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ロックフェス(カンボジア篇3)

暗闇の中、iPhoneの懐中電灯機能を頼りに歩く。視覚からの情報の不足を昨日の記憶が手助けする。参道の石組みはガタガタで――これは一方から力がかかってもそれを分散させる工夫らしいが――ところどころ水が溜まっていて、足を取られないように慎重に歩みを進める。朝五時半、私はアンコール・ワットの西参道を歩いていた。

私と同じくアンコール・ワットでの朝日鑑賞に期待を寄せる人々の話し声、息遣いが聞こえる。否、期待というと語弊があるかも知れない。恐らく誰もが朝日鑑賞にそぐわない日であることを感じている。ホテルを出た瞬間、湿り気を帯びた空気がまとわりつき、トゥクトゥクに乗って受ける風は東南アジアの熱気とは程遠い、少し肌寒さを感じるほどのものであった。風に戸惑う弱気な僕、通りすがるあの日の幻影。

聖池の前にたどり着く。群青色に染まる空にアンコール・ワットのシルエットが黒く浮かび上がる。空は次第に明るみを帯びてくるが、朝日が姿を見せる気配は全くない。世界各国からの観光客も落胆の色を隠せない。英語圏から来た者は恐らく「晴れていればなあ」と仮定法過去を使って嘆いていることであろう。嗚呼、失望を共有した観光客とアンコールビールを飲みながら残念会がしたい。否、ここはアサヒビールにすべきか。落胆する我々の隙間を一匹の猫が通り抜け、スカーフ売りの少女に悪戯をする。影絵職人が自らの作品を地面に並べ、制作過程を実演して見せる。そんな光景がはっきりと分かるぐらい、空は十分に明るくなっていた。私はこの旅で二度目のアンコール・ワットの内部に足を踏み入れることにする。

ホテルに戻り、朝食をとり、シャワーを浴びて、睡眠。日本との時差が僅か二時間のカンボジアで私の体内時計は狂っていた。午後一時にホテル前で再びトゥクトゥクのドライバーと合流、いよいよここから半日、アンコール遺跡群を巡る本格的な観光の始まりである。まずはアンコール・ワットの造営から半世紀後に築かれた王都、アンコール・トムへと向かう(以降、遺跡の名前が頻繁に登場するが、読者諸君にとっては新出単語で、どのような歴史があるのか気になるところであろう。しかし、アンコール遺跡には一つ一つに膨大な歴史があり、それを逐一語る余裕もなければ知識もない。向学心の塊である読者諸君には、めこん社『アンコール遺跡とカンボジアの歴史』を紹介するので、何の役にも立たない当ブログを読むのを今すぐやめて書店に走って欲しい)。

ドライバーがトゥクトゥクを止めた。橋の向こうに観世音菩薩の彫刻が施された大きな門が見える。橋の欄干にはヒンドゥー教の天地創生神話「乳海攪拌」を表現した像の数々、アンコール・トムの南大門である。何度かカメラのシャッターを押した後、再びトゥクトゥクに乗り込み、門をくぐる。一辺約3kmの城壁で囲まれたアンコール・トムは広く、中に幾つかの遺跡が点在している。その中心地、バイヨン寺院の前で降ろしてもらい、待ち合わせ場所を指定してドライバーと別れた。

顔、顔、顔。バイヨンを表現するのに最も適した漢字「顔」。バイヨンには穏やかな微笑みをたたえた観世音菩薩の四面塔が全部で54あるという。この遺跡には屋根がなく、観世音菩薩の優しい微笑みとは異なる、厳しい顔つきの日差しが容赦なく私を襲う。嗚呼、数時間前に貴方の姿を拝みたかった……。私と同様、周囲の観光客も汗を拭い、水を口にする。日本には「心頭を滅却すれば火もまた涼し」という言葉があるが、現代を生きる我々が頼るのは精神論ではなく文明の利器。帽子、日焼け止め、冷感スプレー、冷感タオル、冷感シャツ、とラスボスに立ち向かう勇者の装備でカンボジアを訪れたわけだが、灼熱の呪文にHPは削られるばかり。暑い。集団我慢大会の様相を呈してきたこの状況で結局は精神論に頼り、BUMP OF CHICKENの『スノースマイル』を口ずさむ。この暑さに負けず12世紀末に思いを馳せることができた者に観世音菩薩は微笑んでくれるのだ! 否、既に微笑んでいる!

私はバイヨンを後にした。象のテラスの前を通り過ぎ、屋台が数件並ぶ一角へと足を向けた。ホテルの朝食ビュッフェで貧乏性を遺憾なく発揮して過食した結果、午後3時前にしてようやく遅めのランチとなった。「アジノモト!」という謎の客引きに吸い寄せられ、フランスパンに豚肉と野菜を挟んだものと、ハングル文字が書かれたエナジードリンクを購入する。パンはそれなりに美味しく、エナジードリンクは海外のものがたいていそうであるように炭酸がなく甘ったるい。暫く休んだ後、クリアンとプラサット・スゥル・プラットという遺跡を見学してアンコール・トムを離れることにした。南大門と比べると地味な東側の勝利の門から出る際、ドライバーがトゥクトゥクを止めて説明をしてくれた。戦いに勝利した兵士たちがこの門を通って凱旋したとのこと。ここを出て行く私は暑さに完敗である。アンコール・トム、東京ドーム60個分と言われてもその広さを想像するのが難しく、またカンボジア行きを決めた3月初旬に摂氏30度超の気温を想像するのも難しい。

勝利の門を出てすぐのチャウ・サイ・テボーダとトマノンという二つの小さな遺跡を見学し、またその近くにあるピラミッド式寺院タ・ケウの急な階段を登りきった。その後、修復の手を下さないまま据え置かれてきたタ・プロームを訪れる。映画『トゥームレイダー』のロケ地としても有名なこの遺跡は神秘的な雰囲気が魅力で、巨木が意思を持って遺跡にまとわりついているような、自然の猛威を目の当たりにすることができた。日本国内でVIVA LA ROCK、JAPAN JAMといったロックフェスが開催されていたこの日、私は一人カンボジアで岩のほうのロックフェスを満喫していた。

この日のトリは、最上部からの眺めが素晴らしいプレ・ループという遺跡である。その最上部で落陽を待つ。周囲には私と同じく素晴らしい景色を見ようとその時を待ち構える各国からの観光客が。しかしこれはデジャヴか、西の空には雲がかかり、またしても太陽ははっきりとその姿を見せない。結局この日、朝日も夕日も私に微笑んではくれなかった。ただ、バイヨンの観世音菩薩像とトゥクトゥクのドライバーだけが私に微笑んでくれた。

シェムリアップのナイトスポット、パブ・ストリートでトゥクトゥクを降り、ドライバーと別れた。『トゥームレイダー』撮影時にアンジェリーナ・ジョリーが通っていたというバー「レッド・ピアノ」で、アンジェリーナ・ジョリーが良く注文していたことでその名がついたカクテル「トゥームレイダー」を注文する。このカクテル、10杯売れる度に次注文した人が無料になるようだが、ツキに見放された私にそんな幸運が舞い降りてくるわけがなく、ただ疲れた体にアルコールが心地よく染み渡っていくのであった。

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