日記なんかつけてみたりして

コメント歓迎期間中

シンデレラボーイ(タイ篇2)

日本語が飛び交っていた。

ホテルの部屋から朝食会場に向かっている途中で国境をひょいと跨いでしまったのではないか、と思うほど多くの日本人宿泊客がビュッフェを前に目を輝かせている。日本の夏休みの時期に、日本語を話すスタッフを多く擁するここコスモスホテルが日本人であふれかえるのも至極当然のことかもしれない、と思う私も日本人である。ただ、一角に様々な麺料理がオーダーできるテーブルや点心のコーナーがあり、ここが中華圏であることを我々の嗅覚に、味覚に訴えかけていた。

九時半にホテルを出た時点で、台北滞在時間は残り六時間。ギリギリまで台北を満喫したい行動派の私と、旅客機に乗り遅れることを危惧する心配症の私、乗り遅れたら開き直って台中や高雄まで足を伸ばして台湾を堪能すればいいという超楽観的な私、様々な私が中華料理の円卓に座し、各々の意見をターンテーブルで回転させて至った結論は「十二時の鐘が鳴ったら空港へ向かおう」という、どこかの国の童話を彷彿とさせるものであった。

ホテルの目と鼻の先の台北駅でICカード「悠遊カード」を購入し、板南線に飛び乗る。国父紀念館駅で下車し、地上に出ると、孫文生誕100年を記念して建てられた国父紀念館が目に飛び込んできた。そして、彼方には台北101がその尖端を真夏の空に突き刺すように屹立していた。

三年前の八月、その日も暑い一日だった。初めて台北を訪れた私は、今回と同じホテルにチェックインした後、暮れゆく街を背に象山を登っていた。亜熱帯の気候と蝉の大合唱が私の足を重くする。ただ、振り返るたびに一つまた一つと明かりを灯す台北の街が私の背中を押しているようでもあった。そして、ライトアップの時を自身待ちわびているようにも思える巨大な黒い影、台北101が次第に低くなっていく。体中を汗が流れ、肩で息をしていた。階段は無慈悲にも上へ上へと続いている。その上昇志向に辟易しながらも歩き続ける。もう独りで歩けない時代の風が強すぎて、とX JAPANの歌詞のような状態になったところで、歩道が巨大な岩に囲まれた場所に出た。振り返るとそこには、闇に抗うようにその存在感を主張する台北101と光り輝く台北の街。胸の高鳴りを抑えられなかったのは、あの光の中をこれから数日かけて歩き回ることへの期待感からか、或いは単に運動後の動悸・息切れか。ともかく、伝統的な宝塔と竹の節をイメージして造られた台北101は私にとって台北の象徴となった。

そして今、彼方にそびえる台北101を見る。三年前、象山で見た姿とは異なり、真夏の太陽を従順に受けて輝き、そのガラス面の熱量さえも肌に感じられるようであった。

国父紀念館に隣接した中山公園では、現地の人が太極拳をしていた。その緩やかで流れるようなゆったりとした動きとは異なり、残り滞在時間を絶えず気にする私の足は台北101へと急ぐ。

台北101が次第にその存在感を増していくにつれ、私の体内から水分が失われていった。体中の汗腺が労働基準法違反を訴えようとしていた。気温は34度、35度と次第に高くなり、私が台北101へ向ける一眼レフのレンズの角度も次第に高くなっていく。そして、台北101に遥か高みから見下ろされる格好、私は台北101の近くまでたどり着いていた。台北101、下から見るか? 横から見るか? 欲張りな私はどちらからも見たい。時間の余裕があればもう一度、象山の上からも見たい。一眼レフで撮影した写真を後で見返したりもしたい。

台北101の隣、台北世界貿易中心ではコミケが行われているようで、周囲は混雑していた。「エロマンガ先生」と書かれたTシャツを着た青年とすれ違い、私は次の目的地へと急ぐ。台北101から信義路を挟んだ向かい側にある四四南村、開発から取り残された軍人村をリノベーションしたアートスペースで、流行に敏感な若者の注目を集めている場所らしい。足を踏み入れてみると、歴史的な建物がおしゃれなカフェや雑貨屋に再利用され、また、台湾の過去の暮らしをたどることのできる博物館が無料で開放されていた。新旧の文化が混じり合ったその空間にいて、古びた建物の向こう側にそびえる台北101を見ると、自分がどの時代にいるのか分からなくなってくる。

四四南村で時空の狭間に迷い込んだような心地がしても、時間は不可逆性をもって刻一刻と正午へと近づいていた。十一時過ぎ、残り一時間弱をどう過ごすか。あまり遠出はできない、と思いながら路線図を眺めてみると、台北駅へ戻る途中に「中正紀念堂」の文字を見つける。

台北101/世貿駅から中正紀念堂駅までの約10分間、電車内の冷房の心地よさを感じていたのも束の間、中正紀念堂駅に到着して芸文広場へ出ると再び灼熱の太陽が私の肌を射る。日差しを遮るものが何もない広場で、巨大な虫眼鏡で焼かれているかような暑さ。広場は果てしなく広く感じられ、中正紀念堂には歩けども歩けどもたどり着かず、蜃気楼かと見まごうほどである。

それでも何とか燃え尽きてしまう前に紀念堂の前にたどり着いた。基台の階段は蒋介石の享年と同じ89段、それを数える余裕すらなく、ただ登ることだけに注力する。紀念堂内部に入ると正面には巨大な蒋介石銅像が、熱中症一歩手前の私を労るような穏やかな笑みを浮かべて鎮座していた。衛兵交代式は少し前に終わっていたようで、今はただ二人の衛兵が微動だにせず銅像を護衛している。この衛兵のように多少の暑さにも動じない自分でいたい。

そして十二時の鐘が鳴った。実際はiPhoneでその時が来たことを確認した。私は桃園国際空港へ向かうことにした。台北駅で空港行きのMRTに乗り換える。タイミングが悪く快速列車は既に満席、仕方なく普通列車で向かうことにした。

灼熱の地から灼熱の地へ。バンコク行きの旅客機はほぼ定時に桃園国際空港を発った。時間を惜しんで駆けずり回った台湾を窓から眺める。区画整理された田畑や貯水池、のどかな景色が次々と後方へ押し流されていく。もうちょっと余裕を持って観光したかった、という名残惜しさは、ガラスの靴ではないが台北の街に残したままで、機上の私はただバンコクという未踏の地への期待感だけを抱いていた。

気が付けば窓の外には台湾海峡が広がっていた。

ドーン・ムアン国際空港からバンコク市内へ向かうタクシーの車内で、Google Mapsを眺めていた。バンコクのタクシーは質の悪い運転手が多く、乗車拒否、メーターの不使用、遠回りなどは日常茶飯事、通常より早くメーターが上がる「ターボメーター」を使用する違法タクシーもあるのだと地球の歩き方には書いてあった。バンコク滞在の初日で不快な目にあってしまっては、その旅全体の印象を左右しかねない。ただ、空港のカウンターで50バーツの手数料を追加して手配したタクシーのドライバーには怪しい素振りはなく、職務を忠実に全うしているようであった。Google Mapsに示されたルートを大きく外れることなく、ホテルへと向かっている。安堵と共に窓の外に目を向けると、辺りは既に闇に包まれていた。

不慣れな土地にたった一人で訪れるときに抱くのは、心細さや寂しさよりもむしろ恍惚感である。文化、食事、宗教、言語、異なる環境の中で突如襲ってくるかも知れないトラブルに対して、自分なら何とか乗り越えられるだろうという根拠のない自信。

バンコク市内に入り、渋滞に巻き込まれる、その状況すらも楽しんでいる自分がいた。サビまでの時間が長く焦らされる曲のほうがサビの開放感は強い。

ホテルの近くで下車、東南アジアの熱気と屋台の香ばしい匂いに包まれながら、スーツケースを引きずって狭い路地を進むと、「RIVA ARUN」の看板が目に入る。全25室のブティックホテルで、昨年八月にオープンしたばかりだからか、今年七月に発行された最新の地球の歩き方にも全く名前が掲載されていないが、ウェブ上の口コミでは、世界各国から賞賛の声を浴びていた。地下鉄の駅からは距離があるが、ワット・ポーや王宮は徒歩圏内、ワット・アルンへの渡し船が出る船着場も目と鼻の先で、寺院を巡るにはこれ以上ない立地である。

入口に近づくと私に気付いたスタッフがドアを開けた。チェックインを済ませ、部屋へ移動する。206号室が割り当てられていたが、階数表示は英国式のようで、日本で言う三階の一室へ案内される。そして、スタッフが丁寧丁寧丁寧に部屋の設備について説明を与えた。日本からFacebookのメッセージで依頼していた変圧器もきちんと用意されていた。ひとしきり説明を終えた後、スタッフがカーテンを開く。チャオプラヤ川を挟んで、その向こう側にワット・アルンが、三島由紀夫の小説のモデルとなったその寺院がライトアップを受けて輝いていた。中央の特大仏塔とそれを取り囲むように建つ四基の仏塔の、外面を彩る陶器の破片が鮮やかに燃え上がっていた。『豊饒の海(三)暁の寺』の序盤のワット・アルンの描写を思い返し、自分のこの今の感情はあそこまで精緻に伝えきれないという圧倒的なまでの無力感を抱いてしまう。

台北101台北の象徴となったように、この寺院もまた私にとってバンコクの象徴とも言うべき存在になるのだろうか。なるであろう。そんな予感を抱きながら、スタッフが部屋を去った後も、しばらくその姿を眺めていた。

はじめの一兎(タイ篇1)

「お盆休みには地元に帰るの?」会社の先輩にそう訊かれ「いえ、帰りません」と答えたのは一ヶ月前だったか二ヶ月前だったか。しかし、定刻を少し過ぎて20時に成田空港を発った旅客機は私の地元の方角、南西へと飛んでいた。格安航空会社のタイガーエアの旅客機には航路を示すスクリーンなど設置されておらず、窓の外は闇に包まれていたため確認のしようもないが、私の乏しい地理の知識を持ってしても、旅客機はおおよそ沖永良部島の方角へ飛んでいることは分かっていた。しかしそれは島に唯一存在する質素な空港に着陸することはなく、ひたすら空路を南西へと取り、台北へと向かう。

お盆休みの旅先をタイに決めたのは、ゴールデンウィーク後に会社の先輩と私のカンボジア旅行の話をつまみに酒を飲んでいた際に強く勧められたこと、大学時代の友人が住んでいること、 ツイッターの相互フォロワーの一人が訪問していたことなど、細かい理由が積もり積もっていたからであり、これと言って決定打はなく内野安打が積み重なった結果だったが、もはや脳内ではタイ美人が「サワディカー」と私に呼びかけ、その微笑みを反故にすることはできなかった。

直行便ではなく台北経由の便を選択したのは、金銭的な問題というよりも、せっかくなら台北も楽しもうと二兎を追った結果であるが、ここに来て一兎も得ることが出来ないのではないかという不安を抱いていた。バンコクを舞台にした三島由紀夫の小説『豊饒の海(三)暁の寺』を読み、折しも東京国立博物館で開催されていた日タイ修好130周年記念特別展を訪れる中で、実質二泊三日の滞在ではバンコクの魅力を余すところなく味わうことは不可能だと痛感したのである。滞在時間の圧倒的な欠乏を前に私が出来ることと言えば、その瞬間瞬間を濃厚なものにするため、事前に予備知識とイメージを入念に構築しておくことであった。ただそれも不十分な状態で機内に乗り込んだ私は、飛行状態が安定した後、一夜漬けで試験に臨む学生よろしく、地球の歩き方と『暁の寺』のページをめくった。

例えば、大理石を使用した王室寺院「ワット・ベーンチャマボピット」について、三島由紀夫は次のように描写している。

――ポインテッド・アーチ形の窓々は、内側の紅殻をのぞかせながら、その窓を包んで燃える煩瑣な金色の焔に囲まれていた。前面の白い円柱も、柱頭飾から突然金色燦然とした聖蛇の盤踞する装飾に包まれ、幾重にも累々と懸る朱い支那瓦の反屋根は、鎌首をもたげた金色の蛇の列に縁取られ、越屋根のおのおのの尖端には、あたかも天へ蹴上げる女靴の鋭い踵のように、金いろの神経質な蛇の鴟尾が、競って青空へ跳ね上っていた。

その寺院の全体像は地球の歩き方の写真を見れば一目瞭然であるが、細部が強烈に印象づけられるのはむしろ三島由紀夫の精緻な描写によるものであった。その文字のみによるガイドブックを私は入念に読み込んだ。

この豊饒の海シリーズは全四巻に渡る壮大な輪廻転生の物語である。とりわけ第三巻の『暁の寺』が難解だと言われ、私自身も同様の印象を持った。それはひとえに仏教の重要な思想である「唯識」や「輪廻転生」について語られているからである。 

バンコクの滞在を充実したものにするには『豊饒の海(三)暁の寺』を理解しなければならず、『暁の寺』を理解するためには唯識、輪廻転生について理解しなければならない。そんなどこか少し屈折した強迫観念が私を苦しめていた。

理解の手助けとなる『暁の寺』の解説書もまたiPhoneKindleの中に入れていた。その解説書でも唯識の思想が難解であることを認め、「唯識三年倶舎八年」という言葉を紹介していた。意味としては「仏教の基礎『倶舎論』を八年勉強した後に唯識を三年勉強すれば一応の理解は得られる」ということである。台北までの三時間半、台北滞在十七時間、台北からバンコクまでの三時間半、この短い時間で仏教教学に素人の私がこれらの思想を理解しようなど、東京五輪に出場してメダルを取る以上に難しい。ていうか無理ゲー。既に脳内はショート寸前、頭から煙が出て機内はパニック、沖永良部空港緊急着陸するのではないか、との危惧を抱いたところで「たかが旅行やんけ」と思い直すことにした。堅苦しいことは考えず楽しめばいい。依然として「よりいっそう楽しむためには背景となる知識や思想があればこそ」と語りかけてくる内なる声は無視することにした。地球の歩き方のページを開き、荘厳な寺院の写真と、それに添えられた明解な説明文を読んだ。肩の力が抜け、体が軽くなったと感じたのは、実際に旅客機が降下を始めていたからである。

22時半過ぎ、私は三年ぶりに台北の地を踏んだ。と同時に始まる17時間のカウントダウン。もはや唯識や輪廻転生のことなど頭にはなく、私はいかに台北を楽しむか、いかにはじめの一兎を追うか、に注力していた。入国審査を抜けると、今年の三月に開通したばかりの、桃園国際空港と台北市内を結ぶMRT乗り場へと小走りで向かった。

I'm lovin' it

数日前、SNSを見ていると、私のフライドポテト愛が試される記事が目に飛び込んできた。特に目新しいこともないように思えるこの記事を目にして、今、私は語ろうと思う。私とフライドポテトの、わざわざ一つの記事にするまでもないどうでもいい話を。

forbesjapan.com

 

私の実家は鹿児島県の某離島にあり、高校を卒業するまでそこで暮らした。コンビニもファーストフード店もない片田舎である。実家のテレビをつけると、鹿児島県はあくまでも本土を拠点とするテレビ局は、山形屋(鹿児島の老舗百貨店)やマクドナルドのCMを、それを享受できない島民にも無慈悲に垂れ流す。僅か1~2メートル先の画面に映し出されるファーストフードまでの距離は果てしなく遠く、その間には東シナ海が横たわっていた。マックかマクドかマクナルか、それ以前にこの言葉を発する機会すら与えられない、論争に参加する権利すら与えられない、未だに永世中立を保っている地域の出身である。今、私がファーストフードを(とりわけフライドポテトを)愛するのは、この頃の経験があるからなのだろうか。テレビに映し出されるファーストフードは都会への憧れとほぼ同義だった。

都会に出てきてからというもの、手を伸ばせば届く距離にフライドポテトがあった。様々なフライドポテトを食べ歩いた。マクドナルド、ファーストキッチン、ケンタッキー等のファーストフード店、ファミリーマートセブンイレブン等のコンビニエンスストア……。「都会への憧れ」をひたすら摂取し、気が付けばいつの間にか都会の絵の具に染まっていたのである……! 油拭く木綿のハンカチーフください。

フライドポテトが体に悪いことなど、重々承知だった。それでも健康を顧みずに食べ続けることができたのは若さの特権か。

ジミ・ヘンドリックスジャニス・ジョプリンブライアン・ジョーンズ、ジム・モリソン、カート・コバーン、短い人生の中で自らの才気を爆発させ、儚くも散っていく彼らの生き様に憧れを抱いていたこともあったかも知れない。やりたいことをやって、食べたいものを食べればいいのだ。

しかし、爆発させる才気の雷管も導火線も火種もなく、だらだらと生きながらえて30代も半ばを迎えようとしている今、特に新鮮味のない上の記事に恐れおののく私は、心の片隅に「長生きがしたい」という至極まっとうな欲望が潜んでいることに気付き、戦慄した。

本日もまた、ツイッターで、テレビで、マクドナルドの広告が私の目を捉え、「食べたい」と思うのと同時に先に読んだ記事が脳裏をよぎる。それでも「自宅からマクドナルドまで僅か徒歩五分」という事実に結局私は玄関のドアを開けてしまう。今こそ、私とマクドナルドの間には洋々たる東シナ海が広がっていなければならなかった……! 夏の肌を射るような太陽だけが私の健康を気にかけているようで、引き返せと私に耳打ちする。それでも私は歩く。

真夏の屋外から足を踏み入れるマクドナルドの店内は冷房が効いており、それ以上に涼し気なクルーのスマイル。ここは天国かはたまた地獄か。私は季節限定メニューのチーズロコモコのセットを頼んだ。

セットを受け取り、席について、ポテトを口に運ぶ。それは、適度な塩味に加え「背徳感」というスパイスを得て、なお一層旨味が増したように感ずるのであった。

今村夏子『星の子』について

正直、私ごときの影響力ほぼゼロ人間がここでどんなに今村夏子のことを持ち上げても(逆に蔑んでも)、この人はいずれ芥川賞を取って有名になってしまうだろうから、この記事にどれほどの価値があるのか分からない。ただ、ここまで胸をえぐってくる作家はそうそういないので、自分の中での整理の意味もこめてこの作家について思うところを認めてみよう、と書き始めた次第であるが、僅か二文目にして上手く書ける自信がない。しかし、皆様の前にこうやって公開されているということは何とかかんとか書ききったんでしょう。

私がこの作家を知ったのは、第26回太宰治賞を受賞した『こちらあみ子』という作品だった。選評では、三浦しをんが「あらすじを説明しても、そこからこぼれ落ちてゆくものの方が多い」と評せば、それを受けて小川洋子は「読み手から言葉を奪う小説」と評した。何を隠そう、私も言葉を奪われてしまった。

良い文学作品を読むと「その素晴らしさを何とか伝えたい」と強く思うが、自分の言語能力がその素晴らしさを的確に伝えるまでに至っていないもどかしさに苛まれることがある。そして、今村夏子の作品の場合はことごとくそうなのだ。『こちらあみ子』も『あひる』も、そして最近読んだ『星の子』も。

6月初旬、三省堂書店池袋本店で『星の子』のサイン本を購入し、その日のうちに読み終え、圧倒され、また例のもどかしさに苛まれ、数日が経過し、それでも表紙をめくったところに直筆で書かれた「今村夏子」というあどけない文字を見ていると、何とか自分の感想をまとめて書いてみようと決意するに至った。以下、ネタバレを含むのでその点ご了承いただきたい。

内容を簡単に言ってしまうと、病弱で生まれてきた主人公の女の子を救うためにあやしい宗教にのめりこんでいく両親、その信仰が家族に与えていく影響が淡々と描かれている。読後、私が自分の考えをうまくまとめられないままツイッターで感想を漁っていると、私の言いたいことをほとんど代弁してくれているようなツイートが見つかった。

 「不穏なものの輪郭を描く」というのは言い得て妙だと思う。例えば、湊かなえ沼田まほかるなんかは、不穏なものそれ自体をプロットの力も借りてくっきりと描いて見せるだろう。一方、今村夏子の小説の場合はその輪郭だけが提供されていき、気が付けばその不穏なものに取り囲まれている。どちらが良い悪いではないが、私は今村夏子の小説を最初に読んだときに「こんな表現方法があるのか」とただただ圧倒された。

この小説は、家族三人が丘の上で星を眺める場面で終わっている。両親が見える流れ星が主人公には見えず、主人公に見える流れ星が両親には見えない。同じ方向を向いていても見えるものが違う気持ち悪さと、肩を寄せ合って流れ星を見ようとする愛情溢れる描写。私は、こんなにも美しくかつ不穏な場面をいまだかつて読んだことがない。宗教をただ気味悪く描くだけではなく、信仰する側の愛情までもが丁寧に描かれている。

良質な文学作品は「答え」ではなく「問い」を提供するものだと常々思っている私にとって、本作品は紛れもなく良質な文学作品だった。

旅のラゴス(カンボジア篇5)

現地時間午前二時半、フィリピンはマニラにあるニノイ・アキノ国際空港、セブパシフィック航空の機体から死んだ魚の眼をした人々が降りてくる。この人々、三時間前にシェムリアップ国際空港で狭い機体に押し込められ、身動きの取れない状況で連れてこられた乗客たちである。そしてその中にひときわ瀕死の、三途の川に片足踏み込んでいる男性がいる。私だ。こんな状況では日本出発前に加入した海外旅行保険からなにかしら補償されても良さそうである。二時間半後、午前五時にまた成田行きの旅客機に詰め込まれ、四時間のフライトを経て帰国することになる。登山の後の深夜フライト(乗り継ぎあり)、罰ゲームのような日程を組んだのは誰だ。私だ。

セブパシフィック航空の乗り継ぎ案内所は閑散としていた。どうやらシェムリアップからの乗り継ぎで成田へ向かうのは私だけのようだ。スタッフに成田までの搭乗券発行を依頼する。想定外の乗客だったのか、だいぶ待たされてようやく成田へのチケットを手にする。想定外の乗客だったのか、手荷物検査場の係員は仮眠を取っており、案内所のスタッフが慌てて起こすというシュールな状況。そんなこんなでとにかく目的の搭乗口にたどり着いた。

搭乗口近くには私と同じく憔悴しきった乗客が搭乗のときを待っている。嗚呼、今ここに自分専用の個室(ふかふかのベッド付き)が欲しい。

疲労感の分だけ充足感もある旅だった。大学時代、旅行好きの友人がいつか口にしていた言葉「先進国は年を取ってからも訪れることができる。若いうちは観光に体力のいる開発国を中心に訪れたい」。カンボジア行きを決めたのは先の記事で書いた通り、五連休で訪れるのに東南アジアが適していると思ったこと、香港経由のチケットが見つかったことなどが理由だが、もしかしたら大学時代の友人のこの言葉がどこかにあったのかもしれない。もちろん、既に私は若いとは言えない年齢だが、それでもこれから先の人生、最も若いのが今なのだ。じゃいつ行くか? 今でしょ! なのだ。シェムリアップでは、年配の方が遺跡を巡っているのを何度も目にした。それでも、一日にいくつも遺跡をハシゴするような観光は若者に許された特権。特権を行使しすぎて罰ゲームのような日程を組むのもまた一興である。

午前五時前、搭乗開始のアナウンスが流れる。いよいよ最後のフライトである。ほぼ定刻通りに旅客機は成田へ向けて離陸した。私の旅も終わろうとしている。

旅に出ると、つい何か長々と語りたくなってしまう。以前の私は、旅について無理に意味や意義なんてものを付与する行為は好きではなかった。学生の修学旅行も、政治家の海外視察も、ただの「娯楽」にもっともらしいものを付与したいだけだ。数年前「自分探しの旅」という言葉が流行ったときに「いやいやいや自分はここにおるやん」と思っていたし、中田英寿が引退時に「人生とは旅であり、旅とは人生である」という長文を認めたときも半ば鼻じらむ思いであった。

筒井康隆『旅のラゴス』を読むまでは、そんな思いを抱いていた。以下、この小説の解説の一部を要約する。「異質の日常性に出会うことで自らの日常性を選択肢の中の一つとして自覚すると同時に、かつては、自らの意志によってではなく、偶然によって選択された当の選択肢を改めて自らの意志によって選び直す」。

これまで先進国しか訪れたことのなかった私にとって、カンボジアは異質の日常性で溢れていた。目に飛び込んでくる「貧しさ」に付け焼き刃的に学習した歴史を重ねた。ポル・ポト原始共産制を目指す動きの中で虐殺された人々、失われた知識階級、その結果としての歪な人口ピラミッド

観光地でギフトカードを売りつけてくる子どもたち、街中でしつこく声をかけてくるトゥクトゥクの運転手、遺跡内で勝手にガイドをしてきてチップをねだる男性、そんなカンボジアの人々と接する度に、「日本人だからといって舐められたくない」という思いと、悲しい歴史を背負った上で強かに生きる彼等への賞賛に似たような思いが入り混じって汗と一緒に吹き出してきた。異質の日常性を前に、ある特別な感情を抱く日本人としての自分を意識した。

こんなことを長々と語っているが、結局はただの「娯楽」にもっともらしいことを付け加えたいだけかもしれない。本当はただ一言「楽しかった」でまとめたいような気もする。ただ単純に、笑顔でゴールテープを切ることができればいい。

気付いたら眠っていたようだった。目を覚ますと成田到着直前で、しばらくして私を叩き起こすような着陸の衝撃が体に伝わった。

帰国。

夏に着る着物、その着心地を読者と共有できたのか否かは分からぬが、少しでも何か感じるものがあれば幸いである。このあたりで筆をおくことにする。

 

【次回予告】

八月、タイ行きのチケットを予約した私、タイでは一体どんなドラマが待っているのであろうか!? ワット・アルンにワット・ポー、一体いくつのワットを巡ることができるのか!? 次回、微笑みの国タイ篇、乞うご期待!!!

プノン・クロムで見る夕日(カンボジア篇4)

若者には時間と活力があってお金がない。大人にはお金と活力があって時間がない。老人には時間とお金があって活力がない。そんな図を某SNSで見かけて、人の一生にはすべての要素が満ち足りている時期がないのか、と暗澹たる気分になったことがあった。それでも欠けている要素を補おうと努力することは可能で、若者は時間を犠牲にしてアルバイトに精を出しお金を得ようとする。そして、大人である私はお金で時間を買う。カンボジア最終日となったこの日、残された時間を効率的に観光するため午後から車をチャーターしていた。

午後一時、ホテルをチェックアウトし、スーツケースを車に積み込んで、シェムリアップから東へ約50kmのベン・メリアという遺跡を目指す。シェムリアップの中心地を離れると、車窓には遠くまで広がる草原、田畑、とのどかな景色が続く。エキゾチックというよりノスタルジック、私は故郷の沖永良部島を思い出していた。それでも時折視界に入る道路脇の売店――パラソルや簡素な屋根の下に野菜や果物が並んでいる――はここが東南アジアであることを強く実感させる。

この日はベン・メリアを訪れた後、22:30発の帰国便に間に合うように空港に移動することだけをホテルのコンシェルジュを通じてドライバーに伝えており、その間の時間は未定、ドライバーと交渉して好きなように動くことになっていた。

実はこの日の朝まで行くべきか否か迷っていたプノン・クロムという遺跡があった。『地球の歩き方』には、プノン・バケン、プレ・ループに次ぐ夕日の名所として掲載されていたが、注意点として以下のような記載があった。

――サンセットは日が沈んでからあっという間に暗くなるため、トラブルを防ぐためにも極力単独行動は避け、信頼のおけるガイドやドライバーの案内を付けることが望ましい。また、プノン・クロムではレイプ事件、強盗事件も報告されており、ガイドを付けても女性だけでの行動は避けること。

また、暑さの中、30分ほど山を登らなければならないことも私の決断を鈍らせていた。それでも結局、ベン・メリアへと向かう車中で「プノン・クロムに行きたい」とドライバーに告げていた。前日、アンコール・ワットでの朝日も、プレ・ループでの夕日も雲に遮られ、どうせまた無理だろうと惰眠を貪っていた今朝はツイッターアンコール・ワットの見事な朝日の画像が流れてくる始末。せっかくのチャンスを逃してしまった私は、このままカンボジアを離れるわけにはいかなかった。「プノン・クロムは既に連絡をもらっているルートからちょっと離れるのでUS$15のアップチャージになるけど」というドライバーの言葉にも、脳内のレート換算機がぶっ壊れたまま了承した。

ホテルを出発して約一時間、思ったより早く「東のアンコール」と呼ばれるベン・メリアに到着した。ドライバーと別れ、参道を遺跡へ向かって歩く。参道の両側には破損が少なく綺麗な状態が保たれているナーガ(蛇神)の像が並んでいる。一方で遺跡の壁面は崩壊が進み「壁」と呼ぶのに抵抗があるほど。遺跡上に組まれた木の歩道を進み、暗い回廊の中を通る。まるでRPGの主人公になったような気分で、攻略本『地球の歩き方』を手に遺跡を巡る。現れたのはモンスターではなく「勝手にガイドおじさん」であった。自ら進んで私の写真を撮ってくれたが直後チップをねだってくる。日本人だからと言って甘く見られたくはない、それでも国が背負ってきた悲しい過去(内戦やポル・ポトの虐殺等)を乗り越えて何とか生きていこうと必死な彼らに嫌悪感を抱くこともできない。私の財布の紐は中途半端に開かれた状態で、余っていたリエルをおじさんに手渡した。

ベンメリアの観光を終え、再びシェムリアップ方面へと移動する。時間は午後3時半、朝食ビュッフェを遅い時間に食べすぎた私はまだランチをとっておらず、道中ドライバーに何か食べたいことを告げる。車は一軒のレストランの前で停車した。テラスが川に突き出しているローカルなお店で、板張りの床をヤモリがはっている。まず失敗することがない炒飯を注文すると、出てきたのは皿の中央に炒飯、それを取り囲むように唐辛子や炒り卵や玉ねぎといった具材が添えられているものだった。味は我々が「炒飯」と聞いて想像するものとほぼ同じで、癖がなく美味しい。

食後、プノン・クロムへと移動する。

午後4時半、登山口に到着し、ドライバーと別れた。目の前にそびえる階段、登りきったものだけがその目で見ることのできる絶景、私は一歩を踏み出した。

しばらく登ると階段が途切れ、舗装された道を歩いていく。登りきるまでもなく、眼下には絶景が広がっていた。カンボジアの簡素な家並み、その向こうに広がる手付かずの大自然が足を軽くする。野生の山羊とすれ違い、山頂近くの寺院では小中学生ほどの年代の若い僧が気さくに話しかけてくる。少しずつ姿を変える絶景に都度立ち止まりながら登ったせいか、さほど疲れることなく30分ほどで遺跡にたどり着いた。山の斜面に立って遠くまで広がる景色を見る。手前には区画整理された田畑、そして遠く地平線の方には鬱蒼と生い茂る木々が見える。

落陽まではまだ1時間半ほどの時間があった。遺跡入口にあるベンチに座ってその時間を待つ。時折目の前を通っていくのは恐らく地元の住民か。観光客らしき人々の姿はない。母娘に声をかけられ、写真を撮ってあげる。観光地というより地元の人々の憩いの場所なのだろうか。

太陽は私を焦らすように少しずつその高度を下げていく。再び山の斜面に立って、もうだいぶ低くなった太陽が照らす景色を見つめる。

少しずつ橙色に染まっていく空、草木のグリーンと、水田に映るオレンジのコントラストに息を呑む。前日は肝心なところで雲に遮られていた太陽がカンボジアの大地を染めている。これが、プノン・クロムで見る夕日。雨季にはトンレサップ湖の水かさが増し、辺り一面が水に囲まれる絶景を見ることができるようだが、私にはこれで十分だった。

迷っていたが、来てよかったと思った。ここを訪れなかったら私のカンボジア旅行に何か大きなものが欠けていたとすら思う。

暗くなる前に坂道を駆け下りるように戻り、ドライバーと合流した。頂上で見た景色の素晴らしさを共有しながら、車はシェムリアップ国際空港へと向かう。

f:id:m216r:20170603210437j:plain

ロックフェス(カンボジア篇3)

暗闇の中、iPhoneの懐中電灯機能を頼りに歩く。視覚からの情報の不足を昨日の記憶が手助けする。参道の石組みはガタガタで――これは一方から力がかかってもそれを分散させる工夫らしいが――ところどころ水が溜まっていて、足を取られないように慎重に歩みを進める。朝五時半、私はアンコール・ワットの西参道を歩いていた。

私と同じくアンコール・ワットでの朝日鑑賞に期待を寄せる人々の話し声、息遣いが聞こえる。否、期待というと語弊があるかも知れない。恐らく誰もが朝日鑑賞にそぐわない日であることを感じている。ホテルを出た瞬間、湿り気を帯びた空気がまとわりつき、トゥクトゥクに乗って受ける風は東南アジアの熱気とは程遠い、少し肌寒さを感じるほどのものであった。風に戸惑う弱気な僕、通りすがるあの日の幻影。

聖池の前にたどり着く。群青色に染まる空にアンコール・ワットのシルエットが黒く浮かび上がる。空は次第に明るみを帯びてくるが、朝日が姿を見せる気配は全くない。世界各国からの観光客も落胆の色を隠せない。英語圏から来た者は恐らく「晴れていればなあ」と仮定法過去を使って嘆いていることであろう。嗚呼、失望を共有した観光客とアンコールビールを飲みながら残念会がしたい。否、ここはアサヒビールにすべきか。落胆する我々の隙間を一匹の猫が通り抜け、スカーフ売りの少女に悪戯をする。影絵職人が自らの作品を地面に並べ、制作過程を実演して見せる。そんな光景がはっきりと分かるぐらい、空は十分に明るくなっていた。私はこの旅で二度目のアンコール・ワットの内部に足を踏み入れることにする。

ホテルに戻り、朝食をとり、シャワーを浴びて、睡眠。日本との時差が僅か二時間のカンボジアで私の体内時計は狂っていた。午後一時にホテル前で再びトゥクトゥクのドライバーと合流、いよいよここから半日、アンコール遺跡群を巡る本格的な観光の始まりである。まずはアンコール・ワットの造営から半世紀後に築かれた王都、アンコール・トムへと向かう(以降、遺跡の名前が頻繁に登場するが、読者諸君にとっては新出単語で、どのような歴史があるのか気になるところであろう。しかし、アンコール遺跡には一つ一つに膨大な歴史があり、それを逐一語る余裕もなければ知識もない。向学心の塊である読者諸君には、めこん社『アンコール遺跡とカンボジアの歴史』を紹介するので、何の役にも立たない当ブログを読むのを今すぐやめて書店に走って欲しい)。

ドライバーがトゥクトゥクを止めた。橋の向こうに観世音菩薩の彫刻が施された大きな門が見える。橋の欄干にはヒンドゥー教の天地創生神話「乳海攪拌」を表現した像の数々、アンコール・トムの南大門である。何度かカメラのシャッターを押した後、再びトゥクトゥクに乗り込み、門をくぐる。一辺約3kmの城壁で囲まれたアンコール・トムは広く、中に幾つかの遺跡が点在している。その中心地、バイヨン寺院の前で降ろしてもらい、待ち合わせ場所を指定してドライバーと別れた。

顔、顔、顔。バイヨンを表現するのに最も適した漢字「顔」。バイヨンには穏やかな微笑みをたたえた観世音菩薩の四面塔が全部で54あるという。この遺跡には屋根がなく、観世音菩薩の優しい微笑みとは異なる、厳しい顔つきの日差しが容赦なく私を襲う。嗚呼、数時間前に貴方の姿を拝みたかった……。私と同様、周囲の観光客も汗を拭い、水を口にする。日本には「心頭を滅却すれば火もまた涼し」という言葉があるが、現代を生きる我々が頼るのは精神論ではなく文明の利器。帽子、日焼け止め、冷感スプレー、冷感タオル、冷感シャツ、とラスボスに立ち向かう勇者の装備でカンボジアを訪れたわけだが、灼熱の呪文にHPは削られるばかり。暑い。集団我慢大会の様相を呈してきたこの状況で結局は精神論に頼り、BUMP OF CHICKENの『スノースマイル』を口ずさむ。この暑さに負けず12世紀末に思いを馳せることができた者に観世音菩薩は微笑んでくれるのだ! 否、既に微笑んでいる!

私はバイヨンを後にした。象のテラスの前を通り過ぎ、屋台が数件並ぶ一角へと足を向けた。ホテルの朝食ビュッフェで貧乏性を遺憾なく発揮して過食した結果、午後3時前にしてようやく遅めのランチとなった。「アジノモト!」という謎の客引きに吸い寄せられ、フランスパンに豚肉と野菜を挟んだものと、ハングル文字が書かれたエナジードリンクを購入する。パンはそれなりに美味しく、エナジードリンクは海外のものがたいていそうであるように炭酸がなく甘ったるい。暫く休んだ後、クリアンとプラサット・スゥル・プラットという遺跡を見学してアンコール・トムを離れることにした。南大門と比べると地味な東側の勝利の門から出る際、ドライバーがトゥクトゥクを止めて説明をしてくれた。戦いに勝利した兵士たちがこの門を通って凱旋したとのこと。ここを出て行く私は暑さに完敗である。アンコール・トム、東京ドーム60個分と言われてもその広さを想像するのが難しく、またカンボジア行きを決めた3月初旬に摂氏30度超の気温を想像するのも難しい。

勝利の門を出てすぐのチャウ・サイ・テボーダとトマノンという二つの小さな遺跡を見学し、またその近くにあるピラミッド式寺院タ・ケウの急な階段を登りきった。その後、修復の手を下さないまま据え置かれてきたタ・プロームを訪れる。映画『トゥームレイダー』のロケ地としても有名なこの遺跡は神秘的な雰囲気が魅力で、巨木が意思を持って遺跡にまとわりついているような、自然の猛威を目の当たりにすることができた。日本国内でVIVA LA ROCK、JAPAN JAMといったロックフェスが開催されていたこの日、私は一人カンボジアで岩のほうのロックフェスを満喫していた。

この日のトリは、最上部からの眺めが素晴らしいプレ・ループという遺跡である。その最上部で落陽を待つ。周囲には私と同じく素晴らしい景色を見ようとその時を待ち構える各国からの観光客が。しかしこれはデジャヴか、西の空には雲がかかり、またしても太陽ははっきりとその姿を見せない。結局この日、朝日も夕日も私に微笑んではくれなかった。ただ、バイヨンの観世音菩薩像とトゥクトゥクのドライバーだけが私に微笑んでくれた。

シェムリアップのナイトスポット、パブ・ストリートでトゥクトゥクを降り、ドライバーと別れた。『トゥームレイダー』撮影時にアンジェリーナ・ジョリーが通っていたというバー「レッド・ピアノ」で、アンジェリーナ・ジョリーが良く注文していたことでその名がついたカクテル「トゥームレイダー」を注文する。このカクテル、10杯売れる度に次注文した人が無料になるようだが、ツキに見放された私にそんな幸運が舞い降りてくるわけがなく、ただ疲れた体にアルコールが心地よく染み渡っていくのであった。

f:id:m216r:20170529214853j:plain