日記なんかつけてみたりして

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国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。

 

決して雪が降ることのない香港への旅行の記事をこのように書き始めるのが正しいか分からないが、私は香港へと向かう旅客機の中で川端康成『雪国』を読んでいた。

過去、タイのバンコクへ向かう機内では、そこが舞台になった小説、三島由紀夫の『豊饒の海(三)暁の寺』を読み、ドイツのミュンヘンへ向かう機内では、またそこが舞台の小説、トーマス・マンの『神の剣』を読んだ。今回、旅情を掻き立てるような行為に及ばず、たまたま読みたかった本を機内に持ち込んだのは、「香港に行く」ということが私にとってもはや日常となっているからなのかもしれない。

一度目は高校の修学旅行、二度目は大学の交換留学、と香港渡航歴を数えてみると、今回で十一度目の香港であった。全く意識していなかったが、前回がちょうど十回目だったわけである。記念すべきその十回目には、現地の朋友を集めて添好運(深水埗本店)で貸し切りパーティーを行い、九龍灣國際展貿中心でソロコンサートぐらい行うべきだっただろうか。

実際は、カンボジアへ行く途中に乗り継ぎで十七時間滞在しただけであった。それでも、その限られた時間を無駄にせぬよう、夜の香港を駆け回った。今となっては無断撮影が禁じられている鰂魚涌の益昌大厦で撮影した写真を見るたびに、あの日マンションの谷間で感じた熱量、過去も背景も異なる異種の人間が集まって発展してきたこの街のエネルギーが迫ってくる感覚を思い返していた。

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それから一年余りが経過し、私は懲りもせずまた香港へ向かっている。今回は乗り継ぎではない、目的地としての香港。高ぶる感情を冷ますように、機内で川端康成『雪国』のページをめくる。前述の書き出しが有名な『雪国』であるが、それに続く部分、汽車のガラス窓に向側の女性の姿が映り込み、その女性の顔と外の夕景色が重なり合う描写が秀逸で、高度一万メートルの上空でノーベル文学賞の力をまざまざと感じてしまう。そして、自分も思わず窓の外に目をやってみるが、映り込む女性の姿など存在せず、雲、ひたすら雲である。

雲が途絶え、海と陸地が見える。高度を徐々に下げる旅客機、貨物船や橋が肉眼で確認できるようになると着陸までもう少しである。滑走路が確認できた直後、着陸の衝撃が体に伝わる。

私を歓迎しようという素振りが全く見えない、曇天模様の香港であったが、現地の友人からは熱烈歓迎を受けることになっていた。香港に到着したこの日、自宅での夕食会に誘われていたのである。

A21のバスで市内へ。遮るものが何もなく、景色が次々と目の前に広がっていく二階最前列の特等席は、北京語を話す子供たちに占領されていた。私はその少し後ろの、進行方向に向かって右側の席に座る。しばらく走ると、遠くに香港島の高層ビル群が見える。九龍半島の市街地に入り、室外機が外に設置された古い建物が多くなってくると、またここに帰ってきたのだという感慨深い想いが強くなる。

中間道で降りて、宿泊先のホテルにチェックインした。しばらく休憩を取り、重慶大厦で両替をしたあと、尖東駅から西鉄線で友人宅のある美孚駅へ向かった。

駅の改札前で友人と数年ぶりの再会を果たす。留学中はお互いの言語を教えあったり、部屋に泊めてもらったり、とにかくお世話になった友人であり、香港に行く機会があれば度々顔を合わせていた。

彼が家族と住むマンションは駅からほど近い場所にあった。彼が以前住んでいた深水埗から引っ越した後は、彼の自宅を訪れるのは初めてであり、彼の二歳半になる息子とは初対面である。舌足らずの広東語が無性にかわいい。そして、父となった友人の姿を見て、否応なしに時の流れを痛感する。

異種の人間が集まり、かりそめの場所で常に次の場所を求めて変化し続けていく、そんな人々が築き上げる香港という街をノンフィクション作家の星野博美は「転がる香港に苔は生えない」という言葉で表現した。政治や経済、私にはそんな仰々しいことは語れないが、留学時代に過ごした街を歩き、留学中に接した人々と会話すると、ノスタルジックな感情が次の瞬間に全く新しいものに否定されるような、そんな感覚を抱いてしまう。千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔のむすまで、そんな安定性を求める日本人の私は、香港を訪れるたび様々な変化に戸惑いを感じ、そしてまたその変化に一観光客として新鮮な気持ちで向き合えるのかもしれない。そんな自分にとって唯一無二の場所が持てたことを幸せに思いたい。

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テーブルに並べられた香港のロースト料理は変わらぬ美味しさで、大好物の燒肉を何度も口に運んだ。

 

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地球の歩き方2003〜2004と2016〜2017。路線図もだいぶ変わったと思います)