わった。現地で感じたことはここまででほとんど語り尽くしたような気がする。この「スペイン篇」もこのあたりで幕を閉じることにする、はずだったのだが。

聖堂内部(スペイン篇5)

目的地の近くまで来ているものの、なかなかそこに入れずに翻弄され続ける、そんな小説をフランツ・カフカが書いていたような気がするが、私も同じような状況に陥っていた。サグラダ・ファミリア聖堂のすぐ近くに、しかも部屋から見えるほど近くに滞在しているにもかかわらず、その内部に入れずやきもきしていた。ただ、カフカの小説の主人公、測量士Kと私が違うのは、私にはきちんとした名前と本日の日付が印字されたチケットがあった。

本来であれば、バルセロナ到着翌日にでも聖堂の内部に入りたかったのだが、希望する日時のチケットが完売、結局、帰国日前日のこの日にようやく内部潜入が許されることになっていたのだった。

チケットに記載された時刻、10:30の少し前にホテルを出て、歩いてすぐの大聖堂へ向かう。空港と同じような手荷物検査を受け入場、オーディオガイドを受け取って、これまで少し離れた場所から眺めるだけだった生誕のファサードの前に立った。

聖母マリアの戴冠、受胎告知、マリアとヨセフの婚姻……、聖書の場面が精緻な彫刻で表現されていて、目を奪われる。オーディオガイドの音声が視覚からの情報量に追い付かず、馬耳東風。イエス生誕の喜びが石に宿ったような、その見事な彫刻をじっくり眺めた。 

f:id:m216r:20190204224221j:image

二ヵ月前のことを思い返していた。スペインに行こうかどうしようかまだ迷っていたその時期、ふとテレビをつけてみると、サグラダ・ファミリアが映し出されていた。「池上彰の世界を歩く 情熱の国スペインの光と影」と銘打ったその番組では、ゲルニカ制作の背景やスペイン内戦の傷跡から、カタルーニャ地方の文化に至るまで、現代のスペインを知るための情報が二時間に凝縮されていた。迷っていた私は背中を勢いよく闘牛に押されたような格好でスペイン行きを決めたわけである。

その番組の中で、池上彰サグラダ・ファミリアについて口にした言葉が心に残っていた。「サグラダ・ファミリアキリスト教の布教のメディアだ」。マスメディアが発達していなかった当時、他の追随を許さない壮大な建物を作り、人々に来てもらい、外観に表現されている聖書のエピソードを読み取ってもらう、詳しく分からずとも興味を持ってもらう、というのは布教のためのとても有効な手段だと思う。SNSを含めたマスメディアがここまで発達した現代においても、簡単に消費されて忘れ去られる情報の中で、未だなお人々の心に訴えかける効果的な手段ではないか。かく言う私も、もっとキリスト教について造詣が深ければ、という自責の念にかられる。私自身、カトリック系の大学を卒業し、キリスト教の講義が必須科目だったにもかかわらず、外国人の教授が片言の日本語で聖書をなぞるだけの授業内容は馬耳東風、感じたのは、キリスト教への興味ではなく眠気であった。当時の私をここに連れてくることができたら、何か違っていたのかもしれない。

とはいえ、ガウディ自身も二代目のサグラダ・ファミリアの主任建築家となって以降、キリスト教の知識を深め、司祭と深い議論を交わすまでになったという。何事も遅すぎるということはない。

内部へ足を踏み入れる。鐘楼に登るエレベーターの時間10:45が迫っていたため、ステンドグラスから光が差し込む幻想的な空間を堪能するのは後にして、エレベーター乗り場へ。そこから一気に高さ50mの地点まで昇る。なお、塔に昇るエレベーター付きのチケットは、購入時に生誕のファサード側の塔か、受難のファサード側の塔かを選ぶことになっていた。私が選んだ生誕のファサードの塔からは、バルセロナの住宅街と、遠く新開発地域の高層ビルが見えた。眼下には公園と池、そこから観光客が聖堂を見上げている。

戻りは巻貝状の螺旋階段を下っていく。小窓から見えるバルセロナの街並みがどんどん低くなっていく。途中、主任彫刻家である外尾悦郎氏が手掛けたフルーツ群の彫刻も見える。

f:id:m216r:20190204224603j:image
f:id:m216r:20190204224613j:image
f:id:m216r:20190204224607j:image
f:id:m216r:20190204224618j:image

そして再び聖堂内部。樹木のように枝分かれした柱が天井を支え、ステンドグラスを通した色鮮やかな光が差し込む。聖堂と言うより、巨大な森の中にいる感覚を抱く。これまでガウディの作品群を見る中で、自然界のデザインをベースにしていることをこの目で確かめてきたが、まさにその集大成とも言える空間に包まれる。バルセロナ到着後、なるべく早くこの空間を訪れたかった。しかし、グエル公園カサ・バトリョカサ・ミラ、とほぼ時系列順に彼の作品を見ることで、より一層サグラダ・ファミリアの素晴らしさに気づくことができたような気がする。

f:id:m216r:20190204224903j:image
f:id:m216r:20190204224859j:image
f:id:m216r:20190204224855j:image

反対側、受難のファサードに出る。日が落ちる西側に面したこの門は、生誕のファサードとは異なり、装飾を排除してキリストの受難の苦しみを表現している。彫刻は、左下からS字をなぞるように見ていくと磔刑前夜の出来事、ゴルゴダの丘への道、イエスの死と埋葬、と聖書の順番をたどることができる。まさに石で作られた聖書である。

f:id:m216r:20190204225027j:image

サグラダ・ファミリア地下にある博物館へ。聖堂の建築の歴史や、ガウディの残したスケッチなどが展示されていた。中でも目を引くのが、網状の糸に重りを取り付けた逆さづりの模型である。これを180度反転させたものが自らの重みを自らの形だけで支えるのに最も効率的な構造だとガウディは考え、その通りに建物をデザインしている。その点、重力に逆らって力づくで壁を支えるケルン大聖堂のような建物とはコンセプトが全く異なるのである。

f:id:m216r:20190204225057j:image

たっぷり時間を取ってサグラダ・ファミリアの内部を堪能した。外に出て、サグラダ・ファミリアを仰ぎ見る。内部を見た後ではまた違う印象を受ける。ガウディの亡き後も、ガウディの意志を継いだ数多くの人々が携わってきた他に類を見ない建築物。その瞬間も刻一刻と完成へと向けて工事が進められていた。

そして私は、次の目的地へと向かう。

午後はモンジュイック城を訪れた。地下鉄でスペイン広場へ、そこからバスに乗り、山道を進んだ先に現れる要塞。フランコ政権下で獄舎として使われたここは、カルロス・ルイス・サフォン『風の影』という小説にもたびたび処刑場としてその名が登場する場所である。

ただ、現在はそのようなおどろおどろしい雰囲気は消え去り、城のテラスからはバルセロナの街並みと地中海を見渡すことができる。遠くにサグラダ・ファミリアの姿を認め、このバルセロナという街がいかに区画整理され、高さまでも制限されている街であるかが分かる。ここ数日でバルセロナの街を駆けずり回ったが、まだまだ知らない観光スポットが、お店が、路地がたくさんあるのだと、バルセロナの街を一望して途方に暮れる。

カモメが飛んできて、城壁の上にとまった。歩みに合わせてしばらくカメラのレンズを向けると、遠くへ飛んで行ってしまった。

あっという間の五日間、私も明日、ここを飛び立たねばならない。 

f:id:m216r:20190204225231j:image
f:id:m216r:20190204225240j:image
f:id:m216r:20190204225244j:image
f:id:m216r:20190204225235j:image

マドリード(スペイン篇4)

一歩足を踏み入れたとき、これまでの部屋とは空気が変わったような気がした。目の前には人だかりができていて、人々の頭越しに巨大な絵の上部が見える。

人混みをゆっくりかき分けて、絵の前に進む。幕が少しずつ開いていくように、絵画の全貌が眼の前に現れる。

巨大な横長のキャンバスの左側に描かれているのは牡牛、子供を抱いて泣き叫ぶ女、横たわる兵士、そして、中央にはランプのような爆弾のような光源の下でいななく馬、その右側には灯を手に窓から身を乗り出す女、駆け寄る女、建物から落ちる女……。

その構図は、何度も目にしてきたはずだった。それでも、実物を見て胸が震えた。

私は、ソフィア王妃芸術センターの206号室でその絵に圧倒され、立ち尽くしていた。

 

パブロ・ピカソゲルニカ」、私にとってはただ絵面と絵画名がかろうじて一致する程度だったその作品に明確な意味が付与されたのは、原田マハの小説『暗幕のゲルニカ』を読んだことがきっかけである。

この小説は、現代と過去の話が交互に語られ、二つの物語が収斂していくという構造を持っている。

現代のパートの主人公は、ニューヨーク近代美術館のキュレーターである日本人女性。その女性がアートの力で平和を訴えようとゲルニカに迫っていく。イラクに対する武力行使を容認した安全保障理事会、その会見場の壁に掛かっていたはずのゲルニカタペストリーに暗幕がかけられていた。作中に登場する場面であるが、2003年実際にイラク空爆前夜に起こった出来事であり、これが『暗幕のゲルニカ』を書くきっかけだったと著者は語っている。

過去のパートの舞台はスペイン内戦中のパリ。スペイン北部の町、ゲルニカに対するドイツ軍の無差別空爆を知ったピカソが、パリ万博に出展する作品としてゲルニカ制作に取り掛かる。ピカソがこの絵画に込めた想いが作品を通して伝わってくる。

原田マハ氏は刊行記念インタビューゲルニカについてこう語っている。「絵画なんだけど、ドキュメンタリー。忘れたい、でも忘れてはいけない出来事」。優れた芸術作品は、真実以上に真実を語りかけてくることがある、と私も常々思う。

もし『暗幕のゲルニカ』に出会わなかったら、私はバルセロナから足を延ばしてマドリードまで来なかったかも知れない。マドリード行きのAVE(スペイン高速鉄道)を日本で予約し、朝7時バルセロナ発の便に乗り込み、機内食のような朝食を取り、マドリードの駅に到着し、冷たい空気に震え、駅から歩いてすぐのソフィア王妃芸術センターへ向かうことはなかったのかも。この『暗幕のゲルニカ』に魅力を感じ、この作品の向こうに「ゲルニカ」の魅力を感じた。そして今、目の前にある「ゲルニカ」に魂を揺さぶられている。怒り、哀しみ、絶望、様々な感情が絵を通して流れ込んでくる。

前述のインタビューを、原田マハ氏はこんな言葉で締めくくっている。

――実際は、美術が戦争を直接止められることはないかもしれません。それは小説も同じでしょう。けれど「止められるかもしれない」と思い続けることが大事なんです。人が傷ついたりおびえたりしている時に、力ではなく違う方法でそれに抗うことができる。どんな形でもクリエイターが発信していくことをやめない限り、それがメッセージになり、人の心に火を灯す。そんな世界を、私はずっと希求しています。

確かに、今始まろうとしている、或いは進行中の戦争を止める力はアートにはないかもしれない。だけど、戦争を引き起こすきっかけのきっかけのきっかけとなる小さな萌芽ぐらいは摘むことはできるのではないかと、ゲルニカを前にするとそんなことを信じたくなってくる。

f:id:m216r:20190126073223j:image

15時半、マドリードからトレドへと向かうバスに揺られていた。「スペインに一日しかいられないのであればトレドへ行け」そんな格言があるぐらいスペインの歴史や文化が凝縮された町、トレド。マドリード訪問のついでに何とか行けないかと考えた結果、マドリード発のバスツアーに参加することにしたのだった。

ほとんど事前知識なしで参加した分、日本語ガイドの説明が興味深い。トレドにもリーガ・エスパニョーラの3部に所属するサッカークラブがあり、過去に一度、国王杯でレアル・マドリードに勝利するというジャイアントキリングを成し遂げたことがあるとか。また、日本人で初めてトレドを訪れたのは、1582年に九州のキリシタン大名の名代としてローマに派遣された四人の少年たちで、途中トレドを訪れた際、初めての日本人を一目見ようとする人々で街はごった返したとか。その他、ごく一般的なトレド情報についてはWikipediaを参照されたい。ガイドの説明にじっくり耳を傾け、帰りの車内で抜き打ちテストがあっても首席で卒業できるほどであった。

一時間ほどでトレドに到着。もはや慣れているのだろう、この21世紀にトレドの町を歩く我々日本人の集団に、人々は好奇の目を寄せることはない。展望台からトレドの全景を眺め、大聖堂の荘厳さに圧倒され、サント・トメ教会でエル・グレコの絵画「オルガス伯の埋葬」を鑑賞する。午後からの半日ツアーだったため、駆け足での観光となり、この文章もどこか駆け足気味だが、いつかまたゆっくりと訪れてみたい。可能であれば宿泊し、細く入り組んだ路地を迷子になりながら歩くのも楽しそうであるが、私はすでに人生の迷子である。

f:id:m216r:20190126072921j:image
f:id:m216r:20190126072925j:image
f:id:m216r:20190126072930j:image
f:id:m216r:20190126072917j:image

再びマドリードへ。解散場所のグラン・ビア通りからマドリードの中央駅へタクシーで移動する。渋滞に巻き込まれ、のんびり車窓から街並みを見つめる。ネオンに輝くマドリードの街は、どことなく銀座のような印象を抱く。

駅に到着、手荷物検査を終え、21:25発のAVEに乗り込んだ。

結局、マドリードでまともに観光したのはソフィア王妃芸術センターのみだった。「銀座のよう」ではなく、マドリード固有の印象を抱くには滞在時間が短すぎたような気がする。いや、たとえ長かったとしても、美術館が乱立するこの街を堪能できるほどの素養が私にはあるのか。

ただ、美術には門外漢の私が、ここマドリードで一枚の絵画に感動できたこと。その絵の制作過程を、その絵に込められた意味を知ることで、そんな私でも胸を打たれるのだということを知った。

往復ともに一等車なので食事付きである。ドリンクのリストにカバ(スペイン製スパークリングワイン)を見つけ、オーダーする。

濃い一日だった。そして、カバのアルコールも濃いのか、或いは私が疲れているだけなのか、酔いが心地よく回ってくる。

AVEは時速300kmでマドリードから、ゲルニカから離れていく。

ガウディの天才性(スペイン篇3)

何かが破裂する音で目を覚ました。iPhoneを手繰り寄せ、時間を確認してその音の正体を把握する。ちょうど日付が変わったところ、どこかで花火が上がっているのだ。

年が変わる瞬間に特に執着心はなく、眠りについていた。所詮、人間が恣意的に決めた瞬間であり、しかもそれを全人類が一斉に祝うでもなく、これまた恣意的に決められたタイムゾーンに従って祝う、そのことに対する違和感が自分の中にあった。

花火の音はやけに喧しく、眠れそうにないので、屋上に上がってみることにした。サグラダ・ファミリアは暗がりにその姿を潜めていた。遠く、スペイン広場の方だろうか、花火が上がっている。街中のところどころからも、市販の打ち上げ花火が上がっていた。

f:id:m216r:20190119232125j:image

ぼんやりと花火を見つめながら、新年を祝う人の営みについて考える。年始に執着心はないと述べたが、大晦日にはちゃっかり年越しそばを食べたわけで、その「恣意的に決められたもの」から完全に自由ではいられない中途半端な自分自身を自覚もしている。

しかも、この8時間後に私は、初日の出を見るべくグエル公園にいたわけで、なんとも矛盾した行為である。結局心のどこかで、新年を祝うこの空気に自分を置きたいのかもしれない。

午前8時、グエル公園構内、徐々に明るみを増していく空が私の足を速めていた。バルセロナ到着初日にグエル公園を訪れたのは、初日の出の下見も兼ねてであった。位置関係を把握していたおかげで、迷うことなく目的の中央広場へ歩みを進める。

日の出の時刻、8:17の少し前に広場に到着すると、グエル公園の代名詞とも言えるモザイクタイルがあしらわれたベンチの前で多くの人々が夜明けを待っていた。聞こえてくるのは日本語と韓国語。ここは新大久保か。ベストスポットを巡っての日韓戦が行われているようだ。海外には初日の出を拝む習慣はないと思っていたが、お隣の国、韓国にもあるのだろうか。

遠く、南東の方角を見つめる。そこにはサグラダ・ファミリアが建っていて、その後ろの地中海から朝日が昇るはずである。

f:id:m216r:20190119232555j:image

海と空の境目が真っ赤に燃える。朝焼けが日の出を予感させる。

水平線の上に太陽の輪郭が現れた。周囲からは言語の壁を越えた感嘆の声が漏れる。次第に姿を現していく太陽が、グエル公園のベンチを照らす。圧倒的な赤に、ベンチの色鮮やかな青や緑が呼応しているようにも見える。そこに色が宿る瞬間を見る心地がする。

朝日を見るとき、これまで私は太陽そのもの、つまり、ただ照らすものの美しさしか認めてこなかったかもしれない。グエル公園で朝日を見ることで、照らされるものの美しさをもっと認めるべきではないか、とガウディに諭されたような気がする。

f:id:m216r:20190119232827j:image
f:id:m216r:20190119232822j:image
f:id:m216r:20190119232832j:image

この旅の大きな目的の一つである「バルセロナで初日の出を拝む」は天候にも恵まれ見事達成することができた。満足感を胸にホテルに戻り、朝食をとって、昼過ぎまでゆっくり休んだ。

そしてこの日はガウディ三昧。午後からは彼の代表作であるカサ・バトリョカサ・ミラをハシゴすることにしていた。

地下鉄でカタルーニャ駅へ。昨日はここを起点に南へと足を延ばしたが、今回はグラシア通りを北上する。

TXAPELAというピンチョスバルのチェーン店で昼食をとった後、カサ・バトリョへ向かった。日本で時間指定なしファストパス付きのチケットを購入していたため、行列の横を涼しい顔で通り、入り口へ。ガウディが繊維業界のブルジョアであったバトリョ家の依頼により増改築した建物で、海をイメージして建築されたと言われている。その建物の中をスマホ型のオーディオガイドに従って見て回る。画面にはその部屋に応じたアニメーションが流れる。

バルコニーの波打つ窓や、煙を表現した屋上の煙突など、見どころはたくさんあったが、とりわけ興味深いのはタイルが貼られた中庭の壁で、上層階から地上階に近づくにつれて色が濃紺から白へ変化している。これは、各階に届く光の量が同じになるように計算されているらしい。外尾氏は著書の中で『ガウディの天才性の一端は、機能とデザイン(構造)と象徴を常に一つの問題として同時に解決していることにあると思います』と述べているが、その天才性の一端を垣間見たような気がした。

f:id:m216r:20190119235314j:image
f:id:m216r:20190119235321j:image
f:id:m216r:20190119235317j:image
f:id:m216r:20190119235310j:image

そして、カサ・ミラ。実業家ペレ・ミラの邸宅として建設された、曲線が印象的な建物である。こちらは16:30指定のチケットを購入していたので時間に合わせて訪問。手荷物検査を受け、オーディオガイドを受け取り、中に入るとそこは壁が淡い色彩で彩られたホール、そこからエレベーターで一気に屋上へ上がる。そこに並んでいるのは独創的なオブジェ、実際は煙突や換気口の役割を果たしている。ソフトクリームのようにも見える換気口は、空気の流れを読んでこういうデザインを生み出したとのこと。屋上を風が吹き抜ける際、この煙突が空気を巻き込んで中の煙を吸い出させる。換気扇があまり普及していなかった時代に、ガウディが機能・デザイン・象徴の問題を同時に解決した一例であろう。屋上からはバルセロナの街を見渡すことができた。

屋上から階段を下りて、ガウディ建築の展示スペースとなっている屋根裏を見学、更に階段を下り、住居スペースへ。ここは現在でも4世帯が住むアパートであり、見学可能なのは1フロアのみ。因みに家賃は約15万円、破格の安さに思えるが、建設当時は家賃の高さと見た目の評判の悪さからなかなか借り手がつかず、「3世代に渡って家賃値上げなし」という条件があるらしい。バルセロナの中心で世界遺産に15万円で住む、一体前世でどれだけ徳を積めばここの住民として生まれてくるのか。

f:id:m216r:20190119235548j:image
f:id:m216r:20190119235536j:image
f:id:m216r:20190119235545j:image
f:id:m216r:20190119235541j:image

ガウディ建築を堪能した私はホテルへ戻る。地下鉄から地上に上がる瞬間、またサグラダ・ファミリアが出迎えてくれる。今回のホテルは中心部からは多少離れていて、ショッピングに重きを置く場合はお勧めできないかもしれないが、私にとっては最良の選択をしたような気がする。サグラダ・ファミリアが帰る場所になる、という感覚を持つことができる場所。

f:id:m216r:20190119235636j:image

2019年の元日は、ガウディに彩られる形で終わった。所詮、人間が恣意的に決めた前年との区切りではあるが、その恣意的なものに囲まれて生きる以上、その区切りを経て訪れた2019年という年を素晴らしい年にしたい。

+8(スペイン篇2)

ホテルの朝食ビュッフェが好きだ。特に、その土地の特色が現れていて、種類が豊富であれば申し分ない。例えば、鹿児島のホテルでは鶏飯を食べ、台北のホテルでは点心を食べたことがあったが、朝からその地域の文化にどっぷり浸かることができる食事は旅行に彩りを与えてくれるような気がする。

ホテルの朝食会場には、様々な食材が並んでいた。ハムやチーズは特に種類が豊富で、それを日本人である私は「ハム」「チーズ」としか言い表せない、この語彙が追い付かない感じが嬉しい。また、カバ(スペイン製スパークリングワイン)のボトルも置いてあった。さすがに朝からアルコールを摂取してしまうと、現地の方々以上に陽気な一日を過ごしてしまいそうで遠慮しておいた。なんてことない普通の目玉焼きがとても美味しかった。

食後、この旅初めての地下鉄に乗った。バルセロナは某旅行情報サイトが発表している「スリが多い世界の都市ランキング」で堂々一位を獲得しており、ネット上や『地球の歩き方』では地下鉄での被害が数多く報告されていた。新聞やコートを手に持ったまま近づき、旅行者の鞄を隠しながら財布を盗む、などといった具体的な手口の数々をあらかじめ頭に入れておいた私は、コートの内ポケットに財布を入れ、ショルダーバッグは体の前に持ってくる。地下鉄の改札を通った瞬間から周囲は全員敵、近寄るなオーラをまき散らしながらホームへ向かい、電車に乗り込んだ。FCバルセロナの攻撃陣でも手を焼くほどの超守備的な布陣を築き上げる。そんな私がこの日最初に向かう先は、そのFCバルセロナの本拠地であるカンプ・ノウ・スタジアム。本来はここで試合を観戦したかったのだが、年末年始は試合が行われないため、スタジアムツアーにだけ参加することにしていた。

サグラダ・ファミリア駅からコイブラン駅まで5号線で15分、そこからGoogle Mapsを頼りに歩くこと10分、バルサファンにとって、否、サッカーファンにとっての聖地とも言えるカンプ・ノウに到着した。ツアーのチケットを購入し、中に入る。まずはミュージアムでクラブの長い歴史を垣間見る。歴代のユニフォームや写真、応援歌の楽譜までも展示されていた。そして、私の人生で果たしてこんな数のトロフィーを一度に目にしたことがあっただろうか、と思うほど華々しい経歴が飾られていた。世界でも有数のクラブが地元にあるというのはどんな気分なのだろう。私の地元のクラブ、鹿児島ユナイテッドFCはなんとかJ2リーグに昇格したばかりであり、そんな私にとってはトロフィーの輝きが眩しすぎる。

スタンドに出てピッチを眺める。これまで4人の日本人選手がここでバルサ相手に奮闘した。とりわけこのピッチで日本人として初ゴールを、しかもその試合で2得点を挙げた乾貴士の衝撃は記憶に新しいが、その彼も今やなかなか試合に出場できていない現状を考えると、スペインリーグで活躍することがいかに難しいかを思い知らされる。

f:id:m216r:20190116194350j:image

プレスルーム、ロッカールームを訪れ、プレイヤーズトンネルを抜ける。まるで自分が選手になったかのような気分を味わいながら歩く。カンプ・ノウの芝が目の前に広がる。恐らくほとんどのサッカー選手が憧れる瞬間を疑似体験する。

やっぱり、ここで試合が観たい、と思った。

思い返すのは、今年3月、ドイツはドルトムントのスタジアムで観戦したブンデスリーガの試合である。バックスタンドのサポーターの黄色い壁、ゴールの瞬間の狂乱、試合後の余韻……。チャンピオンズリーグ出場権を争うフランクフルトとの試合は一進一退のシーソーゲームで、終盤でドルトムントが勝ち越しのゴールを奪うという劇的なものだった。その翌日、スタジアムツアーでもう一度訪れたそこは、祭りの後の静寂、ガラガラのスタンドに無人のピッチ、あの熱狂が夢だったかのように静まり返っていた。スタジアムの動と静を味わって初めてそのスタジアムを堪能したような気がした。

今回観戦できないことを今更嘆いても仕方がない。その分節約できた時間とお金を他に費やすのだ。ありがたいことにバルセロナには僅か一週間足らずの滞在では体験しきれないほどの魅力で満ち溢れている。

いつかここで試合を観戦してやろう、という強い決意を胸にカンプ・ノウを後にする。来たときとは反対側、地下鉄3号線のパラウ・レイアール駅へと向かう。改札を抜けたら全員敵、と再度気を引き締める。乗り継ぎなしで次の目的地、カタルーニャ駅へ。

午後は、バルセロナの中心として古くから栄えたゴシック地区を散策することにしていた。人通りの絶えないランブラス通りを歩き、サン・ジュセップ市場を覗く。その後、無名時代のピカソや多くの芸術家たちが通ったと言われる「クアトラ・ガッツ」というカフェで昼食をとった。ここにはサグラダ・ファミリアの主任彫刻家、外尾氏も1978年に訪れているが、そのときにはもはや芸術の原点といった印象はなく、ただの観光名所となっているカフェ・バーだったと述べている。

確かに、芸術家たちが熱い議論を戦わせるような場面は期待できず、観光客が束の間の休息を取っているだけ、一観光名所に成り下がってしまった感じは否めない。それでもここが歴史的な場所であることに変わりはない。バルセロナを舞台にしたカルロス・ルイス・サフォンの小説『風の影』にも登場する、私にとってはどうしても訪れなければならない場所の一つであった。当時の様子を想像しながら、タパスを口に運ぶ。

f:id:m216r:20190116194426j:image

日本では紅白歌合戦が行われているようだった。NHKホールから音楽の祭典がお茶の間に届けられているそのとき、私も音楽の祭典にふさわしい空間へ向かおうとしていた。カタルーニャ音楽堂。ガウディと並ぶ、いや、当時はガウディ以上に名声を博していた建築家モンタネールの最高傑作である。15時からガイドツアーを予約していた私は、時間に合わせてその場所へ向かった。

赤レンガ造りの建物は外観も目を惹かれるが、その内側には素晴らしい空間が広がっていた。ロビーから二階へと続くバラの装飾が施された階段、その階段を上ったところに位置する控室ではステンドグラスから柔らかな光が差し込む。そのガラス戸の外側、バルコニーの柱には色鮮やかなモザイクタイルがあしらわれていた。圧巻は大ホールである。天井のタイルと彫刻、そして、ステンドグラスのシャンデリアからの淡い光がホールを包み込む。舞台の壁面にも彫刻やモザイクが飾られ、まさに豪華絢爛。狭い舞台はさすがにオペラには向かないが、それ以外のどんな音楽にも対応できるという。私はこのカタルーニャ音楽堂でもう一つの歌合戦を勝手に想像していた。

f:id:m216r:20190116194458j:image

1時間に及ぶガイドツアーが終わったそのとき、日本では新しい年を迎えたようだった。私は、図らずも8時間長くなった2018年を最後の瞬間まで楽しもうと、引き続きゴシック地区を散策する。高くそびえるゴシック様式のカテドラルに圧倒され、そのカテドラルの裏、石造りの建物に囲まれた王の広場で中世の雰囲気を味わう。大道芸人を横目で見ながらランブラス通りを南下し、この通りの最終地点、コロンブスの塔にたどり着いたところで散策を終えた。

地下鉄でホテルの最寄り駅へと戻る。駅から地上に出た瞬間、サグラダ・ファミリアが圧倒的な存在感を持って迫ってくる。太陽が沈む西側を向いている受難のファサードが、夕日に照らされ橙色に染まっていた。

f:id:m216r:20190116194534j:image

ホテルに戻り、屋上からサグラダ・ファミリアを、そして眼下に広がる夕刻のバルセロナの街をのんびり眺めた。贅沢な時間である。

f:id:m216r:20190116194558j:image

晦日らしくない大晦日であった、と一日を振り返って思う。ただ、この日を無理やり大晦日らしくするための秘密兵器を日本から持ち込んでいた。

スペインでは新年を迎えた瞬間に12粒のぶどうを食べる習慣があるらしい。それは、新年の12ヶ月の幸運を祈る意味があるとか。日本人である私は、部屋に戻り、日本から持ち込んだ「どん兵衛」を食べる。蕎麦のように細く長く、「健康長寿」と「家運長命」を祈りながら。

f:id:m216r:20190116194629j:image

8時間長くなった私の2018年も終わろうとしていた。

サグラダ・ファミリア(スペイン篇1)

つくづく不思議な建物だと思う。1882年に着工し、未だなお建設中のサグラダ・ファミリア聖堂、それは「永遠に完成しないもの」の象徴のように扱われ、もしかしたら身近にある工期の長い建物がサグラダ・ファミリアに喩えられる場面に遭遇したことがあるかもしれない。例えば、柚木麻子『終点のあの子』の冒頭にも、なかなか完成しない駅に対して「サグラダファミリア」という名称が使われている。

もはや、完成してしまったら、サグラダ・ファミリアサグラダ・ファミリアたらしめているその重要な要素が失われてしまうような気さえしてくる。未完成の中にこそ完全性を秘めているような、そんな矛盾した感覚を抱いてしまうのだ。

そして私は、サグラダ・ファミリアがその完全性を有している間にそこを訪れたかった。建築技術の発展により、当初見込まれていた工期の約300年は半分の144年に短縮され、ガウディ没後100年に当たる2026年に完成が予定されている。タイムリミットが設定されてしまったわけである。W杯二回分の完成までの時間は油断しているときっとあっという間に過ぎ去ってしまうだろう。脳内ではスーパーマリオのタイムオーバーギリギリの倍速の音楽が鳴り響き、私を急き立てる。いつ行くか、今でしょ!こんな言葉が流行ったのももはや5年前の出来事であり、時が流れるのは本当に早いのだ。

年末年始にヨーロッパ、そんな贅沢を味わうことに躊躇してしまってはいつまでたっても行けない、一人海外で年を越すことの寂寞感など知るか、思い切って私はバルセロナに飛ぶことにした。

かくして私のスペイン珍道中が始まることになる。

f:id:m216r:20190113154947j:image

2018年12月30日、現地時間午前7時、バルセロナ郊外のエル・プラット空港に到着したキャセイパシフィック航空の旅客機は、時差ボケと長時間移動に疲弊した乗客を次々と吐き出していた。最新鋭のネックピローを導入し、食事以外の時間をほぼ寝ることに(寝ようとすることに)費やしたはずの私も例外ではなかった。2019年へのカウントダウンを着実に進めていたはずの体が、時差ボケでバグを起こしてしまい、永遠に2018年に取り残されてしまうのではないか。入国審査でだいぶ待たされ、スーツケースを引きずる体をさらに引きずるようにして空港内を移動する。

空港から市内へ移動する方法はバスやタクシーなど様々だが、鉄道と地下鉄を乗り継いで向かうことにした。疲弊した体がどこでもドアを欲するが、ドラえもん誕生はサグラダ・ファミリア完成のはるか未来、2112年の出来事である。ていうかフィクションである。

到着したターミナル1から空港駅のあるターミナル2へ無料の巡回バスで移動する。バルセロナの日の出は8時過ぎと遅く、あたりはまだ闇に包まれていた。

10分程度かけてターミナル2に到着した時点で、空港駅から市内へ30分間隔で運行している列車の次の便にギリギリ間に合うかどうかというところ。案内板に従い、空港駅へと続く連絡橋を走った。これに間に合えば、スペインの旅が何事もなく順調に終えられるような根拠のない予感がして、スーツケースを必死で引きずる。

改札前に到着し、慣れない券売機で乗車券を購入する時間も惜しかったため、窓口に10回券が欲しい旨伝え、受け取るとすぐに改札へ、乗車券を入れ、出てきた券を取り、ホームで出発を待ち構えている列車に飛び乗った。

市内へ向かう早朝の列車は空いていて、ゆったりと座席に腰を据える。ほどなく発車し、ほっと一息ついて車窓を眺めると、私の苦労をねぎらうかのようにバルセロナの美しい朝焼けが広がっていた。

f:id:m216r:20190113155051j:image

バルセロナ郊外の素朴な風景を窓に映しながら列車は進み、約20分かけてバルセロナの中央駅に到着した。

中央駅の広い構内を地下鉄乗り場を探してさまよっているとタクシー乗り場が目に入る。もうすでにホテルの近くまで来ていることや、重い荷物を持って地下におりてまたのぼる煩雑さ、スリに遭う危険性を考え、ここからサグラダ・ファミリアの近くのホテルまではタクシーで向かうことにした。

車窓からまだ人々が活動を始める前のバルセロナの街を眺め、時折Google Mapsで現在地を確かめる。タクシーは着実にホテルへと近づいていく。英語での意思疎通がうまくいかなかったのか、タクシーはホテルの前を通り過ぎてしまった。慌てて止め、下車、数ブロックを歩いて戻ることにした。

肌に感じるバルセロナの朝の空気はひんやりとしているものの、東京で感じるような暴力的な冷たさではなく、どこか優しい。

サグラダ・ファミリアのあるアシャンプラ地区は、京都と同様、碁盤の目状に区画整理されている。その碁盤の目を例外的に斜めに走るアベニーダ・ガウディという通りに差し掛かったとき、息を吞んだ。まさか、この景色を私に見せるためのあえてのオーバーランなのかタクシードライバー。通りの向こう、雲一つない青空を背景に、サグラダ・ファミリアが屹立していた。

サグラダ・ファミリアの主任彫刻家、外尾悦郎氏は著書『ガウディの伝言』でこう語っている。

——私が好きなのは、アベニーダ・ガウディと呼ばれる通りを少し下ったところから仰ぎ見るサグラダ・ファミリアですが、ここから見ると、手前にある六階、七階建ての四角い建物群をすべて睥睨して君臨する石の怪物に見える。遠近感が狂ってしまうほどの存在感があります。

図らずも外尾氏のお気に入りの景色をこのような形で見ることになり、私は感動すると同時に、今確かにバルセロナにいるのだ、という強い実感を抱いていた。

f:id:m216r:20190113155234j:image

ホテルに到着、チェックインは午後2時なので、ひとまず荷物を預かってもらい、早速サグラダ・ファミリアへと向かった。午前9時過ぎ、まだ早い時間帯で観光客もまばらである。サグラダ・ファミリアを間近で眺め、その迫力に圧倒された。細かい装飾が施された生誕のファサードを見上げ、少し離れ公園の池を挟んで眺める。反対側の受難のファサードに移動し、生誕のファサードとは異なる冷たい石の質感を、そこから受難の苦しみを感じる。「ダーリンダーリンいろんな角度から君を見てきた」と歌ったのは桜井和寿であるが、私もいろんな角度からサグラダ・ファミリアを眺めてみる。その外観の奥深さに飽きることがない。

f:id:m216r:20190113170331j:image

年が明けてから入ることになっている内部への期待を胸に、一度ホテルへと戻ることにした。サグラダ・ファミリアを間近で見ることで束の間忘れていた疲れは、着実に私に蓄積されていた。

ロビーのソファーで休む。このホテルを選んだ理由は、サグラダ・ファミリアに近く、屋上から(そして値段が高いので指定はしていなかったが一部の部屋からも)サグラダ・ファミリアが見えるからであった。チェックイン前であるが、一足先に屋上からの景色を楽しんでみようとエレベーターで昇ってみると、朝の太陽を背景に、正に後光が射す神々しいサグラダ・ファミリアが目に飛び込んできた。聖堂のちょうど裏側に当たる、あまり見慣れない側面ではあるが、それもまた一興。ここに泊まっている間はこの景色が見放題であり、時間を変えて何度も訪れようと思いながら再びロビーへ戻る。やはり疲労感は隠せない。再びソファーに腰を下ろし、チェックインの時間まで休むことにした。

f:id:m216r:20190113155510j:image

しばらくして、ホテルのスタッフが私に部屋の用意ができたことを告げる。まだ午前中である。そして荷物もすでに部屋に入れてあるという。なんというホスピタリティ。この旅初めての「グラシアス」が口をついて出た私は、カードキーを受け取り早速部屋へと向かう。特に指定はしていなかったが、窓からサグラダ・ファミリアが見える部屋で、ここでグラシアスのインフレが発生してしまった。

f:id:m216r:20190113155539j:image

ベッドに横になる。この日、グエル公園16時入場のチケットを購入していた。体力に余裕があればその前にガウディのライバルとも言われるモンタネールが建築したサン・パウ病院を訪れようと思っていたが、ここで無理をしてしまうと今やもう病院としての役割を終え文化遺産となっているサン・パウ病院に入院せざるを得ない状況になってしまうかも知れぬ。モンタネールには誠に申し訳ない、サン・パウ病院訪問は取りやめることにして、時間が許す限り疲れを癒すことに注力した。

15時半にホテルを出て、配車アプリ「mytaxi」でタクシーを呼ぶ。以前、ドイツはドルトムントを旅行中にあまりにも流しのタクシーが捕まらないためにその場でインストールしたアプリだが、これが本当に便利で、配車依頼時にアプリ上で行き先を指定するため、運転手との意思疎通の問題はなく、清算もアプリ上でクレジットカード決済ができる。やってきたタクシーに乗り、10分ほど走ってグエル公園に到着した。

グエル公園、グエル伯爵の依頼により、ガウディが設計した庭園都市。『ヘンゼルとグレーテル』のお菓子の家をイメージしたと言われる小屋や、ディズニーリゾートが参考にしたとも言われる大階段などを見て回る。公園内の柱には道路整備のために掘削された石が使われ、色鮮やかなベンチには不良品のタイルが使われている。エコロジーという概念が登場する遥か以前からそれに取り組んでいたガウディ、彼の建築における思想は前述の外尾悦郎氏の著書を事前に読むことでぼんやり理解していたつもりであるが、滞在中、彼の建築物を実際に目で見ることでそれを実感していくことになる。それはまた後々語ることになるであろう。

f:id:m216r:20190113160252j:image

ホテルでゆっくり休んだおかげで、広大な公園の敷地内を歩き回る体力が残っていた。公園内で最も高い位置にあるゴルゴダの丘へと向かう。多くの観光客が夕日に染まるバルセロナの街を見ようと待機していた。私もそこにとどまり、サグラダ・ファミリアとは反対の方角に沈んでいく夕日を眺めていた。

列車内で見た朝日から、このグエル公園で見る夕日に至るまでの間、僅か二か所を訪れただけであるが、一日ガウディ建築にどっぷりつかったような気がする。そんなバルセロナの初日が終わろうとしている。

f:id:m216r:20190113160357j:image

グエル公園での落陽を見届け、この日見たガウディの建築物の数々を思い返しながらホテルへと戻る。

もうこれで本日は一日出来る限りガウディの作品は堪能しつくした、と思っていたが、日が落ちた後でさえガウディは私を魅了してやまなかった。再びホテルへと戻った私を、ライトアップされたサグラダ・ファミリアが出迎えてくれた。

f:id:m216r:20190113160427j:image

こうして私の、サグラダ・ファミリアで始まり、サグラダ・ファミリアで終わる日々が始まったのである。

くるりとのこと

それは、河合神社の片隅にひっそりと建っていた。「広さはわづかに方丈、高さは七尺がうち也。」と『方丈記』に記されている通り、わずか四畳半ほどで高さは約2m、茅葺き屋根の質素な小屋である。

京都で様々な災害を経験した『方丈記』の著者、鴨長明は、世の無常観を嘆き、出家して、郊外にある日野山に簡単に移動できる庵を作って住んだ。そのときの住まい、方丈庵を復元したものが河合神社に建てられていた。

方丈記』と言えば、「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。」という書き出しの名文句を覚えている人は多いであろう。あらゆるものは流転してやまない、というヘラクレイトスにも通ずるこの思想に、私は勝手に、時代とともに変遷していくくるりの音楽を重ねてしまっていた。フォークの『さよならストレンジャー』、オルタナロックの『図鑑』、テクノ・ダンスミュージックの『TEAM ROCK』、エレクトロニカの『THE WORLD IS MINE』……、くるりはアルバムを出すごとに新しい顔を我々に見せてくれた。そして、リリースされたばかりの『songline』を聴きながら、私はまたあのイベントのために京都へとやってきた。

河合神社は、女性守護としての信仰を集める社である。たくさんの女性が訪れる境内において、くるりの曲を脳内再生しながら一人粗末な庵を見つめる私に、外国人の女性が訝しげな視線を送っていた。

京都音楽博覧会の前日の出来事である。

 

 

2018年9月23日、京都音楽博覧会当日の京都の朝は晴れ渡っていて、青い空を背景に京都タワーが映える。二年前の京都音楽博覧会で経験した、滝行にも思える土砂降りの中の鑑賞という事態は避けられそうである。

人の流れに従い、京都タワーを背に、もはや通勤路と同じように馴染みとなった梅小路公園までの道を歩く。この日、各地からくるりのファンがこの場所に集うということが感慨深い。あまり信心深いタイプではないが、今後、ファンにとっての聖地とも言えるこの梅小路公園のある方角に向かって、一日五回の礼拝を自らに義務づけたほうがいいのではないかと思うほどである。

会場に到着し、つるや染物店ののれんをくぐって入場、適当な位置にシートを敷いて、開始時刻を待った。今年の夏に猛威を振るった太陽が、最後の力を振り絞って梅小路公園を照らしつけていた。

正午にさしかかろうというところで、ステージにくるりのメンバーが登場。開会宣言の後、「若い頃のくるりに似ている」というような紹介からトップバッターのnever young beachの演奏が始まる。

きっと昔、私がくるりを聴いていたのと同じように、今の若い子たちはnever young beachを聴いているのだろう、と思いながら、『どうでもいいけど』の軽快なメロディーに耳を傾けた。穏やかな風が吹いて、暑さを和らげていた。

 

 

私がくるりの音楽に出会ったのは、大学の軽音楽部でのことだった。『京都の大学生』というくるりの曲があるが、私はというと「名古屋の大学生」として青春を謳歌していた。大学入学時、軽音楽部かサッカー部かで悩みに悩み、アディショナルタイムで軽音楽部に入部を決めた私、もしあのときサッカー部を選んでいたら、くるりを聴くこともなく、毎年秋に京都を訪れることもなかったかもしれない。高校まではGLAYやB'z、Mr.Childrenといった、テレビで流れるアクセスしやすい音楽がすべてだった私に、周囲からどっと様々な音楽が流れ込んでくるようになる。

BUMP OF CHICKENASIAN KUNG-FU GENERATIONスーパーカー真心ブラザーズ中村一義GRAPEVINELOST IN TIMEELLEGARDENGOING UNDER GROUNDNUMBER GIRLOasisRed Hot Chili PeppersWeezerBlurRadioheadNIRVANA……

今振り返ってみると所謂「ロック」という狭いジャンルにとどまっている気がするが、当時は自分の音楽の趣味嗜好がとてつもなく広がっていくようなそんな錯覚を抱いていた。当時新しく耳にした数々のアーティスト、そのうちの一つがくるりだった。

ただそれだけなら、ここまでくるりに魅せられ、大学を卒業して何年も経った今、京都にまで遠征してくるりを見るなんてことなどなかったであろう。私がくるりにここまで傾倒してしまった大きな理由は、大学四年生の頃に部活の友人らとくるりコピーバンド「ぬるり」を結成したこと、そして、その年の学園祭でくるりが我々の大学にやってきたこと、である。卒業アルバムをめくると、若々しい岸田繁が虹色のシャツを着て演奏している姿が写っている。

当時コピーした曲を聴くと、学生食堂の地下のスタジオのかび臭いにおいや、ステージの上からの景色や、大学の体育館の二階席から初めてくるりを見たときのことなどを思い返してしまう。

大学を卒業し、就職して上京したときには、『東京』の歌い出し「東京の街に出て来ました あい変わらずわけの解らない事言ってます」という歌詞を反芻した。その曲のイントロの目まぐるしく変わるコード進行にも似たせわしない日々の中でも、くるりの音楽は常にそばにあって、上京して10年余りが経過した今も、あい変わらずわけの解らない事を言いながら、あい変わらずくるりの音楽を聴き続けている。

そんな私が初めて京都音楽博覧会を訪れたのは、このイベントがシルバーウィークと重なった2015年の秋のことであった。京都で、秋の心地よい気候の中で聴くくるりの音楽を体感してしまった私は、その後、毎年京都音楽博覧会を訪れることになる。

 

 

京都の空が暮れていく。自身、四度目の京都音楽博覧会も終盤を迎えようとしていた。

各アーティストの熱演の後、ヘッドライナーであるくるりが登場した。新しいアルバムを引っ提げてのステージは、アルバムのオープニングソングでもある『その線は水平線』から始まった。絶妙に歪んだギターのストロークから始まる、いい意味で肩の力が抜けた曲が、夕刻の京都の空に吸い込まれていく。その後、『ソングライン』、『Tokyo OP』と新しいアルバムからの曲が続く。この二曲に代表されるように、今回のアルバムはアウトロが長い曲やインストの曲もあり、楽器(特にエレキギター)の印象が強い。それは、ギタリストとしてどんな演奏をして観客を惹き付けるかということに苦心していた学生の頃に私を引き戻してくれるような気がする。

『特別な日』の歌い出し、その瞬間にステージの上の月が雲から姿を出し、特別な日の特別な瞬間を噛みしめる。

『どれくらいの』、この曲もアウトロが特徴的で、ピアノが主旋律を弾いていたかと思えば、徐々にテンポが上がり、エレキギターが入って、速弾きになる。さあここからというところでふっと音が途絶え、何もかもが儚い夢であったかのように静寂が訪れる。作曲家で芥川龍之介の息子でもある芥川也寸志は、著書『音楽の基礎』で、音楽とはまず静寂の美を認めることから始まり、音楽はそれへの対立から生まれると述べている。冒頭の僅か3ページ、「静寂は音楽の基礎である」と言い放つその箇所だけでも、私の音楽に対するとらえ方を変えてくれた名著である。演奏が終わった瞬間、梅小路公園が静寂に包まれたその瞬間に私は芥川也寸志の言葉を思い返していた。

最後はくるり三人のみで『宿はなし』を演奏し、京都音楽博覧会2018は幕を下ろした。

 

 

ここで話は再び私の学生時代に遡る。以下の文章は、当時の日記に、かなり大胆な補足を加えたものである。

 

2004年11月2日、お昼過ぎ、私は軽音楽部の後輩と大学内の駐車場で整理券の列に並んでいた。学園祭は全四日間のうちの三日目、くるりの学内ライブの日である。整理券配布開始時刻から遅れること一時間、出足の遅い我々が手にした整理券は体育館の二階の席であった。

せめてくるりのメンバーのご尊顔を近くで拝みたいと、控室のある研修センターの近くへ行ってみるものの、我々の前にはサッカーイタリア代表カテナチオを彷彿とさせる広告研究会の強固なディフェンスが立ちはだかる。もしサッカー部に入部していたらこの厚い壁も乗り越えて、メンバーとの接触を図れていたかもしれない、否、そもそもライブのことなど気にも留めずグラウンドでボールを追いかけていたかもしれない。とにかく、そのときの私は、ライブ前の接触を諦め、ライブが始まる時間をただただ待つことにしたのだった。

午後六時、開場の時刻を過ぎても体育館の外の列は動かないままである。日が落ちるとぐっと気温が低下し、冬が着実に近づいていることを実感させた。あい変わらず季節に敏感にいたい、などと思っていると少しずつ動き始める列、体育館が近づくにつれて胸が高鳴る。席は二階だったがステージにほど近く、全体を見渡しやすい場所だった。後輩と話しながら、開演を今か今かと待った。

結局、くるりのメンバーが舞台に登場したのは開演時刻を30分過ぎた頃であった。ステージが照らされ、刻まれる和音、『ワンダーフォーゲル』の演奏が始まると、そこはもはや、普段我々が目にする体育館ではなかった。ライブハウス武道館、もとい、ライブハウス体育館。虹色のシャツを着た岸田繁がギターを弾きながら歌い、佐藤征史がベースを弾く。リードギター大村達身で、ドラムは直前に脱退が発表されたクリストファー・マグワイアに代わって臺太郎が叩いていた。ずっと聴いてきた、ずっと弾いてきた音楽が、音圧となって体に直に響いてくる。音楽を生で体感することの醍醐味を味わいながら、私は演奏する側としての自分を振り返っていた。何度か立ってきたステージで、どこかに甘えはなかったか、もっといい演奏ができたのではないか。興奮と熱狂と猛省と、様々な感情が複雑なテンションコードの響きのようにまとわりつく。

その翌日、この舞台とは比べられないほど小さな教室で演奏することになっていた。演奏時間はくるりの6分の1、チケット代はくるりの10分の1、演奏技術は何分の1だろうか。音楽の楽しさを体現して演奏するくるりのメンバーの姿を見て、せめてその楽しさだけは同じくらい伝えられたらいいな、と思った。

初めてのくるりは、そんなことを考えながら母校の体育館の二階から見るくるりであった。

 

 

ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。京都音楽博覧会の翌日、私は『方丈記』の一節を思い返しながら、河川敷に腰を下ろしていた。目の前で、賀茂川と高野川が合流し、鴨川と名前を変え、流れていく。

学生時代から時を経て自身変わったことは数多くある。くるりの音楽だって変わり続ける。けれども、恐らく自分はこれからも変わらずくるりを聴き続けるのだろう。

彼らは次どんな変化球を投げてくるのか、そして、私はどうやってそれを受け止めるのか。今からまた来年の京都音楽博覧会が楽しみで仕方がない。

飛び石を渡る人々をぼんやりと眺めながら、30分弱並んで購入した出町ふたばの豆餅を昼食代わりに口にした。餅の風味と豆の食感が絶妙で、餡の甘さと適度な塩味が美味しかった。