日記なんかつけてみたりして

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くるりとのこと

それは、河合神社の片隅にひっそりと建っていた。「広さはわづかに方丈、高さは七尺がうち也。」と『方丈記』に記されている通り、わずか四畳半ほどで高さは約2m、茅葺き屋根の質素な小屋である。

京都で様々な災害を経験した『方丈記』の著者、鴨長明は、世の無常観を嘆き、出家して、郊外にある日野山に簡単に移動できる庵を作って住んだ。そのときの住まい、方丈庵を復元したものが河合神社に建てられていた。

方丈記』と言えば、「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。」という書き出しの名文句を覚えている人は多いであろう。あらゆるものは流転してやまない、というヘラクレイトスにも通ずるこの思想に、私は勝手に、時代とともに変遷していくくるりの音楽を重ねてしまっていた。フォークの『さよならストレンジャー』、オルタナロックの『図鑑』、テクノ・ダンスミュージックの『TEAM ROCK』、エレクトロニカの『THE WORLD IS MINE』……、くるりはアルバムを出すごとに新しい顔を我々に見せてくれた。そして、リリースされたばかりの『songline』を聴きながら、私はまたあのイベントのために京都へとやってきた。

河合神社は、女性守護としての信仰を集める社である。たくさんの女性が訪れる境内において、くるりの曲を脳内再生しながら一人粗末な庵を見つめる私に、外国人の女性が訝しげな視線を送っていた。

京都音楽博覧会の前日の出来事である。

 

 

2018年9月23日、京都音楽博覧会当日の京都の朝は晴れ渡っていて、青い空を背景に京都タワーが映える。二年前の京都音楽博覧会で経験した、滝行にも思える土砂降りの中の鑑賞という事態は避けられそうである。

人の流れに従い、京都タワーを背に、もはや通勤路と同じように馴染みとなった梅小路公園までの道を歩く。この日、各地からくるりのファンがこの場所に集うということが感慨深い。あまり信心深いタイプではないが、今後、ファンにとっての聖地とも言えるこの梅小路公園のある方角に向かって、一日五回の礼拝を自らに義務づけたほうがいいのではないかと思うほどである。

会場に到着し、つるや染物店ののれんをくぐって入場、適当な位置にシートを敷いて、開始時刻を待った。今年の夏に猛威を振るった太陽が、最後の力を振り絞って梅小路公園を照らしつけていた。

正午にさしかかろうというところで、ステージにくるりのメンバーが登場。開会宣言の後、「若い頃のくるりに似ている」というような紹介からトップバッターのnever young beachの演奏が始まる。

きっと昔、私がくるりを聴いていたのと同じように、今の若い子たちはnever young beachを聴いているのだろう、と思いながら、『どうでもいいけど』の軽快なメロディーに耳を傾けた。穏やかな風が吹いて、暑さを和らげていた。

 

 

私がくるりの音楽に出会ったのは、大学の軽音楽部でのことだった。『京都の大学生』というくるりの曲があるが、私はというと「名古屋の大学生」として青春を謳歌していた。大学入学時、軽音楽部かサッカー部かで悩みに悩み、アディショナルタイムで軽音楽部に入部を決めた私、もしあのときサッカー部を選んでいたら、くるりを聴くこともなく、毎年秋に京都を訪れることもなかったかもしれない。高校まではGLAYやB'z、Mr.Childrenといった、テレビで流れるアクセスしやすい音楽がすべてだった私に、周囲からどっと様々な音楽が流れ込んでくるようになる。

BUMP OF CHICKENASIAN KUNG-FU GENERATIONスーパーカー真心ブラザーズ中村一義GRAPEVINELOST IN TIMEELLEGARDENGOING UNDER GROUNDNUMBER GIRLOasisRed Hot Chili PeppersWeezerBlurRadioheadNIRVANA……

今振り返ってみると所謂「ロック」という狭いジャンルにとどまっている気がするが、当時は自分の音楽の趣味嗜好がとてつもなく広がっていくようなそんな錯覚を抱いていた。当時新しく耳にした数々のアーティスト、そのうちの一つがくるりだった。

ただそれだけなら、ここまでくるりに魅せられ、大学を卒業して何年も経った今、京都にまで遠征してくるりを見るなんてことなどなかったであろう。私がくるりにここまで傾倒してしまった大きな理由は、大学四年生の頃に部活の友人らとくるりコピーバンド「ぬるり」を結成したこと、そして、その年の学園祭でくるりが我々の大学にやってきたこと、である。卒業アルバムをめくると、若々しい岸田繁が虹色のシャツを着て演奏している姿が写っている。

当時コピーした曲を聴くと、学生食堂の地下のスタジオのかび臭いにおいや、ステージの上からの景色や、大学の体育館の二階席から初めてくるりを見たときのことなどを思い返してしまう。

大学を卒業し、就職して上京したときには、『東京』の歌い出し「東京の街に出て来ました あい変わらずわけの解らない事言ってます」という歌詞を反芻した。その曲のイントロの目まぐるしく変わるコード進行にも似たせわしない日々の中でも、くるりの音楽は常にそばにあって、上京して10年余りが経過した今も、あい変わらずわけの解らない事を言いながら、あい変わらずくるりの音楽を聴き続けている。

そんな私が初めて京都音楽博覧会を訪れたのは、このイベントがシルバーウィークと重なった2015年の秋のことであった。京都で、秋の心地よい気候の中で聴くくるりの音楽を体感してしまった私は、その後、毎年京都音楽博覧会を訪れることになる。

 

 

京都の空が暮れていく。自身、四度目の京都音楽博覧会も終盤を迎えようとしていた。

各アーティストの熱演の後、ヘッドライナーであるくるりが登場した。新しいアルバムを引っ提げてのステージは、アルバムのオープニングソングでもある『その線は水平線』から始まった。絶妙に歪んだギターのストロークから始まる、いい意味で肩の力が抜けた曲が、夕刻の京都の空に吸い込まれていく。その後、『ソングライン』、『Tokyo OP』と新しいアルバムからの曲が続く。この二曲に代表されるように、今回のアルバムはアウトロが長い曲やインストの曲もあり、楽器(特にエレキギター)の印象が強い。それは、ギタリストとしてどんな演奏をして観客を惹き付けるかということに苦心していた学生の頃に私を引き戻してくれるような気がする。

『特別な日』の歌い出し、その瞬間にステージの上の月が雲から姿を出し、特別な日の特別な瞬間を噛みしめる。

『どれくらいの』、この曲もアウトロが特徴的で、ピアノが主旋律を弾いていたかと思えば、徐々にテンポが上がり、エレキギターが入って、速弾きになる。さあここからというところでふっと音が途絶え、何もかもが儚い夢であったかのように静寂が訪れる。作曲家で芥川龍之介の息子でもある芥川也寸志は、著書『音楽の基礎』で、音楽とはまず静寂の美を認めることから始まり、音楽はそれへの対立から生まれると述べている。冒頭の僅か3ページ、「静寂は音楽の基礎である」と言い放つその箇所だけでも、私の音楽に対するとらえ方を変えてくれた名著である。演奏が終わった瞬間、梅小路公園が静寂に包まれたその瞬間に私は芥川也寸志の言葉を思い返していた。

最後はくるり三人のみで『宿はなし』を演奏し、京都音楽博覧会2018は幕を下ろした。

 

 

ここで話は再び私の学生時代に遡る。以下の文章は、当時の日記に、かなり大胆な補足を加えたものである。

 

2004年11月2日、お昼過ぎ、私は軽音楽部の後輩と大学内の駐車場で整理券の列に並んでいた。学園祭は全四日間のうちの三日目、くるりの学内ライブの日である。整理券配布開始時刻から遅れること一時間、出足の遅い我々が手にした整理券は体育館の二階の席であった。

せめてくるりのメンバーのご尊顔を近くで拝みたいと、控室のある研修センターの近くへ行ってみるものの、我々の前にはサッカーイタリア代表カテナチオを彷彿とさせる広告研究会の強固なディフェンスが立ちはだかる。もしサッカー部に入部していたらこの厚い壁も乗り越えて、メンバーとの接触を図れていたかもしれない、否、そもそもライブのことなど気にも留めずグラウンドでボールを追いかけていたかもしれない。とにかく、そのときの私は、ライブ前の接触を諦め、ライブが始まる時間をただただ待つことにしたのだった。

午後六時、開場の時刻を過ぎても体育館の外の列は動かないままである。日が落ちるとぐっと気温が低下し、冬が着実に近づいていることを実感させた。あい変わらず季節に敏感にいたい、などと思っていると少しずつ動き始める列、体育館が近づくにつれて胸が高鳴る。席は二階だったがステージにほど近く、全体を見渡しやすい場所だった。後輩と話しながら、開演を今か今かと待った。

結局、くるりのメンバーが舞台に登場したのは開演時刻を30分過ぎた頃であった。ステージが照らされ、刻まれる和音、『ワンダーフォーゲル』の演奏が始まると、そこはもはや、普段我々が目にする体育館ではなかった。ライブハウス武道館、もとい、ライブハウス体育館。虹色のシャツを着た岸田繁がギターを弾きながら歌い、佐藤征史がベースを弾く。リードギター大村達身で、ドラムは直前に脱退が発表されたクリストファー・マグワイアに代わって臺太郎が叩いていた。ずっと聴いてきた、ずっと弾いてきた音楽が、音圧となって体に直に響いてくる。音楽を生で体感することの醍醐味を味わいながら、私は演奏する側としての自分を振り返っていた。何度か立ってきたステージで、どこかに甘えはなかったか、もっといい演奏ができたのではないか。興奮と熱狂と猛省と、様々な感情が複雑なテンションコードの響きのようにまとわりつく。

その翌日、この舞台とは比べられないほど小さな教室で演奏することになっていた。演奏時間はくるりの6分の1、チケット代はくるりの10分の1、演奏技術は何分の1だろうか。音楽の楽しさを体現して演奏するくるりのメンバーの姿を見て、せめてその楽しさだけは同じくらい伝えられたらいいな、と思った。

初めてのくるりは、そんなことを考えながら母校の体育館の二階から見るくるりであった。

 

 

ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。京都音楽博覧会の翌日、私は『方丈記』の一節を思い返しながら、河川敷に腰を下ろしていた。目の前で、賀茂川と高野川が合流し、鴨川と名前を変え、流れていく。

学生時代から時を経て自身変わったことは数多くある。くるりの音楽だって変わり続ける。けれども、恐らく自分はこれからも変わらずくるりを聴き続けるのだろう。

彼らは次どんな変化球を投げてくるのか、そして、私はどうやってそれを受け止めるのか。今からまた来年の京都音楽博覧会が楽しみで仕方がない。

飛び石を渡る人々をぼんやりと眺めながら、30分弱並んで購入した出町ふたばの豆餅を昼食代わりに口にした。餅の風味と豆の食感が絶妙で、餡の甘さと適度な塩味が美味しかった。

国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。

 

決して雪が降ることのない香港への旅行の記事をこのように書き始めるのが正しいか分からないが、私は香港へと向かう旅客機の中で川端康成『雪国』を読んでいた。

過去、タイのバンコクへ向かう機内では、そこが舞台になった小説、三島由紀夫の『豊饒の海(三)暁の寺』を読み、ドイツのミュンヘンへ向かう機内では、またそこが舞台の小説、トーマス・マンの『神の剣』を読んだ。今回、旅情を掻き立てるような行為に及ばず、たまたま読みたかった本を機内に持ち込んだのは、「香港に行く」ということが私にとってもはや日常となっているからなのかもしれない。

一度目は高校の修学旅行、二度目は大学の交換留学、と香港渡航歴を数えてみると、今回で十一度目の香港であった。全く意識していなかったが、前回がちょうど十回目だったわけである。記念すべきその十回目には、現地の朋友を集めて添好運(深水埗本店)で貸し切りパーティーを行い、九龍灣國際展貿中心でソロコンサートぐらい行うべきだっただろうか。

実際は、カンボジアへ行く途中に乗り継ぎで十七時間滞在しただけであった。それでも、その限られた時間を無駄にせぬよう、夜の香港を駆け回った。今となっては無断撮影が禁じられている鰂魚涌の益昌大厦で撮影した写真を見るたびに、あの日マンションの谷間で感じた熱量、過去も背景も異なる異種の人間が集まって発展してきたこの街のエネルギーが迫ってくる感覚を思い返していた。

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それから一年余りが経過し、私は懲りもせずまた香港へ向かっている。今回は乗り継ぎではない、目的地としての香港。高ぶる感情を冷ますように、機内で川端康成『雪国』のページをめくる。前述の書き出しが有名な『雪国』であるが、それに続く部分、汽車のガラス窓に向側の女性の姿が映り込み、その女性の顔と外の夕景色が重なり合う描写が秀逸で、高度一万メートルの上空でノーベル文学賞の力をまざまざと感じてしまう。そして、自分も思わず窓の外に目をやってみるが、映り込む女性の姿など存在せず、雲、ひたすら雲である。

雲が途絶え、海と陸地が見える。高度を徐々に下げる旅客機、貨物船や橋が肉眼で確認できるようになると着陸までもう少しである。滑走路が確認できた直後、着陸の衝撃が体に伝わる。

私を歓迎しようという素振りが全く見えない、曇天模様の香港であったが、現地の友人からは熱烈歓迎を受けることになっていた。香港に到着したこの日、自宅での夕食会に誘われていたのである。

A21のバスで市内へ。遮るものが何もなく、景色が次々と目の前に広がっていく二階最前列の特等席は、北京語を話す子供たちに占領されていた。私はその少し後ろの、進行方向に向かって右側の席に座る。しばらく走ると、遠くに香港島の高層ビル群が見える。九龍半島の市街地に入り、室外機が外に設置された古い建物が多くなってくると、またここに帰ってきたのだという感慨深い想いが強くなる。

中間道で降りて、宿泊先のホテルにチェックインした。しばらく休憩を取り、重慶大厦で両替をしたあと、尖東駅から西鉄線で友人宅のある美孚駅へ向かった。

駅の改札前で友人と数年ぶりの再会を果たす。留学中はお互いの言語を教えあったり、部屋に泊めてもらったり、とにかくお世話になった友人であり、香港に行く機会があれば度々顔を合わせていた。

彼が家族と住むマンションは駅からほど近い場所にあった。彼が以前住んでいた深水埗から引っ越した後は、彼の自宅を訪れるのは初めてであり、彼の二歳半になる息子とは初対面である。舌足らずの広東語が無性にかわいい。そして、父となった友人の姿を見て、否応なしに時の流れを痛感する。

異種の人間が集まり、かりそめの場所で常に次の場所を求めて変化し続けていく、そんな人々が築き上げる香港という街をノンフィクション作家の星野博美は「転がる香港に苔は生えない」という言葉で表現した。政治や経済、私にはそんな仰々しいことは語れないが、留学時代に過ごした街を歩き、留学中に接した人々と会話すると、ノスタルジックな感情が次の瞬間に全く新しいものに否定されるような、そんな感覚を抱いてしまう。千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔のむすまで、そんな安定性を求める日本人の私は、香港を訪れるたび様々な変化に戸惑いを感じ、そしてまたその変化に一観光客として新鮮な気持ちで向き合えるのかもしれない。そんな自分にとって唯一無二の場所が持てたことを幸せに思いたい。

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テーブルに並べられた香港のロースト料理は変わらぬ美味しさで、大好物の燒肉を何度も口に運んだ。

 

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地球の歩き方2003〜2004と2016〜2017。路線図もだいぶ変わったと思います)

ミュンヘンは輝いていた(ドイツ篇1)

――ミュンヘンは輝いていた。この首都の晴れがましい広場や白い柱堂、昔ごのみの記念碑やバロック風の寺院、ほとばしる噴水や宮殿や遊園などの上には、青絹の空が照り渡りながらひろがっているし、そのひろやかな、明るい、緑で囲まれた、よく整った遠景は、美しい六月はじめのひるもやの中に横たわっている。

そんな文章で始まるトーマス・マンの『神の剣』を機内で読んでいた。トーマス・マンの文章に触れるのは約10年ぶりで(正確には翻訳者の文章ということになろうがそれはともかく)当時の私は彼の代表作『魔の山』に丸腰で挑み、上巻途中であえなく遭難してしまった。新潮文庫で上下巻合わせて1,500ページを超える超大作、登頂への道のりは厳しかった。

『神の剣』は短編で、ミュンヘンの初夏の風景と、人々が抱く芸術観に対するトーマス・マンの鋭い批判を味わううちに、あっという間に読み終えてしまう。約12時間のフライトには『魔の山』ほどの読み応えが必要なのかもしれなかった。機内食を食べ、ガイドブックを読み、眠り、また起きてガイドブックを読み、トイレに立ち、機内食を食べる。

そうこうしているうちに、現地時間16時半、ルフトハンザ航空のエアバスA350-900は定刻より少し早くミュンヘンに無事着した。

長旅の疲れと時差ボケもあいまって、自分が今ドイツにいるという現実感が薄い。思わず先の平昌五輪でメダリストが口にしていた言葉をひとりごちる。

「まだ実感が湧きません」

実際に金メダルを首にかければ、否、金色に輝くあの液体を喉に流し込めば実感が湧いてくるのだろうか。とにかく私は空港の建物を出て、空を仰いだ。ミュンヘンは輝いていた、そんな文章とは程遠く、冬の名残の3月の空は薄い灰色の雲で覆われている。それでも、氷点下を観測していた数日前のミュンヘンと比べるとだいぶ過ごしやすくなっているはずで、季節は着実に春へと向かっているようであった。

空港からミュンヘン中央駅までは電車で50分弱である。切符を買い、時刻を打刻して、改札を通ることなく電車に乗り込む。車窓に映るのはのどかな景色。

ミュンヘン中央駅の目と鼻の先、Eden Hotel Wolffにチェックインした時点で、私の体は悲鳴をあげていた。現地時間18時、日本時間深夜2時。本来なら毛布にくるまってシュールな夢でも見ている時間帯である。呪うべきは「ホテルにチェックインしたらマリエン広場まで歩いて早速ミュンヘンのビールをいただこう♪」という予定を立てていた過去の自分か、不甲斐ない今の自分か。脳内ToshIが「もう独りで歩けない」と歌い出すほど疲弊した私は、中央駅構内のYORMA'Sという食料品店でサンドイッチと飲み物を買い、ホテルに戻った。

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帰省のはなし

旅客機は島の海岸線沿いを飛行していた。窓の外を見ると、けたたましい音で回転するプロペラの向こうに、海岸線に打ち寄せる波、区画整理された田畑が見える。徐々に高度を下げる旅客機、このまま田畑に突っ込むのではないかというところで突如アスファルトの地面が現れ、ほどなく着陸の衝撃が体に伝わる。

2017年12月31日、私は約一年ぶりに故郷、沖永良部島の大地を踏んだ。

空港には「祝 NHK紅白歌合戦初出場 竹原ピストルさん 三浦大知さん」と書かれた横断幕が掲げられていた。三浦大知の両親が沖永良部出身で、竹原ピストルはよく分からないがとにかく島にゆかりのある人物らしい。島が輩出した人物ではないにもかかわらず、誇らしげに主張するその行為。自分が大した人物でもないのに著名人との人脈を自慢しているようで、気温20度弱の中にあって薄ら寒さを感じてしまう。その事実が自分と島との距離感を表しているようにも思える。

生まれてから高校を卒業するまでの18年間、島で暮らした。コンビニがない、マクドナルドがない、ショッピングモールがない、まるで吉幾三の『俺ら東京さ行ぐだ』の歌詞のような島を一刻も早く出たかった。島を離れてから、島での生活をうらやむ声に接するたび、島での退屈だった18年間が羨望の言葉を見事にかき消した。

いじめられていたとか人間関係がこじれていたとかいうことはない。ただ、良くも悪くも牧歌的な空気の中にいて、特に志望校を目指して勉学に励んでいた高校三年生の時分は周囲とのギャップを感じていた。

「将来、島に戻る気はないの?」約10年前、新入社員の私に会社の先輩が訊いた。帰るつもりはないです、と答える私に先輩は「島で過ごした18年間と同じ時間を島外で過ごしたらまた考え方も変わるかもね」と言った。

そして2018年で36歳、年男となる私は中学校の同級生との年の祝いのためにこうして島に戻ってきた。

年が明けて1月2日、よそよそしい雰囲気にならないかと多少の不安を抱えながら、待ち合わせの神社に向かった。その不安は杞憂だった。同級生と顔を合わせ、一言二言かわすだけで当時に戻っていた。距離も時間も遠く隔たった島での暮らし、私が勝手に築いていた分厚い壁は温暖な気候できれいに溶け去ってしまったかのようだった。同級生との久々の再会を喜んでいる自分がいた。

お祓い、記念撮影をして、母校の中学校へとバスで移動する。旧校舎は取り壊され、当時の面影はほとんどなかったが、どこに何があったと周囲と答え合わせをして当時を再現する時間もまた楽しい。

母校で再び記念撮影をした時点で、祝の宴まではまだ時間があった。だいぶ余裕をもって時間が設定されていたようだった。急遽、観光スポットの一つであるウジジ浜へと向かうことになった。波に浸食されてできた奇岩が並ぶその浜には初日の出を見るために訪れたこともある。この日は晴れ渡っていて、空と海の青が目にまぶしかった。

再びバスに乗り、会場へと移動する。

当時を振り返るスライドショー、島の伝統芸能であるエイサー、当時の懐かしい話などを肴に、島の特産である焼酎を飲む。遠く隔たったと思っていた当時が今目の前にあった。確かに私はここで18年間暮らしていたのだった。うろ覚えで島の民謡を踊り、フォークダンスでは青春が蘇ると同時に時にパートナーの指輪の感触が生々しくもあり、そしてまたうろ覚えで中学校の校歌を歌った。楽しかった。

「将来、島に戻る気はないの?」滞在中、会社の先輩と同じことを、同級生が、そして母親が私に問う。「帰るつもりはないよ」そう答える私は以前ほどの断定的な口調だったのかどうか。

1月4日、帰京の日に再び空港に掲げられている横断幕を見る。「祝 NHK紅白歌合戦初出場 竹原ピストルさん 三浦大知さん」。紅白歌合戦、音を重ね演出を派手にして盛り上げようとする中で竹原ピストルのギター一本での弾き語りは引き立っていたし、三浦大知の一糸乱れぬダンスと圧倒的な歌唱力には素直に感動した。その二人が故郷と関わりがあることが、少し誇らしくも思えた。

検索ちゃん(タイ篇5)

タイ旅行記五日目。この日は特に書くことなどないだろうと思っていた。というのもLCCの深夜便で現地を発ち、早朝に帰国するだけの日だからである。それでもこうして書いているからには何か旅の終わりに重大な出来事があったのか、はたまた特になかったけれど無理やり捻りだして書いているのか。とにかく、狭い機内で私が目を覚ました瞬間から語ることにしよう。

空がうっすら明るくなっている時間帯だった。それなりに眠れたという感覚はあったが、疲労感は抜けていなかった。宿屋に泊まって全回復するドラクエの勇者になりたい、と思った瞬間、買ったばかりのニンテンドー3DSドラクエ11を持ってきていたことを思い出す。結局、旅が充実していたため電源を入れることがなかった。世界を救う気が全くないダメ勇者である。せめて到着までの数時間、冒険を進めようと思って電源を入れたその瞬間だった、隣に座っていたタイ人カップルの男性に声をかけられた。どうやら機内食を間違えて余分に注文していたようで、もらってくれないか、と言うのである。LCC機内食は有料のため、日本に着いてから食べればいいと注文していなかった私はありがたく頂戴することにした。

食後、隣に座るその男性と会話をした。日本に旅行で訪れ、東京と大阪を観光するのだという。秋葉原で買い物をするという男性にパソコンのパーツがどこで買えるのか訊かれたが、あまり詳しくない私は全く力になれず、ネットが使えれば……と臍を嚙む思いであった。また、お勧めの和食レストランを訊かれた。ジャパニーズフードというと、料亭のような場所を想像してしまい、果たして自分がお勧めできる場所はあるのだろうか、とこれまた途方に暮れてしまう。オフラインの私はかくも弱い存在だったのか、結局着陸後に「何か困ったことがあったら何でも訊いてくれ」とLINEのIDを教えて別れた。

都内へ向かうスカイライナーの車中、スマホをいじる。「和食」というと身構えてしまうけれど、ラーメンや焼肉も立派な日本食なのだ、と思い至る。LINE IDを一方的に伝えた状態であるので、連絡が来たら自分のお気に入りのお店を紹介してあげよう。私がタイで充実した時間を過ごしたように、ここ日本で充実した時間を過ごしてもらいたい。その一助となれば幸いである。そう思いながら、帰宅した私は、泥のように眠った。

秋葉原ヨドバシカメラにいる。このカードが欲しいのだが、新品ではなく、中古が欲しい」という内容のメッセージが入ったのは夕方である。中古のPCパーツなど門外漢であるが、今の私にはウェブが整った環境という巨大な後ろ盾があった。秋葉原で中古PCパーツが購入できる店舗を探し、地図付きで情報を送る。レストランの情報も伝えた。

使命を果たした私に迫りくる現実。私の非日常は彼らの非日常につながっていた。どうか無事カードが見つかりますように。

往生際悪く、非日常を楽しもうとする私はニンテンドー3DSの電源を入れる。冒険の旅は始まったばかりである。

タイミング(タイ篇4)

朝起きて、顔を洗い、歯を磨き、トイレに行き、そんな毎朝のルーティーンに「カーテンを開いて対岸のワット・アルンを眺める」が加わるとしたら、どんなに素晴らしいことだろう、と思いながら昨日と同様にその行為を行う。二回目の今朝が最後、「ルーティーン」と呼ぶにはあまりにもその機会が少なかった。短すぎたバンコクでの時間、本日23:45の便で日本へ帰国することになっていた。

ワット・アルンは昨日と同様、好天の下、存在感を主張していた。壁面の白、それが実は細かい陶片が緻密に組み合わされて築かれていることは、近づいて初めて気付くことである。悠長に対岸を眺めていたい、という思いと、残された時間でバンコクを満喫しなければ、という思いが交錯し、結局午前中のうちにホテルをチェックアウト、灼熱の太陽の下へと踏み出す。

まず向かったのは、昨日多くの弔問客のため入ることができなかった王宮/ワット・プラケオである。さすがに月曜日ともなると、つまっていたケチャップがドバドバと、とまではいかなかった。入口で係員による服装チェックが行われていた。王室関係の施設には肌を露出する服装(ノースリーブや短パン、ミニスカート)では入れないのだ。それでも割とスムーズに、校門前で待ち構える体育教師のような係員のチェックを通り抜け、校内に、否、構内に入る。昔も今も私は風紀を乱すことがない優等生タイプである。

タイで最も格式が高いと言われる王室寺院、ワット・プラケオ。チケットを購入し中へ入ると、仙人の像に迎えられる。テラス上には豪壮な建築群が並び、回廊にはインドの叙事詩ラーマーヤナ』をタイ風に翻案した『ラーマキエン』が描かれていた。アンコール・ワットの模型もあり、ゴールデンウィークに訪れたシェムリアップでの出来事を思い返す。汗をぬぐいながら見て回ったアンコール・ワット、あの時と同じような肌にまとわりつくような暑さの中、ワット・プラケオの構内を歩き回る。ワット・プラケオの本堂内は撮影禁止で、エメラルド仏が安置されている。その仏像を目に焼き付けた後、ワット・プラケオを後にした。

トゥクトゥクを捕まえて、ワット・ベーンチャマボピットへ向かった。この王室寺院は「大理石寺院」とも呼ばれており、屋根瓦を除きほとんどの建材に大理石が使用されているという。三島由紀夫暁の寺』の最初に登場する寺院であり、その緻密な描写に圧倒されたのは先の記事で述べた通りである。

トゥクトゥクを降り、門をくぐると、建物の壁面の大理石の白に、屋根の橙色が対比を見せ、目に鮮やかに飛び込んできた。本堂内、黄金に輝く仏像を拝んだ後、回廊に並ぶさまざまな仏像を見て回る。『暁の寺』では摂政の参詣の場面が登場する。その場所に今自分がいるのだという感慨深い思いを抱く。

そろそろここを去ろうかと思っていた矢先、私の目は寺院の近くでアイスクリームを売る男性にひきつけられた。チョコレートのアイスバーを購入し、口に含むと冷たさと甘さが体に染み入る。

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再びトゥクトゥクでホテル近くへと戻り、カフェでアップルソーダとパクチーの効いた米の麺を食べる。『TAKE ME HOME, COUNTRY ROADS』が流れる店内で、日本に帰りたくないという想いを抱きながら麺をすすった。その後『IMAGINE』へと曲が変わる。翌々日から仕事であることが私には想像できない。

一度ホテルに戻る。半日の観光ですでに汗だくの私。ウェブ上の口コミに書いてあったので恐る恐る訊いてみると、チェックアウト後に空いている部屋のシャワーを使わせてもらえることになった。他にこんなサービスを提供してくれるホテルなんてあるのだろうか。深夜便で帰る私にとって、事前にシャワーを浴びているのといないのとでは機内での快適度がだいぶ違う。Riva Arun Bangkok、比較的新しいホテルだからか最新版の地球の歩き方にも掲載されていないが、ウェブ上の口コミで世界各国から賞賛の声が届くのも頷ける。

シャワーを浴び、荷物を受け取った私は、このホテルに対して目いっぱいのコップンカップの気持ちを抱き、ホテルに手配してもらったタクシーに乗り込んだ。旅の最終目的地はプロンポン駅。バンコク在住の友人と夕食をとることになっていた。

タクシーの運転手はかなり高齢の男性だった。車内ではThe Beatles『Get Back』が流れ、Paulが「帰ってこいよ 元いた場所に」と歌っていた。帰国の時間が迫っていた。

車窓から見える景色、バンコクの古い町並みはいつの間にか高層ビルに変わっていた。急に強い雨が車体を打ち付ける。スコール。そうだ、バンコクは雨季なのだ。あまりに好天に恵まれていたため、そのことを忘れていた。タクシーに乗っているときにスコールに遭うというのはなんてタイミングに恵まれた旅であろう。そもそも、数年もの間工事中だったワット・アルンの足場が外されたのもこの八月に入ってからである。更には、上野の国立博物館でタイの特別展を見に行った際、チケット売り場の前で見知らぬおじさんに声をかけられて無料でチケットをもらった。あの瞬間から、タイが両手を広げて私を歓迎していたかも知れぬ。

目的地へと到着し、タクシーを降りたその時、スコールはやんでいた。

久々に会う大学時代の友人とステーキを食べる。同じ時期にタイを訪れていた友人の知り合いも交えてテーブルを囲む。美味しい牛肉を堪能したが、私はまだタイという国を堪能し尽していない気がする。アユタヤ、ワット・パークナムに、チャイナタウン、気になっていたが行けなかった場所がたくさんある。いつかまた私はここを訪れなければならない。空港へ向かうタクシーの車中、名残惜しさとともに使命感のようなものを感じていた。

対岸の古寺(タイ篇3)

――バンコックは雨季だった。空気はいつも軽い雨滴を含んでいた。強い日ざしの中にも、しばしば雨滴が舞っていた。

三島由紀夫豊饒の海(三)暁の寺』の書き出しを、ちょうど雨季のバンコクを訪れた自分の境遇と重ねたかったけれど、幸か不幸かこの日は雨の降る気配は全くなく、乾いた空気の中を汗だくになりながら歩き回った。折り畳み傘とナイロンジャケットを日本から持ってきていたが、海外から招集されたのに出場機会をもらえないサッカー日本代表の選手のように、活躍の場を奪われベンチ、否、スーツケースの中でくすぶっていた。

今、私の手元には、バンコクを代表する寺院の入場券の半券が三枚、そして、それに混じって手書きのメモが一枚ある。灼熱の太陽の下、一枚そしてまた一枚と手に入れたそれらの紙には汗のにおいすらもこびりついているような気がする。この日体験したことが凝縮されているこれら一枚一枚について、私は語ろうと思う。

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睡眠時でも一瞬一瞬が惜しいという感覚がどこかにあるのか、目覚ましより先に眼を覚ましてしまった。カーテンを開くと、チャオプラヤ川の黄土色にワット・アルンの白が映え、寝ぼけ眼に眩しい。

朝食をとりにホテルのルーフトップレストラン「Above Riva」へ向かい、ワット・アルンがよく見える席に座る。パンやサラダ、ナッツ類、ソフトドリンクはビュッフェ、メインディッシュはオーダーという折衷型の朝食だった。因みにメインディッシュをいくら頼んでも同料金(300B少々、1,000円程度)で、精算はその場でもチェックアウト時でも可。メニューにタイ料理が少ないのが気になったが、街中に出ればいくらでも食べられるだろう。私はメインディッシュにエッグベネディクトをオーダーし、ワット・アルンを眺めながら食べる。これだけで既にバンコクを十分堪能していると思えるぐらい、贅沢な時間である。

東京国立博物館、タイの特別展で見た内容を思い返し、それを今日これから目の当たりにするのだと興奮した気持ちでホテルを出た。

8月8日の東京も暑く、灼熱の太陽が目の前に続くアスファルトの道を照らしていた。鶯谷の駅を出た私は東京国立博物館へ向かっていた。この時期に偶然、日タイ修好130周年記念特別展が開催されていたのである。30度を超える気温の中、蝉の声を受けながら歩いた道、それが今、ワット・ポーへと続くこの道にそのまま繋がっているかのような感覚を抱く。蝉の声はトゥクトゥクの客引きの声にかわっていたが、その裏に潜む「生」への渇望は共通しているようにも思える。

ホテルから徒歩約10分、ワット・ポーは巨大な寝釈迦とマッサージの総本山で有名な王室寺院である。100Bを支払い、飲料水引換券付きの入場券を受け取る。礼拝堂の空間を目いっぱい使って横たわる寝釈迦仏の、ちょうど地面についている肘部から礼拝堂に入ると、柱の隙間から寝釈迦仏の巨大な顔が現れ、その迫力に圧倒される。上半身から下半身へと移動、足の裏の螺鈿細工を拝んだ後は背面に回り、今度は足元から頭頂部へと、ちょうどその全長46mの大仏像を一周するような形で順路が組まれていた。この寝姿、釈迦が入滅したときの様子を表しているようで、休日にベッドに横になりテレビを見る私の姿とは似て非なるものである。寝釈迦仏の手元に黄金のリモコンなど、ない。

せっかくなので寝釈迦仏の周囲を二周し、礼拝堂から出て、境内の仏塔や回廊を見学した後、王宮へ徒歩で向かう。

王宮の周囲は喪服姿の弔問者で溢れかえっていた。ラーマ9世が昨年10月にご逝去されたのと関係があるのだろうか(後で知ったことだが、ご逝去から10ヶ月が経過した今でも休日の度に全国から弔問者が集まるという)。王宮入口はつまったケチャップのように人の動きがほとんどなく、私は王宮訪問を諦めることにした。

そこで私に襲い掛かってきたのが尿意である。周囲を見渡せどトイレはない。王宮内にはさすがにあるだろうが、いったいどれだけ待てば中に入れるのだろう。警備員にトイレの場所を訊いてみるがなかなか英語が通じず、何人目かでようやく東の方角を指し示された。果たしてちゃんと通じていたのか分からないが、私にできることはただその方角へ進むだけであった。

歩いた。もはや周囲には観光客の姿はなく、ただ喪服姿の弔問者の中を私は歩いた。法事の招待状「平服でお越しください」に対し、私服で行ってしまったような居心地の悪さと尿意を抱えながら、ひたすら歩いた。トイレはなかなか見つからず、代わりにセブン・イレブンが目に入る。期待と共に中に入ってみるが、日本のように誰もが自由に使えるトイレなどなかった。仕方なく外に出ると、トゥクトゥクの運転手が声をかけてくる。英語でトイレの場所を訊いてみたが、ここでも通じない。仕方なく、鞄から地球の歩き方を取り出し、「旅の単語帳1001」のページの「トイレ ホーン・ナーム ห้องน้ำ」を指差すと、運転手は分かったという顔でセブン・イレブンの裏の方を指し示す。

あった。

かくして私のトイレクエストは無事終了。私の興味関心はトイレからバンコクの寺院へと戻り、トイレの場所を教えてくれた運転手のトゥクトゥクがこのタイ旅行初めてのトゥクトゥク体験となった。

トゥクトゥクに乗って頬に受ける風はどうしてかくも爽やかなのか。カンボジアで遺跡巡りをしていたことを思い返しながら、私はラーマ1世によって建立された王宮寺院、ワット・スタットへと向かった。東京国立博物館で開催されているタイ特別展の目玉、ラーマ2世王作の大扉は元はこの寺院の正面を飾っていたものである。1959年の火災で一部焼失した後、バンコク国立博物館に移された。2013 年から日タイで協力し保存修理作業を進め、この度、日本で展示されることになったとのことである。

ワット・スタットのチケット売り場は閉まっていた。もしかして入れないのか、と不安を抱えながら敷地内に恐る恐る入ってみると、どうやら建物の改装工事中のため入場料を取っていないようである。ただ、礼拝堂の中には入ることができた。中には巨大な仏像が鎮座しており、その前には礼拝を行う人々。建物の内側に折り返された巨大な扉は、東京国立博物館で見たものと同様、草花が重層的に表現され豪華絢爛たる壮大さであった。上野にあるあの大扉が、以前はここにあったのだ、という感慨深い想いを抱きながらワット・スタットを出る。

次の目的地へ向かおうとしたところで中年男性に声をかけられた。小綺麗な恰好をしたその男性は、ワット・スタットの向かい側にあるバンコク・シティ・センターを指さし「私はあそこの役員だ」と言う。次の目的地を訊かれ「ワット・スラケート」と答えると「あそこは午後三時まで儀式のため入れない。それまで運河を巡るツアーに参加してはどうか」と言う。ここに来る途中、王宮周辺の多くの弔問客を目にしていた私は、素直にその男性の言葉に耳を傾ける。男性が白紙を取り出し、そのツアーについて説明をしながら書き込んでくれた。私が宿泊しているホテル近くの船着場から船でワット・アルンを訪れ、その後運河を巡る1時間のツアー。船着場のツアーの主催者に「How much?」と値段を訊くと外国人価格の3,000Bを取られるので、タイ語で「TAORAI?」と訊け、そうすれば1,800Bでツアーに参加できる、とまで親切丁寧にアドバイスしてくれる。ツアーに参加する気はないが、ワット・アルンには訪れようと思っていたので、ワット・スラケートに入れないのであれば先にそこを訪れよう、そう思ったところで折よく通りかかるトゥクトゥク。そして、30Bという破格の値段で、私は船着場へと移動することになる。

船着場に到着した私に男性が声をかけてくる。ツアーの勧誘らしいが「自分はワット・アルンだけでいいんだ」と主張すると「じゃ、隣の船着場だな」と言われ、移動する。すると、ここまで乗せてくれたトゥクトゥクの運転手がしつこく私に「ツアーに参加しないのか?」と問いかけてくる。

そこでようやく、騙されかけていた自分に気づいた。この問題、進研ゼミでやったやつだ! もとい、この状況、地球の歩き方に載ってたやつだ!

街中で声をかけられ、行き先を告げると「そこは今日は休みだ」と言われ、宝石商を紹介される。「ガバメントのショップ」「政府公認免税特売の最終日」など嘘を並べて旅行者をその気にさせる。宝石店に行けば店員が「ここで宝石を買い日本で売ると利益になる」などと言葉巧みに誘うのである。

王宮周辺でたくさんの弔問客を見たことに加え、応用編だったことで、まんまと騙されてしまいそうになっていた。声をかけてきた自称役員とトゥクトゥクの運転手と船着場の男性は共謀者だったのだ。気を引き締めていれば騙されることはないだろう、そんなことは対岸の火事だと思っていたが、煙が川を越えて私の鼻をかすめていく。破格の値段だったとはいえ、交通費と時間を無駄にしてしまった。

このまま対岸のワット・アルンへと向かってもよかったのだが、午前中は川のこちら側を巡る予定を立てていたので、再びトゥクトゥクを拾い、ワット・スラケートへ移動。入れないなんてことはないはずだ、との想いで到着してみると、ワット・スラケートは開放されていたのである。20Bを支払い、入場券を受け取った。

ワット・スラケート、小高い丘の上に建つ黄金の大仏塔で有名な王室寺院。市街地を一望できる尖頭部までは延々と続く階段を上らなければならない。見ざる言わざる聞かざるの歓迎を受け、私は一歩を踏み出す。

前日、台北で訪れた中正紀念堂前の階段は蒋介石の享年と同じ89段、ここワット・スラケートは約4倍の344段である。上るにつれ、バンコクの街が低くなっていく。古い寺院の遥か向こうにはオフィスビルが立ち並び、キューブがズレたような独特の外観を持つマハーナコーンの姿も見える。そして中央に黄金の仏塔が建つ頂上のテラスに出た。市街地を見渡してみると、建物の壁面にラーマ9世の巨大な写真が掲げられており、「王国」としてのタイの姿を垣間見ることができた。王室を敬うことはタイ人にとって当然のことであり、8:00と18:00の1日2回、公共の場所では国歌が流され、その間は直立不動の姿勢を保たなければならないのだ。

太陽は空の高い位置から私を照らしていた。お昼時、ワット・スラケートを出た私はトゥクトゥクをつかまえてカオサン通りへ移動する。外国人バックパッカー向け安宿街として発展したカオサン通り沿いは今、レストランやショップが立ち並んでいる。入り口にはバーガーキング、少し通りを進むとドナルドが手を合わせて挨拶をしているマクドナルド、好きなファーストフード店に心を惹かれながらも、せっかくバンコクに来たのだからと、通りで売られている食用サソリを食す、ことまではせずに、一軒のレストランでパッタイを頼む。あまりの暑さに食欲がなく、アップルソーダの炭酸だけが体に染み渡っていく心地がする。

食後、トゥクトゥクをつかまえて船着場へと向かった。船賃4Bを支払い、デッキに立つとチャオプラヤ川を挟んで対岸にワット・アルンが見える。三島由紀夫の小説の舞台となったその寺院がまるで私を手招きしているかのように、目の前にはちょうど出航間際の船が待ち構えていた。船に揺られながら、次第に存在感を増していく仏塔を見つめる。目の前を何艘もの船が通り過ぎていく。ふと後方に目をやると、私が宿泊しているホテルのレストラン、そして私の部屋までもが見える。

対岸に到着し、ワット・アルンへと歩みを進める。目に入るラーマ9世の記念碑、そしてその向こうにワット・アルンの大仏塔が憎々しいほど晴れ渡った空を背景に高くそびえていた。50Bで入場券を購入し中に入る。仏塔の表面には無数の陶片が埋め込まれており、日差しを受けて輝いていた。台座から尖頭まで続くそのきめ細かな装飾に気が遠くなるようである。

昭和四十二年にインド政府の招待によりインドを訪れ、帰途、ラオスとタイを訪れた三島由紀夫、一体ここで何を感じ、何故ここを作品の舞台に選んだのだろう。 

再び船に乗ってホテルへと戻る。ホテルの部屋から、先ほど汗だくになりながら歩き回ったワット・アルンが見える。チャオプラヤ川を挟んだ対岸までの距離が、近いようにも遠いようにも思える。私がこの寺院の本当の魅力を理解するにはまだ知識や教養に欠けているであろう。しかし、三島の心を揺さぶったこの寺院の魅力の片鱗を味わえたような気がする。

夕日はワット・アルンの右側を、水面を橙色に染めながらゆっくりと沈んでいく。青空を背景に純白に輝いていたワット・アルンは今や黒い影となっている。しかしそれが再び輝きだす瞬間、ライトアップの時を冷房の効いた部屋でじっと待っていた。