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シンデレラボーイ(タイ篇2)

日本語が飛び交っていた。

ホテルの部屋から朝食会場に向かっている途中で国境をひょいと跨いでしまったのではないか、と思うほど多くの日本人宿泊客がビュッフェを前に目を輝かせている。日本の夏休みの時期に、日本語を話すスタッフを多く擁するここコスモスホテルが日本人であふれかえるのも至極当然のことかもしれない、と思う私も日本人である。ただ、一角に様々な麺料理がオーダーできるテーブルや点心のコーナーがあり、ここが中華圏であることを我々の嗅覚に、味覚に訴えかけていた。

九時半にホテルを出た時点で、台北滞在時間は残り六時間。ギリギリまで台北を満喫したい行動派の私と、旅客機に乗り遅れることを危惧する心配症の私、乗り遅れたら開き直って台中や高雄まで足を伸ばして台湾を堪能すればいいという超楽観的な私、様々な私が中華料理の円卓に座し、各々の意見をターンテーブルで回転させて至った結論は「十二時の鐘が鳴ったら空港へ向かおう」という、どこかの国の童話を彷彿とさせるものであった。

ホテルの目と鼻の先の台北駅でICカード「悠遊カード」を購入し、板南線に飛び乗る。国父紀念館駅で下車し、地上に出ると、孫文生誕100年を記念して建てられた国父紀念館が目に飛び込んできた。そして、彼方には台北101がその尖端を真夏の空に突き刺すように屹立していた。

三年前の八月、その日も暑い一日だった。初めて台北を訪れた私は、今回と同じホテルにチェックインした後、暮れゆく街を背に象山を登っていた。亜熱帯の気候と蝉の大合唱が私の足を重くする。ただ、振り返るたびに一つまた一つと明かりを灯す台北の街が私の背中を押しているようでもあった。そして、ライトアップの時を自身待ちわびているようにも思える巨大な黒い影、台北101が次第に低くなっていく。体中を汗が流れ、肩で息をしていた。階段は無慈悲にも上へ上へと続いている。その上昇志向に辟易しながらも歩き続ける。もう独りで歩けない時代の風が強すぎて、とX JAPANの歌詞のような状態になったところで、歩道が巨大な岩に囲まれた場所に出た。振り返るとそこには、闇に抗うようにその存在感を主張する台北101と光り輝く台北の街。胸の高鳴りを抑えられなかったのは、あの光の中をこれから数日かけて歩き回ることへの期待感からか、或いは単に運動後の動悸・息切れか。ともかく、伝統的な宝塔と竹の節をイメージして造られた台北101は私にとって台北の象徴となった。

そして今、彼方にそびえる台北101を見る。三年前、象山で見た姿とは異なり、真夏の太陽を従順に受けて輝き、そのガラス面の熱量さえも肌に感じられるようであった。

国父紀念館に隣接した中山公園では、現地の人が太極拳をしていた。その緩やかで流れるようなゆったりとした動きとは異なり、残り滞在時間を絶えず気にする私の足は台北101へと急ぐ。

台北101が次第にその存在感を増していくにつれ、私の体内から水分が失われていった。体中の汗腺が労働基準法違反を訴えようとしていた。気温は34度、35度と次第に高くなり、私が台北101へ向ける一眼レフのレンズの角度も次第に高くなっていく。そして、台北101に遥か高みから見下ろされる格好、私は台北101の近くまでたどり着いていた。台北101、下から見るか? 横から見るか? 欲張りな私はどちらからも見たい。時間の余裕があればもう一度、象山の上からも見たい。一眼レフで撮影した写真を後で見返したりもしたい。

台北101の隣、台北世界貿易中心ではコミケが行われているようで、周囲は混雑していた。「エロマンガ先生」と書かれたTシャツを着た青年とすれ違い、私は次の目的地へと急ぐ。台北101から信義路を挟んだ向かい側にある四四南村、開発から取り残された軍人村をリノベーションしたアートスペースで、流行に敏感な若者の注目を集めている場所らしい。足を踏み入れてみると、歴史的な建物がおしゃれなカフェや雑貨屋に再利用され、また、台湾の過去の暮らしをたどることのできる博物館が無料で開放されていた。新旧の文化が混じり合ったその空間にいて、古びた建物の向こう側にそびえる台北101を見ると、自分がどの時代にいるのか分からなくなってくる。

四四南村で時空の狭間に迷い込んだような心地がしても、時間は不可逆性をもって刻一刻と正午へと近づいていた。十一時過ぎ、残り一時間弱をどう過ごすか。あまり遠出はできない、と思いながら路線図を眺めてみると、台北駅へ戻る途中に「中正紀念堂」の文字を見つける。

台北101/世貿駅から中正紀念堂駅までの約10分間、電車内の冷房の心地よさを感じていたのも束の間、中正紀念堂駅に到着して芸文広場へ出ると再び灼熱の太陽が私の肌を射る。日差しを遮るものが何もない広場で、巨大な虫眼鏡で焼かれているかような暑さ。広場は果てしなく広く感じられ、中正紀念堂には歩けども歩けどもたどり着かず、蜃気楼かと見まごうほどである。

それでも何とか燃え尽きてしまう前に紀念堂の前にたどり着いた。基台の階段は蒋介石の享年と同じ89段、それを数える余裕すらなく、ただ登ることだけに注力する。紀念堂内部に入ると正面には巨大な蒋介石銅像が、熱中症一歩手前の私を労るような穏やかな笑みを浮かべて鎮座していた。衛兵交代式は少し前に終わっていたようで、今はただ二人の衛兵が微動だにせず銅像を護衛している。この衛兵のように多少の暑さにも動じない自分でいたい。

そして十二時の鐘が鳴った。実際はiPhoneでその時が来たことを確認した。私は桃園国際空港へ向かうことにした。台北駅で空港行きのMRTに乗り換える。タイミングが悪く快速列車は既に満席、仕方なく普通列車で向かうことにした。

灼熱の地から灼熱の地へ。バンコク行きの旅客機はほぼ定時に桃園国際空港を発った。時間を惜しんで駆けずり回った台湾を窓から眺める。区画整理された田畑や貯水池、のどかな景色が次々と後方へ押し流されていく。もうちょっと余裕を持って観光したかった、という名残惜しさは、ガラスの靴ではないが台北の街に残したままで、機上の私はただバンコクという未踏の地への期待感だけを抱いていた。

気が付けば窓の外には台湾海峡が広がっていた。

ドーン・ムアン国際空港からバンコク市内へ向かうタクシーの車内で、Google Mapsを眺めていた。バンコクのタクシーは質の悪い運転手が多く、乗車拒否、メーターの不使用、遠回りなどは日常茶飯事、通常より早くメーターが上がる「ターボメーター」を使用する違法タクシーもあるのだと地球の歩き方には書いてあった。バンコク滞在の初日で不快な目にあってしまっては、その旅全体の印象を左右しかねない。ただ、空港のカウンターで50バーツの手数料を追加して手配したタクシーのドライバーには怪しい素振りはなく、職務を忠実に全うしているようであった。Google Mapsに示されたルートを大きく外れることなく、ホテルへと向かっている。安堵と共に窓の外に目を向けると、辺りは既に闇に包まれていた。

不慣れな土地にたった一人で訪れるときに抱くのは、心細さや寂しさよりもむしろ恍惚感である。文化、食事、宗教、言語、異なる環境の中で突如襲ってくるかも知れないトラブルに対して、自分なら何とか乗り越えられるだろうという根拠のない自信。

バンコク市内に入り、渋滞に巻き込まれる、その状況すらも楽しんでいる自分がいた。サビまでの時間が長く焦らされる曲のほうがサビの開放感は強い。

ホテルの近くで下車、東南アジアの熱気と屋台の香ばしい匂いに包まれながら、スーツケースを引きずって狭い路地を進むと、「RIVA ARUN」の看板が目に入る。全25室のブティックホテルで、昨年八月にオープンしたばかりだからか、今年七月に発行された最新の地球の歩き方にも全く名前が掲載されていないが、ウェブ上の口コミでは、世界各国から賞賛の声を浴びていた。地下鉄の駅からは距離があるが、ワット・ポーや王宮は徒歩圏内、ワット・アルンへの渡し船が出る船着場も目と鼻の先で、寺院を巡るにはこれ以上ない立地である。

入口に近づくと私に気付いたスタッフがドアを開けた。チェックインを済ませ、部屋へ移動する。206号室が割り当てられていたが、階数表示は英国式のようで、日本で言う三階の一室へ案内される。そして、スタッフが丁寧丁寧丁寧に部屋の設備について説明を与えた。日本からFacebookのメッセージで依頼していた変圧器もきちんと用意されていた。ひとしきり説明を終えた後、スタッフがカーテンを開く。チャオプラヤ川を挟んで、その向こう側にワット・アルンが、三島由紀夫の小説のモデルとなったその寺院がライトアップを受けて輝いていた。中央の特大仏塔とそれを取り囲むように建つ四基の仏塔の、外面を彩る陶器の破片が鮮やかに燃え上がっていた。『豊饒の海(三)暁の寺』の序盤のワット・アルンの描写を思い返し、自分のこの今の感情はあそこまで精緻に伝えきれないという圧倒的なまでの無力感を抱いてしまう。

台北101台北の象徴となったように、この寺院もまた私にとってバンコクの象徴とも言うべき存在になるのだろうか。なるであろう。そんな予感を抱きながら、スタッフが部屋を去った後も、しばらくその姿を眺めていた。