日記なんかつけてみたりして

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国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。

 

決して雪が降ることのない香港への旅行の記事をこのように書き始めるのが正しいか分からないが、私は香港へと向かう旅客機の中で川端康成『雪国』を読んでいた。

過去、タイのバンコクへ向かう機内では、そこが舞台になった小説、三島由紀夫の『豊饒の海(三)暁の寺』を読み、ドイツのミュンヘンへ向かう機内では、またそこが舞台の小説、トーマス・マンの『神の剣』を読んだ。今回、旅情を掻き立てるような行為に及ばず、たまたま読みたかった本を機内に持ち込んだのは、「香港に行く」ということが私にとってもはや日常となっているからなのかもしれない。

一度目は高校の修学旅行、二度目は大学の交換留学、と香港渡航歴を数えてみると、今回で十一度目の香港であった。全く意識していなかったが、前回がちょうど十回目だったわけである。記念すべきその十回目には、現地の朋友を集めて添好運(深水埗本店)で貸し切りパーティーを行い、九龍灣國際展貿中心でソロコンサートぐらい行うべきだっただろうか。

実際は、カンボジアへ行く途中に乗り継ぎで十七時間滞在しただけであった。それでも、その限られた時間を無駄にせぬよう、夜の香港を駆け回った。今となっては無断撮影が禁じられている鰂魚涌の益昌大厦で撮影した写真を見るたびに、あの日マンションの谷間で感じた熱量、過去も背景も異なる異種の人間が集まって発展してきたこの街のエネルギーが迫ってくる感覚を思い返していた。

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それから一年余りが経過し、私は懲りもせずまた香港へ向かっている。今回は乗り継ぎではない、目的地としての香港。高ぶる感情を冷ますように、機内で川端康成『雪国』のページをめくる。前述の書き出しが有名な『雪国』であるが、それに続く部分、汽車のガラス窓に向側の女性の姿が映り込み、その女性の顔と外の夕景色が重なり合う描写が秀逸で、高度一万メートルの上空でノーベル文学賞の力をまざまざと感じてしまう。そして、自分も思わず窓の外に目をやってみるが、映り込む女性の姿など存在せず、雲、ひたすら雲である。

雲が途絶え、海と陸地が見える。高度を徐々に下げる旅客機、貨物船や橋が肉眼で確認できるようになると着陸までもう少しである。滑走路が確認できた直後、着陸の衝撃が体に伝わる。

私を歓迎しようという素振りが全く見えない、曇天模様の香港であったが、現地の友人からは熱烈歓迎を受けることになっていた。香港に到着したこの日、自宅での夕食会に誘われていたのである。

A21のバスで市内へ。遮るものが何もなく、景色が次々と目の前に広がっていく二階最前列の特等席は、北京語を話す子供たちに占領されていた。私はその少し後ろの、進行方向に向かって右側の席に座る。しばらく走ると、遠くに香港島の高層ビル群が見える。九龍半島の市街地に入り、室外機が外に設置された古い建物が多くなってくると、またここに帰ってきたのだという感慨深い想いが強くなる。

中間道で降りて、宿泊先のホテルにチェックインした。しばらく休憩を取り、重慶大厦で両替をしたあと、尖東駅から西鉄線で友人宅のある美孚駅へ向かった。

駅の改札前で友人と数年ぶりの再会を果たす。留学中はお互いの言語を教えあったり、部屋に泊めてもらったり、とにかくお世話になった友人であり、香港に行く機会があれば度々顔を合わせていた。

彼が家族と住むマンションは駅からほど近い場所にあった。彼が以前住んでいた深水埗から引っ越した後は、彼の自宅を訪れるのは初めてであり、彼の二歳半になる息子とは初対面である。舌足らずの広東語が無性にかわいい。そして、父となった友人の姿を見て、否応なしに時の流れを痛感する。

異種の人間が集まり、かりそめの場所で常に次の場所を求めて変化し続けていく、そんな人々が築き上げる香港という街をノンフィクション作家の星野博美は「転がる香港に苔は生えない」という言葉で表現した。政治や経済、私にはそんな仰々しいことは語れないが、留学時代に過ごした街を歩き、留学中に接した人々と会話すると、ノスタルジックな感情が次の瞬間に全く新しいものに否定されるような、そんな感覚を抱いてしまう。千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔のむすまで、そんな安定性を求める日本人の私は、香港を訪れるたび様々な変化に戸惑いを感じ、そしてまたその変化に一観光客として新鮮な気持ちで向き合えるのかもしれない。そんな自分にとって唯一無二の場所が持てたことを幸せに思いたい。

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テーブルに並べられた香港のロースト料理は変わらぬ美味しさで、大好物の燒肉を何度も口に運んだ。

 

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地球の歩き方2003〜2004と2016〜2017。路線図もだいぶ変わったと思います)

ミュンヘンは輝いていた(ドイツ篇1)

――ミュンヘンは輝いていた。この首都の晴れがましい広場や白い柱堂、昔ごのみの記念碑やバロック風の寺院、ほとばしる噴水や宮殿や遊園などの上には、青絹の空が照り渡りながらひろがっているし、そのひろやかな、明るい、緑で囲まれた、よく整った遠景は、美しい六月はじめのひるもやの中に横たわっている。

そんな文章で始まるトーマス・マンの『神の剣』を機内で読んでいた。トーマス・マンの文章に触れるのは約10年ぶりで(正確には翻訳者の文章ということになろうがそれはともかく)当時の私は彼の代表作『魔の山』に丸腰で挑み、上巻途中であえなく遭難してしまった。新潮文庫で上下巻合わせて1,500ページを超える超大作、登頂への道のりは厳しかった。

『神の剣』は短編で、ミュンヘンの初夏の風景と、人々が抱く芸術観に対するトーマス・マンの鋭い批判を味わううちに、あっという間に読み終えてしまう。約12時間のフライトには『魔の山』ほどの読み応えが必要なのかもしれなかった。機内食を食べ、ガイドブックを読み、眠り、また起きてガイドブックを読み、トイレに立ち、機内食を食べる。

そうこうしているうちに、現地時間16時半、ルフトハンザ航空のエアバスA350-900は定刻より少し早くミュンヘンに無事着した。

長旅の疲れと時差ボケもあいまって、自分が今ドイツにいるという現実感が薄い。思わず先の平昌五輪でメダリストが口にしていた言葉をひとりごちる。

「まだ実感が湧きません」

実際に金メダルを首にかければ、否、金色に輝くあの液体を喉に流し込めば実感が湧いてくるのだろうか。とにかく私は空港の建物を出て、空を仰いだ。ミュンヘンは輝いていた、そんな文章とは程遠く、冬の名残の3月の空は薄い灰色の雲で覆われている。それでも、氷点下を観測していた数日前のミュンヘンと比べるとだいぶ過ごしやすくなっているはずで、季節は着実に春へと向かっているようであった。

空港からミュンヘン中央駅までは電車で50分弱である。切符を買い、時刻を打刻して、改札を通ることなく電車に乗り込む。車窓に映るのはのどかな景色。

ミュンヘン中央駅の目と鼻の先、Eden Hotel Wolffにチェックインした時点で、私の体は悲鳴をあげていた。現地時間18時、日本時間深夜2時。本来なら毛布にくるまってシュールな夢でも見ている時間帯である。呪うべきは「ホテルにチェックインしたらマリエン広場まで歩いて早速ミュンヘンのビールをいただこう♪」という予定を立てていた過去の自分か、不甲斐ない今の自分か。脳内ToshIが「もう独りで歩けない」と歌い出すほど疲弊した私は、中央駅構内のYORMA'Sという食料品店でサンドイッチと飲み物を買い、ホテルに戻った。

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帰省のはなし

旅客機は島の海岸線沿いを飛行していた。窓の外を見ると、けたたましい音で回転するプロペラの向こうに、海岸線に打ち寄せる波、区画整理された田畑が見える。徐々に高度を下げる旅客機、このまま田畑に突っ込むのではないかというところで突如アスファルトの地面が現れ、ほどなく着陸の衝撃が体に伝わる。

2017年12月31日、私は約一年ぶりに故郷、沖永良部島の大地を踏んだ。

空港には「祝 NHK紅白歌合戦初出場 竹原ピストルさん 三浦大知さん」と書かれた横断幕が掲げられていた。三浦大知の両親が沖永良部出身で、竹原ピストルはよく分からないがとにかく島にゆかりのある人物らしい。島が輩出した人物ではないにもかかわらず、誇らしげに主張するその行為。自分が大した人物でもないのに著名人との人脈を自慢しているようで、気温20度弱の中にあって薄ら寒さを感じてしまう。その事実が自分と島との距離感を表しているようにも思える。

生まれてから高校を卒業するまでの18年間、島で暮らした。コンビニがない、マクドナルドがない、ショッピングモールがない、まるで吉幾三の『俺ら東京さ行ぐだ』の歌詞のような島を一刻も早く出たかった。島を離れてから、島での生活をうらやむ声に接するたび、島での退屈だった18年間が羨望の言葉を見事にかき消した。

いじめられていたとか人間関係がこじれていたとかいうことはない。ただ、良くも悪くも牧歌的な空気の中にいて、特に志望校を目指して勉学に励んでいた高校三年生の時分は周囲とのギャップを感じていた。

「将来、島に戻る気はないの?」約10年前、新入社員の私に会社の先輩が訊いた。帰るつもりはないです、と答える私に先輩は「島で過ごした18年間と同じ時間を島外で過ごしたらまた考え方も変わるかもね」と言った。

そして2018年で36歳、年男となる私は中学校の同級生との年の祝いのためにこうして島に戻ってきた。

年が明けて1月2日、よそよそしい雰囲気にならないかと多少の不安を抱えながら、待ち合わせの神社に向かった。その不安は杞憂だった。同級生と顔を合わせ、一言二言かわすだけで当時に戻っていた。距離も時間も遠く隔たった島での暮らし、私が勝手に築いていた分厚い壁は温暖な気候できれいに溶け去ってしまったかのようだった。同級生との久々の再会を喜んでいる自分がいた。

お祓い、記念撮影をして、母校の中学校へとバスで移動する。旧校舎は取り壊され、当時の面影はほとんどなかったが、どこに何があったと周囲と答え合わせをして当時を再現する時間もまた楽しい。

母校で再び記念撮影をした時点で、祝の宴まではまだ時間があった。だいぶ余裕をもって時間が設定されていたようだった。急遽、観光スポットの一つであるウジジ浜へと向かうことになった。波に浸食されてできた奇岩が並ぶその浜には初日の出を見るために訪れたこともある。この日は晴れ渡っていて、空と海の青が目にまぶしかった。

再びバスに乗り、会場へと移動する。

当時を振り返るスライドショー、島の伝統芸能であるエイサー、当時の懐かしい話などを肴に、島の特産である焼酎を飲む。遠く隔たったと思っていた当時が今目の前にあった。確かに私はここで18年間暮らしていたのだった。うろ覚えで島の民謡を踊り、フォークダンスでは青春が蘇ると同時に時にパートナーの指輪の感触が生々しくもあり、そしてまたうろ覚えで中学校の校歌を歌った。楽しかった。

「将来、島に戻る気はないの?」滞在中、会社の先輩と同じことを、同級生が、そして母親が私に問う。「帰るつもりはないよ」そう答える私は以前ほどの断定的な口調だったのかどうか。

1月4日、帰京の日に再び空港に掲げられている横断幕を見る。「祝 NHK紅白歌合戦初出場 竹原ピストルさん 三浦大知さん」。紅白歌合戦、音を重ね演出を派手にして盛り上げようとする中で竹原ピストルのギター一本での弾き語りは引き立っていたし、三浦大知の一糸乱れぬダンスと圧倒的な歌唱力には素直に感動した。その二人が故郷と関わりがあることが、少し誇らしくも思えた。

検索ちゃん(タイ篇5)

タイ旅行記五日目。この日は特に書くことなどないだろうと思っていた。というのもLCCの深夜便で現地を発ち、早朝に帰国するだけの日だからである。それでもこうして書いているからには何か旅の終わりに重大な出来事があったのか、はたまた特になかったけれど無理やり捻りだして書いているのか。とにかく、狭い機内で私が目を覚ました瞬間から語ることにしよう。

空がうっすら明るくなっている時間帯だった。それなりに眠れたという感覚はあったが、疲労感は抜けていなかった。宿屋に泊まって全回復するドラクエの勇者になりたい、と思った瞬間、買ったばかりのニンテンドー3DSドラクエ11を持ってきていたことを思い出す。結局、旅が充実していたため電源を入れることがなかった。世界を救う気が全くないダメ勇者である。せめて到着までの数時間、冒険を進めようと思って電源を入れたその瞬間だった、隣に座っていたタイ人カップルの男性に声をかけられた。どうやら機内食を間違えて余分に注文していたようで、もらってくれないか、と言うのである。LCC機内食は有料のため、日本に着いてから食べればいいと注文していなかった私はありがたく頂戴することにした。

食後、隣に座るその男性と会話をした。日本に旅行で訪れ、東京と大阪を観光するのだという。秋葉原で買い物をするという男性にパソコンのパーツがどこで買えるのか訊かれたが、あまり詳しくない私は全く力になれず、ネットが使えれば……と臍を嚙む思いであった。また、お勧めの和食レストランを訊かれた。ジャパニーズフードというと、料亭のような場所を想像してしまい、果たして自分がお勧めできる場所はあるのだろうか、とこれまた途方に暮れてしまう。オフラインの私はかくも弱い存在だったのか、結局着陸後に「何か困ったことがあったら何でも訊いてくれ」とLINEのIDを教えて別れた。

都内へ向かうスカイライナーの車中、スマホをいじる。「和食」というと身構えてしまうけれど、ラーメンや焼肉も立派な日本食なのだ、と思い至る。LINE IDを一方的に伝えた状態であるので、連絡が来たら自分のお気に入りのお店を紹介してあげよう。私がタイで充実した時間を過ごしたように、ここ日本で充実した時間を過ごしてもらいたい。その一助となれば幸いである。そう思いながら、帰宅した私は、泥のように眠った。

秋葉原ヨドバシカメラにいる。このカードが欲しいのだが、新品ではなく、中古が欲しい」という内容のメッセージが入ったのは夕方である。中古のPCパーツなど門外漢であるが、今の私にはウェブが整った環境という巨大な後ろ盾があった。秋葉原で中古PCパーツが購入できる店舗を探し、地図付きで情報を送る。レストランの情報も伝えた。

使命を果たした私に迫りくる現実。私の非日常は彼らの非日常につながっていた。どうか無事カードが見つかりますように。

往生際悪く、非日常を楽しもうとする私はニンテンドー3DSの電源を入れる。冒険の旅は始まったばかりである。

タイミング(タイ篇4)

朝起きて、顔を洗い、歯を磨き、トイレに行き、そんな毎朝のルーティーンに「カーテンを開いて対岸のワット・アルンを眺める」が加わるとしたら、どんなに素晴らしいことだろう、と思いながら昨日と同様にその行為を行う。二回目の今朝が最後、「ルーティーン」と呼ぶにはあまりにもその機会が少なかった。短すぎたバンコクでの時間、本日23:45の便で日本へ帰国することになっていた。

ワット・アルンは昨日と同様、好天の下、存在感を主張していた。壁面の白、それが実は細かい陶片が緻密に組み合わされて築かれていることは、近づいて初めて気付くことである。悠長に対岸を眺めていたい、という思いと、残された時間でバンコクを満喫しなければ、という思いが交錯し、結局午前中のうちにホテルをチェックアウト、灼熱の太陽の下へと踏み出す。

まず向かったのは、昨日多くの弔問客のため入ることができなかった王宮/ワット・プラケオである。さすがに月曜日ともなると、つまっていたケチャップがドバドバと、とまではいかなかった。入口で係員による服装チェックが行われていた。王室関係の施設には肌を露出する服装(ノースリーブや短パン、ミニスカート)では入れないのだ。それでも割とスムーズに、校門前で待ち構える体育教師のような係員のチェックを通り抜け、校内に、否、構内に入る。昔も今も私は風紀を乱すことがない優等生タイプである。

タイで最も格式が高いと言われる王室寺院、ワット・プラケオ。チケットを購入し中へ入ると、仙人の像に迎えられる。テラス上には豪壮な建築群が並び、回廊にはインドの叙事詩ラーマーヤナ』をタイ風に翻案した『ラーマキエン』が描かれていた。アンコール・ワットの模型もあり、ゴールデンウィークに訪れたシェムリアップでの出来事を思い返す。汗をぬぐいながら見て回ったアンコール・ワット、あの時と同じような肌にまとわりつくような暑さの中、ワット・プラケオの構内を歩き回る。ワット・プラケオの本堂内は撮影禁止で、エメラルド仏が安置されている。その仏像を目に焼き付けた後、ワット・プラケオを後にした。

トゥクトゥクを捕まえて、ワット・ベーンチャマボピットへ向かった。この王室寺院は「大理石寺院」とも呼ばれており、屋根瓦を除きほとんどの建材に大理石が使用されているという。三島由紀夫暁の寺』の最初に登場する寺院であり、その緻密な描写に圧倒されたのは先の記事で述べた通りである。

トゥクトゥクを降り、門をくぐると、建物の壁面の大理石の白に、屋根の橙色が対比を見せ、目に鮮やかに飛び込んできた。本堂内、黄金に輝く仏像を拝んだ後、回廊に並ぶさまざまな仏像を見て回る。『暁の寺』では摂政の参詣の場面が登場する。その場所に今自分がいるのだという感慨深い思いを抱く。

そろそろここを去ろうかと思っていた矢先、私の目は寺院の近くでアイスクリームを売る男性にひきつけられた。チョコレートのアイスバーを購入し、口に含むと冷たさと甘さが体に染み入る。

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再びトゥクトゥクでホテル近くへと戻り、カフェでアップルソーダとパクチーの効いた米の麺を食べる。『TAKE ME HOME, COUNTRY ROADS』が流れる店内で、日本に帰りたくないという想いを抱きながら麺をすすった。その後『IMAGINE』へと曲が変わる。翌々日から仕事であることが私には想像できない。

一度ホテルに戻る。半日の観光ですでに汗だくの私。ウェブ上の口コミに書いてあったので恐る恐る訊いてみると、チェックアウト後に空いている部屋のシャワーを使わせてもらえることになった。他にこんなサービスを提供してくれるホテルなんてあるのだろうか。深夜便で帰る私にとって、事前にシャワーを浴びているのといないのとでは機内での快適度がだいぶ違う。Riva Arun Bangkok、比較的新しいホテルだからか最新版の地球の歩き方にも掲載されていないが、ウェブ上の口コミで世界各国から賞賛の声が届くのも頷ける。

シャワーを浴び、荷物を受け取った私は、このホテルに対して目いっぱいのコップンカップの気持ちを抱き、ホテルに手配してもらったタクシーに乗り込んだ。旅の最終目的地はプロンポン駅。バンコク在住の友人と夕食をとることになっていた。

タクシーの運転手はかなり高齢の男性だった。車内ではThe Beatles『Get Back』が流れ、Paulが「帰ってこいよ 元いた場所に」と歌っていた。帰国の時間が迫っていた。

車窓から見える景色、バンコクの古い町並みはいつの間にか高層ビルに変わっていた。急に強い雨が車体を打ち付ける。スコール。そうだ、バンコクは雨季なのだ。あまりに好天に恵まれていたため、そのことを忘れていた。タクシーに乗っているときにスコールに遭うというのはなんてタイミングに恵まれた旅であろう。そもそも、数年もの間工事中だったワット・アルンの足場が外されたのもこの八月に入ってからである。更には、上野の国立博物館でタイの特別展を見に行った際、チケット売り場の前で見知らぬおじさんに声をかけられて無料でチケットをもらった。あの瞬間から、タイが両手を広げて私を歓迎していたかも知れぬ。

目的地へと到着し、タクシーを降りたその時、スコールはやんでいた。

久々に会う大学時代の友人とステーキを食べる。同じ時期にタイを訪れていた友人の知り合いも交えてテーブルを囲む。美味しい牛肉を堪能したが、私はまだタイという国を堪能し尽していない気がする。アユタヤ、ワット・パークナムに、チャイナタウン、気になっていたが行けなかった場所がたくさんある。いつかまた私はここを訪れなければならない。空港へ向かうタクシーの車中、名残惜しさとともに使命感のようなものを感じていた。

対岸の古寺(タイ篇3)

――バンコックは雨季だった。空気はいつも軽い雨滴を含んでいた。強い日ざしの中にも、しばしば雨滴が舞っていた。

三島由紀夫豊饒の海(三)暁の寺』の書き出しを、ちょうど雨季のバンコクを訪れた自分の境遇と重ねたかったけれど、幸か不幸かこの日は雨の降る気配は全くなく、乾いた空気の中を汗だくになりながら歩き回った。折り畳み傘とナイロンジャケットを日本から持ってきていたが、海外から招集されたのに出場機会をもらえないサッカー日本代表の選手のように、活躍の場を奪われベンチ、否、スーツケースの中でくすぶっていた。

今、私の手元には、バンコクを代表する寺院の入場券の半券が三枚、そして、それに混じって手書きのメモが一枚ある。灼熱の太陽の下、一枚そしてまた一枚と手に入れたそれらの紙には汗のにおいすらもこびりついているような気がする。この日体験したことが凝縮されているこれら一枚一枚について、私は語ろうと思う。

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睡眠時でも一瞬一瞬が惜しいという感覚がどこかにあるのか、目覚ましより先に眼を覚ましてしまった。カーテンを開くと、チャオプラヤ川の黄土色にワット・アルンの白が映え、寝ぼけ眼に眩しい。

朝食をとりにホテルのルーフトップレストラン「Above Riva」へ向かい、ワット・アルンがよく見える席に座る。パンやサラダ、ナッツ類、ソフトドリンクはビュッフェ、メインディッシュはオーダーという折衷型の朝食だった。因みにメインディッシュをいくら頼んでも同料金(300B少々、1,000円程度)で、精算はその場でもチェックアウト時でも可。メニューにタイ料理が少ないのが気になったが、街中に出ればいくらでも食べられるだろう。私はメインディッシュにエッグベネディクトをオーダーし、ワット・アルンを眺めながら食べる。これだけで既にバンコクを十分堪能していると思えるぐらい、贅沢な時間である。

東京国立博物館、タイの特別展で見た内容を思い返し、それを今日これから目の当たりにするのだと興奮した気持ちでホテルを出た。

8月8日の東京も暑く、灼熱の太陽が目の前に続くアスファルトの道を照らしていた。鶯谷の駅を出た私は東京国立博物館へ向かっていた。この時期に偶然、日タイ修好130周年記念特別展が開催されていたのである。30度を超える気温の中、蝉の声を受けながら歩いた道、それが今、ワット・ポーへと続くこの道にそのまま繋がっているかのような感覚を抱く。蝉の声はトゥクトゥクの客引きの声にかわっていたが、その裏に潜む「生」への渇望は共通しているようにも思える。

ホテルから徒歩約10分、ワット・ポーは巨大な寝釈迦とマッサージの総本山で有名な王室寺院である。100Bを支払い、飲料水引換券付きの入場券を受け取る。礼拝堂の空間を目いっぱい使って横たわる寝釈迦仏の、ちょうど地面についている肘部から礼拝堂に入ると、柱の隙間から寝釈迦仏の巨大な顔が現れ、その迫力に圧倒される。上半身から下半身へと移動、足の裏の螺鈿細工を拝んだ後は背面に回り、今度は足元から頭頂部へと、ちょうどその全長46mの大仏像を一周するような形で順路が組まれていた。この寝姿、釈迦が入滅したときの様子を表しているようで、休日にベッドに横になりテレビを見る私の姿とは似て非なるものである。寝釈迦仏の手元に黄金のリモコンなど、ない。

せっかくなので寝釈迦仏の周囲を二周し、礼拝堂から出て、境内の仏塔や回廊を見学した後、王宮へ徒歩で向かう。

王宮の周囲は喪服姿の弔問者で溢れかえっていた。ラーマ9世が昨年10月にご逝去されたのと関係があるのだろうか(後で知ったことだが、ご逝去から10ヶ月が経過した今でも休日の度に全国から弔問者が集まるという)。王宮入口はつまったケチャップのように人の動きがほとんどなく、私は王宮訪問を諦めることにした。

そこで私に襲い掛かってきたのが尿意である。周囲を見渡せどトイレはない。王宮内にはさすがにあるだろうが、いったいどれだけ待てば中に入れるのだろう。警備員にトイレの場所を訊いてみるがなかなか英語が通じず、何人目かでようやく東の方角を指し示された。果たしてちゃんと通じていたのか分からないが、私にできることはただその方角へ進むだけであった。

歩いた。もはや周囲には観光客の姿はなく、ただ喪服姿の弔問者の中を私は歩いた。法事の招待状「平服でお越しください」に対し、私服で行ってしまったような居心地の悪さと尿意を抱えながら、ひたすら歩いた。トイレはなかなか見つからず、代わりにセブン・イレブンが目に入る。期待と共に中に入ってみるが、日本のように誰もが自由に使えるトイレなどなかった。仕方なく外に出ると、トゥクトゥクの運転手が声をかけてくる。英語でトイレの場所を訊いてみたが、ここでも通じない。仕方なく、鞄から地球の歩き方を取り出し、「旅の単語帳1001」のページの「トイレ ホーン・ナーム ห้องน้ำ」を指差すと、運転手は分かったという顔でセブン・イレブンの裏の方を指し示す。

あった。

かくして私のトイレクエストは無事終了。私の興味関心はトイレからバンコクの寺院へと戻り、トイレの場所を教えてくれた運転手のトゥクトゥクがこのタイ旅行初めてのトゥクトゥク体験となった。

トゥクトゥクに乗って頬に受ける風はどうしてかくも爽やかなのか。カンボジアで遺跡巡りをしていたことを思い返しながら、私はラーマ1世によって建立された王宮寺院、ワット・スタットへと向かった。東京国立博物館で開催されているタイ特別展の目玉、ラーマ2世王作の大扉は元はこの寺院の正面を飾っていたものである。1959年の火災で一部焼失した後、バンコク国立博物館に移された。2013 年から日タイで協力し保存修理作業を進め、この度、日本で展示されることになったとのことである。

ワット・スタットのチケット売り場は閉まっていた。もしかして入れないのか、と不安を抱えながら敷地内に恐る恐る入ってみると、どうやら建物の改装工事中のため入場料を取っていないようである。ただ、礼拝堂の中には入ることができた。中には巨大な仏像が鎮座しており、その前には礼拝を行う人々。建物の内側に折り返された巨大な扉は、東京国立博物館で見たものと同様、草花が重層的に表現され豪華絢爛たる壮大さであった。上野にあるあの大扉が、以前はここにあったのだ、という感慨深い想いを抱きながらワット・スタットを出る。

次の目的地へ向かおうとしたところで中年男性に声をかけられた。小綺麗な恰好をしたその男性は、ワット・スタットの向かい側にあるバンコク・シティ・センターを指さし「私はあそこの役員だ」と言う。次の目的地を訊かれ「ワット・スラケート」と答えると「あそこは午後三時まで儀式のため入れない。それまで運河を巡るツアーに参加してはどうか」と言う。ここに来る途中、王宮周辺の多くの弔問客を目にしていた私は、素直にその男性の言葉に耳を傾ける。男性が白紙を取り出し、そのツアーについて説明をしながら書き込んでくれた。私が宿泊しているホテル近くの船着場から船でワット・アルンを訪れ、その後運河を巡る1時間のツアー。船着場のツアーの主催者に「How much?」と値段を訊くと外国人価格の3,000Bを取られるので、タイ語で「TAORAI?」と訊け、そうすれば1,800Bでツアーに参加できる、とまで親切丁寧にアドバイスしてくれる。ツアーに参加する気はないが、ワット・アルンには訪れようと思っていたので、ワット・スラケートに入れないのであれば先にそこを訪れよう、そう思ったところで折よく通りかかるトゥクトゥク。そして、30Bという破格の値段で、私は船着場へと移動することになる。

船着場に到着した私に男性が声をかけてくる。ツアーの勧誘らしいが「自分はワット・アルンだけでいいんだ」と主張すると「じゃ、隣の船着場だな」と言われ、移動する。すると、ここまで乗せてくれたトゥクトゥクの運転手がしつこく私に「ツアーに参加しないのか?」と問いかけてくる。

そこでようやく、騙されかけていた自分に気づいた。この問題、進研ゼミでやったやつだ! もとい、この状況、地球の歩き方に載ってたやつだ!

街中で声をかけられ、行き先を告げると「そこは今日は休みだ」と言われ、宝石商を紹介される。「ガバメントのショップ」「政府公認免税特売の最終日」など嘘を並べて旅行者をその気にさせる。宝石店に行けば店員が「ここで宝石を買い日本で売ると利益になる」などと言葉巧みに誘うのである。

王宮周辺でたくさんの弔問客を見たことに加え、応用編だったことで、まんまと騙されてしまいそうになっていた。声をかけてきた自称役員とトゥクトゥクの運転手と船着場の男性は共謀者だったのだ。気を引き締めていれば騙されることはないだろう、そんなことは対岸の火事だと思っていたが、煙が川を越えて私の鼻をかすめていく。破格の値段だったとはいえ、交通費と時間を無駄にしてしまった。

このまま対岸のワット・アルンへと向かってもよかったのだが、午前中は川のこちら側を巡る予定を立てていたので、再びトゥクトゥクを拾い、ワット・スラケートへ移動。入れないなんてことはないはずだ、との想いで到着してみると、ワット・スラケートは開放されていたのである。20Bを支払い、入場券を受け取った。

ワット・スラケート、小高い丘の上に建つ黄金の大仏塔で有名な王室寺院。市街地を一望できる尖頭部までは延々と続く階段を上らなければならない。見ざる言わざる聞かざるの歓迎を受け、私は一歩を踏み出す。

前日、台北で訪れた中正紀念堂前の階段は蒋介石の享年と同じ89段、ここワット・スラケートは約4倍の344段である。上るにつれ、バンコクの街が低くなっていく。古い寺院の遥か向こうにはオフィスビルが立ち並び、キューブがズレたような独特の外観を持つマハーナコーンの姿も見える。そして中央に黄金の仏塔が建つ頂上のテラスに出た。市街地を見渡してみると、建物の壁面にラーマ9世の巨大な写真が掲げられており、「王国」としてのタイの姿を垣間見ることができた。王室を敬うことはタイ人にとって当然のことであり、8:00と18:00の1日2回、公共の場所では国歌が流され、その間は直立不動の姿勢を保たなければならないのだ。

太陽は空の高い位置から私を照らしていた。お昼時、ワット・スラケートを出た私はトゥクトゥクをつかまえてカオサン通りへ移動する。外国人バックパッカー向け安宿街として発展したカオサン通り沿いは今、レストランやショップが立ち並んでいる。入り口にはバーガーキング、少し通りを進むとドナルドが手を合わせて挨拶をしているマクドナルド、好きなファーストフード店に心を惹かれながらも、せっかくバンコクに来たのだからと、通りで売られている食用サソリを食す、ことまではせずに、一軒のレストランでパッタイを頼む。あまりの暑さに食欲がなく、アップルソーダの炭酸だけが体に染み渡っていく心地がする。

食後、トゥクトゥクをつかまえて船着場へと向かった。船賃4Bを支払い、デッキに立つとチャオプラヤ川を挟んで対岸にワット・アルンが見える。三島由紀夫の小説の舞台となったその寺院がまるで私を手招きしているかのように、目の前にはちょうど出航間際の船が待ち構えていた。船に揺られながら、次第に存在感を増していく仏塔を見つめる。目の前を何艘もの船が通り過ぎていく。ふと後方に目をやると、私が宿泊しているホテルのレストラン、そして私の部屋までもが見える。

対岸に到着し、ワット・アルンへと歩みを進める。目に入るラーマ9世の記念碑、そしてその向こうにワット・アルンの大仏塔が憎々しいほど晴れ渡った空を背景に高くそびえていた。50Bで入場券を購入し中に入る。仏塔の表面には無数の陶片が埋め込まれており、日差しを受けて輝いていた。台座から尖頭まで続くそのきめ細かな装飾に気が遠くなるようである。

昭和四十二年にインド政府の招待によりインドを訪れ、帰途、ラオスとタイを訪れた三島由紀夫、一体ここで何を感じ、何故ここを作品の舞台に選んだのだろう。 

再び船に乗ってホテルへと戻る。ホテルの部屋から、先ほど汗だくになりながら歩き回ったワット・アルンが見える。チャオプラヤ川を挟んだ対岸までの距離が、近いようにも遠いようにも思える。私がこの寺院の本当の魅力を理解するにはまだ知識や教養に欠けているであろう。しかし、三島の心を揺さぶったこの寺院の魅力の片鱗を味わえたような気がする。

夕日はワット・アルンの右側を、水面を橙色に染めながらゆっくりと沈んでいく。青空を背景に純白に輝いていたワット・アルンは今や黒い影となっている。しかしそれが再び輝きだす瞬間、ライトアップの時を冷房の効いた部屋でじっと待っていた。

シンデレラボーイ(タイ篇2)

日本語が飛び交っていた。

ホテルの部屋から朝食会場に向かっている途中で国境をひょいと跨いでしまったのではないか、と思うほど多くの日本人宿泊客がビュッフェを前に目を輝かせている。日本の夏休みの時期に、日本語を話すスタッフを多く擁するここコスモスホテルが日本人であふれかえるのも至極当然のことかもしれない、と思う私も日本人である。ただ、一角に様々な麺料理がオーダーできるテーブルや点心のコーナーがあり、ここが中華圏であることを我々の嗅覚に、味覚に訴えかけていた。

九時半にホテルを出た時点で、台北滞在時間は残り六時間。ギリギリまで台北を満喫したい行動派の私と、旅客機に乗り遅れることを危惧する心配症の私、乗り遅れたら開き直って台中や高雄まで足を伸ばして台湾を堪能すればいいという超楽観的な私、様々な私が中華料理の円卓に座し、各々の意見をターンテーブルで回転させて至った結論は「十二時の鐘が鳴ったら空港へ向かおう」という、どこかの国の童話を彷彿とさせるものであった。

ホテルの目と鼻の先の台北駅でICカード「悠遊カード」を購入し、板南線に飛び乗る。国父紀念館駅で下車し、地上に出ると、孫文生誕100年を記念して建てられた国父紀念館が目に飛び込んできた。そして、彼方には台北101がその尖端を真夏の空に突き刺すように屹立していた。

三年前の八月、その日も暑い一日だった。初めて台北を訪れた私は、今回と同じホテルにチェックインした後、暮れゆく街を背に象山を登っていた。亜熱帯の気候と蝉の大合唱が私の足を重くする。ただ、振り返るたびに一つまた一つと明かりを灯す台北の街が私の背中を押しているようでもあった。そして、ライトアップの時を自身待ちわびているようにも思える巨大な黒い影、台北101が次第に低くなっていく。体中を汗が流れ、肩で息をしていた。階段は無慈悲にも上へ上へと続いている。その上昇志向に辟易しながらも歩き続ける。もう独りで歩けない時代の風が強すぎて、とX JAPANの歌詞のような状態になったところで、歩道が巨大な岩に囲まれた場所に出た。振り返るとそこには、闇に抗うようにその存在感を主張する台北101と光り輝く台北の街。胸の高鳴りを抑えられなかったのは、あの光の中をこれから数日かけて歩き回ることへの期待感からか、或いは単に運動後の動悸・息切れか。ともかく、伝統的な宝塔と竹の節をイメージして造られた台北101は私にとって台北の象徴となった。

そして今、彼方にそびえる台北101を見る。三年前、象山で見た姿とは異なり、真夏の太陽を従順に受けて輝き、そのガラス面の熱量さえも肌に感じられるようであった。

国父紀念館に隣接した中山公園では、現地の人が太極拳をしていた。その緩やかで流れるようなゆったりとした動きとは異なり、残り滞在時間を絶えず気にする私の足は台北101へと急ぐ。

台北101が次第にその存在感を増していくにつれ、私の体内から水分が失われていった。体中の汗腺が労働基準法違反を訴えようとしていた。気温は34度、35度と次第に高くなり、私が台北101へ向ける一眼レフのレンズの角度も次第に高くなっていく。そして、台北101に遥か高みから見下ろされる格好、私は台北101の近くまでたどり着いていた。台北101、下から見るか? 横から見るか? 欲張りな私はどちらからも見たい。時間の余裕があればもう一度、象山の上からも見たい。一眼レフで撮影した写真を後で見返したりもしたい。

台北101の隣、台北世界貿易中心ではコミケが行われているようで、周囲は混雑していた。「エロマンガ先生」と書かれたTシャツを着た青年とすれ違い、私は次の目的地へと急ぐ。台北101から信義路を挟んだ向かい側にある四四南村、開発から取り残された軍人村をリノベーションしたアートスペースで、流行に敏感な若者の注目を集めている場所らしい。足を踏み入れてみると、歴史的な建物がおしゃれなカフェや雑貨屋に再利用され、また、台湾の過去の暮らしをたどることのできる博物館が無料で開放されていた。新旧の文化が混じり合ったその空間にいて、古びた建物の向こう側にそびえる台北101を見ると、自分がどの時代にいるのか分からなくなってくる。

四四南村で時空の狭間に迷い込んだような心地がしても、時間は不可逆性をもって刻一刻と正午へと近づいていた。十一時過ぎ、残り一時間弱をどう過ごすか。あまり遠出はできない、と思いながら路線図を眺めてみると、台北駅へ戻る途中に「中正紀念堂」の文字を見つける。

台北101/世貿駅から中正紀念堂駅までの約10分間、電車内の冷房の心地よさを感じていたのも束の間、中正紀念堂駅に到着して芸文広場へ出ると再び灼熱の太陽が私の肌を射る。日差しを遮るものが何もない広場で、巨大な虫眼鏡で焼かれているかような暑さ。広場は果てしなく広く感じられ、中正紀念堂には歩けども歩けどもたどり着かず、蜃気楼かと見まごうほどである。

それでも何とか燃え尽きてしまう前に紀念堂の前にたどり着いた。基台の階段は蒋介石の享年と同じ89段、それを数える余裕すらなく、ただ登ることだけに注力する。紀念堂内部に入ると正面には巨大な蒋介石銅像が、熱中症一歩手前の私を労るような穏やかな笑みを浮かべて鎮座していた。衛兵交代式は少し前に終わっていたようで、今はただ二人の衛兵が微動だにせず銅像を護衛している。この衛兵のように多少の暑さにも動じない自分でいたい。

そして十二時の鐘が鳴った。実際はiPhoneでその時が来たことを確認した。私は桃園国際空港へ向かうことにした。台北駅で空港行きのMRTに乗り換える。タイミングが悪く快速列車は既に満席、仕方なく普通列車で向かうことにした。

灼熱の地から灼熱の地へ。バンコク行きの旅客機はほぼ定時に桃園国際空港を発った。時間を惜しんで駆けずり回った台湾を窓から眺める。区画整理された田畑や貯水池、のどかな景色が次々と後方へ押し流されていく。もうちょっと余裕を持って観光したかった、という名残惜しさは、ガラスの靴ではないが台北の街に残したままで、機上の私はただバンコクという未踏の地への期待感だけを抱いていた。

気が付けば窓の外には台湾海峡が広がっていた。

ドーン・ムアン国際空港からバンコク市内へ向かうタクシーの車内で、Google Mapsを眺めていた。バンコクのタクシーは質の悪い運転手が多く、乗車拒否、メーターの不使用、遠回りなどは日常茶飯事、通常より早くメーターが上がる「ターボメーター」を使用する違法タクシーもあるのだと地球の歩き方には書いてあった。バンコク滞在の初日で不快な目にあってしまっては、その旅全体の印象を左右しかねない。ただ、空港のカウンターで50バーツの手数料を追加して手配したタクシーのドライバーには怪しい素振りはなく、職務を忠実に全うしているようであった。Google Mapsに示されたルートを大きく外れることなく、ホテルへと向かっている。安堵と共に窓の外に目を向けると、辺りは既に闇に包まれていた。

不慣れな土地にたった一人で訪れるときに抱くのは、心細さや寂しさよりもむしろ恍惚感である。文化、食事、宗教、言語、異なる環境の中で突如襲ってくるかも知れないトラブルに対して、自分なら何とか乗り越えられるだろうという根拠のない自信。

バンコク市内に入り、渋滞に巻き込まれる、その状況すらも楽しんでいる自分がいた。サビまでの時間が長く焦らされる曲のほうがサビの開放感は強い。

ホテルの近くで下車、東南アジアの熱気と屋台の香ばしい匂いに包まれながら、スーツケースを引きずって狭い路地を進むと、「RIVA ARUN」の看板が目に入る。全25室のブティックホテルで、昨年八月にオープンしたばかりだからか、今年七月に発行された最新の地球の歩き方にも全く名前が掲載されていないが、ウェブ上の口コミでは、世界各国から賞賛の声を浴びていた。地下鉄の駅からは距離があるが、ワット・ポーや王宮は徒歩圏内、ワット・アルンへの渡し船が出る船着場も目と鼻の先で、寺院を巡るにはこれ以上ない立地である。

入口に近づくと私に気付いたスタッフがドアを開けた。チェックインを済ませ、部屋へ移動する。206号室が割り当てられていたが、階数表示は英国式のようで、日本で言う三階の一室へ案内される。そして、スタッフが丁寧丁寧丁寧に部屋の設備について説明を与えた。日本からFacebookのメッセージで依頼していた変圧器もきちんと用意されていた。ひとしきり説明を終えた後、スタッフがカーテンを開く。チャオプラヤ川を挟んで、その向こう側にワット・アルンが、三島由紀夫の小説のモデルとなったその寺院がライトアップを受けて輝いていた。中央の特大仏塔とそれを取り囲むように建つ四基の仏塔の、外面を彩る陶器の破片が鮮やかに燃え上がっていた。『豊饒の海(三)暁の寺』の序盤のワット・アルンの描写を思い返し、自分のこの今の感情はあそこまで精緻に伝えきれないという圧倒的なまでの無力感を抱いてしまう。

台北101台北の象徴となったように、この寺院もまた私にとってバンコクの象徴とも言うべき存在になるのだろうか。なるであろう。そんな予感を抱きながら、スタッフが部屋を去った後も、しばらくその姿を眺めていた。