日記なんかつけてみたりして

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今村夏子『星の子』について

正直、私ごときの影響力ほぼゼロ人間がここでどんなに今村夏子のことを持ち上げても(逆に蔑んでも)、この人はいずれ芥川賞を取って有名になってしまうだろうから、この記事にどれほどの価値があるのか分からない。ただ、ここまで胸をえぐってくる作家はそうそういないので、自分の中での整理の意味もこめてこの作家について思うところを認めてみよう、と書き始めた次第であるが、僅か二文目にして上手く書ける自信がない。しかし、皆様の前にこうやって公開されているということは何とかかんとか書ききったんでしょう。

私がこの作家を知ったのは、第26回太宰治賞を受賞した『こちらあみ子』という作品だった。選評では、三浦しをんが「あらすじを説明しても、そこからこぼれ落ちてゆくものの方が多い」と評せば、それを受けて小川洋子は「読み手から言葉を奪う小説」と評した。何を隠そう、私も言葉を奪われてしまった。

良い文学作品を読むと「その素晴らしさを何とか伝えたい」と強く思うが、自分の言語能力がその素晴らしさを的確に伝えるまでに至っていないもどかしさに苛まれることがある。そして、今村夏子の作品の場合はことごとくそうなのだ。『こちらあみ子』も『あひる』も、そして最近読んだ『星の子』も。

6月初旬、三省堂書店池袋本店で『星の子』のサイン本を購入し、その日のうちに読み終え、圧倒され、また例のもどかしさに苛まれ、数日が経過し、それでも表紙をめくったところに直筆で書かれた「今村夏子」というあどけない文字を見ていると、何とか自分の感想をまとめて書いてみようと決意するに至った。以下、ネタバレを含むのでその点ご了承いただきたい。

内容を簡単に言ってしまうと、病弱で生まれてきた主人公の女の子を救うためにあやしい宗教にのめりこんでいく両親、その信仰が家族に与えていく影響が淡々と描かれている。読後、私が自分の考えをうまくまとめられないままツイッターで感想を漁っていると、私の言いたいことをほとんど代弁してくれているようなツイートが見つかった。

 「不穏なものの輪郭を描く」というのは言い得て妙だと思う。例えば、湊かなえ沼田まほかるなんかは、不穏なものそれ自体をプロットの力も借りてくっきりと描いて見せるだろう。一方、今村夏子の小説の場合はその輪郭だけが提供されていき、気が付けばその不穏なものに取り囲まれている。どちらが良い悪いではないが、私は今村夏子の小説を最初に読んだときに「こんな表現方法があるのか」とただただ圧倒された。

この小説は、家族三人が丘の上で星を眺める場面で終わっている。両親が見える流れ星が主人公には見えず、主人公に見える流れ星が両親には見えない。同じ方向を向いていても見えるものが違う気持ち悪さと、肩を寄せ合って流れ星を見ようとする愛情溢れる描写。私は、こんなにも美しくかつ不穏な場面をいまだかつて読んだことがない。宗教をただ気味悪く描くだけではなく、信仰する側の愛情までもが丁寧に描かれている。

良質な文学作品は「答え」ではなく「問い」を提供するものだと常々思っている私にとって、本作品は紛れもなく良質な文学作品だった。

旅のラゴス(カンボジア篇5)

現地時間午前二時半、フィリピンはマニラにあるニノイ・アキノ国際空港、セブパシフィック航空の機体から死んだ魚の眼をした人々が降りてくる。この人々、三時間前にシェムリアップ国際空港で狭い機体に押し込められ、身動きの取れない状況で連れてこられた乗客たちである。そしてその中にひときわ瀕死の、三途の川に片足踏み込んでいる男性がいる。私だ。こんな状況では日本出発前に加入した海外旅行保険からなにかしら補償されても良さそうである。二時間半後、午前五時にまた成田行きの旅客機に詰め込まれ、四時間のフライトを経て帰国することになる。登山の後の深夜フライト(乗り継ぎあり)、罰ゲームのような日程を組んだのは誰だ。私だ。

セブパシフィック航空の乗り継ぎ案内所は閑散としていた。どうやらシェムリアップからの乗り継ぎで成田へ向かうのは私だけのようだ。スタッフに成田までの搭乗券発行を依頼する。想定外の乗客だったのか、だいぶ待たされてようやく成田へのチケットを手にする。想定外の乗客だったのか、手荷物検査場の係員は仮眠を取っており、案内所のスタッフが慌てて起こすというシュールな状況。そんなこんなでとにかく目的の搭乗口にたどり着いた。

搭乗口近くには私と同じく憔悴しきった乗客が搭乗のときを待っている。嗚呼、今ここに自分専用の個室(ふかふかのベッド付き)が欲しい。

疲労感の分だけ充足感もある旅だった。大学時代、旅行好きの友人がいつか口にしていた言葉「先進国は年を取ってからも訪れることができる。若いうちは観光に体力のいる開発国を中心に訪れたい」。カンボジア行きを決めたのは先の記事で書いた通り、五連休で訪れるのに東南アジアが適していると思ったこと、香港経由のチケットが見つかったことなどが理由だが、もしかしたら大学時代の友人のこの言葉がどこかにあったのかもしれない。もちろん、既に私は若いとは言えない年齢だが、それでもこれから先の人生、最も若いのが今なのだ。じゃいつ行くか? 今でしょ! なのだ。シェムリアップでは、年配の方が遺跡を巡っているのを何度も目にした。それでも、一日にいくつも遺跡をハシゴするような観光は若者に許された特権。特権を行使しすぎて罰ゲームのような日程を組むのもまた一興である。

午前五時前、搭乗開始のアナウンスが流れる。いよいよ最後のフライトである。ほぼ定刻通りに旅客機は成田へ向けて離陸した。私の旅も終わろうとしている。

旅に出ると、つい何か長々と語りたくなってしまう。以前の私は、旅について無理に意味や意義なんてものを付与する行為は好きではなかった。学生の修学旅行も、政治家の海外視察も、ただの「娯楽」にもっともらしいものを付与したいだけだ。数年前「自分探しの旅」という言葉が流行ったときに「いやいやいや自分はここにおるやん」と思っていたし、中田英寿が引退時に「人生とは旅であり、旅とは人生である」という長文を認めたときも半ば鼻じらむ思いであった。

筒井康隆『旅のラゴス』を読むまでは、そんな思いを抱いていた。以下、この小説の解説の一部を要約する。「異質の日常性に出会うことで自らの日常性を選択肢の中の一つとして自覚すると同時に、かつては、自らの意志によってではなく、偶然によって選択された当の選択肢を改めて自らの意志によって選び直す」。

これまで先進国しか訪れたことのなかった私にとって、カンボジアは異質の日常性で溢れていた。目に飛び込んでくる「貧しさ」に付け焼き刃的に学習した歴史を重ねた。ポル・ポト原始共産制を目指す動きの中で虐殺された人々、失われた知識階級、その結果としての歪な人口ピラミッド

観光地でギフトカードを売りつけてくる子どもたち、街中でしつこく声をかけてくるトゥクトゥクの運転手、遺跡内で勝手にガイドをしてきてチップをねだる男性、そんなカンボジアの人々と接する度に、「日本人だからといって舐められたくない」という思いと、悲しい歴史を背負った上で強かに生きる彼等への賞賛に似たような思いが入り混じって汗と一緒に吹き出してきた。異質の日常性を前に、ある特別な感情を抱く日本人としての自分を意識した。

こんなことを長々と語っているが、結局はただの「娯楽」にもっともらしいことを付け加えたいだけかもしれない。本当はただ一言「楽しかった」でまとめたいような気もする。ただ単純に、笑顔でゴールテープを切ることができればいい。

気付いたら眠っていたようだった。目を覚ますと成田到着直前で、しばらくして私を叩き起こすような着陸の衝撃が体に伝わった。

帰国。

夏に着る着物、その着心地を読者と共有できたのか否かは分からぬが、少しでも何か感じるものがあれば幸いである。このあたりで筆をおくことにする。

 

【次回予告】

八月、タイ行きのチケットを予約した私、タイでは一体どんなドラマが待っているのであろうか!? ワット・アルンにワット・ポー、一体いくつのワットを巡ることができるのか!? 次回、微笑みの国タイ篇、乞うご期待!!!

プノン・クロムで見る夕日(カンボジア篇4)

若者には時間と活力があってお金がない。大人にはお金と活力があって時間がない。老人には時間とお金があって活力がない。そんな図を某SNSで見かけて、人の一生にはすべての要素が満ち足りている時期がないのか、と暗澹たる気分になったことがあった。それでも欠けている要素を補おうと努力することは可能で、若者は時間を犠牲にしてアルバイトに精を出しお金を得ようとする。そして、大人である私はお金で時間を買う。カンボジア最終日となったこの日、残された時間を効率的に観光するため午後から車をチャーターしていた。

午後一時、ホテルをチェックアウトし、スーツケースを車に積み込んで、シェムリアップから東へ約50kmのベン・メリアという遺跡を目指す。シェムリアップの中心地を離れると、車窓には遠くまで広がる草原、田畑、とのどかな景色が続く。エキゾチックというよりノスタルジック、私は故郷の沖永良部島を思い出していた。それでも時折視界に入る道路脇の売店――パラソルや簡素な屋根の下に野菜や果物が並んでいる――はここが東南アジアであることを強く実感させる。

この日はベン・メリアを訪れた後、22:30発の帰国便に間に合うように空港に移動することだけをホテルのコンシェルジュを通じてドライバーに伝えており、その間の時間は未定、ドライバーと交渉して好きなように動くことになっていた。

実はこの日の朝まで行くべきか否か迷っていたプノン・クロムという遺跡があった。『地球の歩き方』には、プノン・バケン、プレ・ループに次ぐ夕日の名所として掲載されていたが、注意点として以下のような記載があった。

――サンセットは日が沈んでからあっという間に暗くなるため、トラブルを防ぐためにも極力単独行動は避け、信頼のおけるガイドやドライバーの案内を付けることが望ましい。また、プノン・クロムではレイプ事件、強盗事件も報告されており、ガイドを付けても女性だけでの行動は避けること。

また、暑さの中、30分ほど山を登らなければならないことも私の決断を鈍らせていた。それでも結局、ベン・メリアへと向かう車中で「プノン・クロムに行きたい」とドライバーに告げていた。前日、アンコール・ワットでの朝日も、プレ・ループでの夕日も雲に遮られ、どうせまた無理だろうと惰眠を貪っていた今朝はツイッターアンコール・ワットの見事な朝日の画像が流れてくる始末。せっかくのチャンスを逃してしまった私は、このままカンボジアを離れるわけにはいかなかった。「プノン・クロムは既に連絡をもらっているルートからちょっと離れるのでUS$15のアップチャージになるけど」というドライバーの言葉にも、脳内のレート換算機がぶっ壊れたまま了承した。

ホテルを出発して約一時間、思ったより早く「東のアンコール」と呼ばれるベン・メリアに到着した。ドライバーと別れ、参道を遺跡へ向かって歩く。参道の両側には破損が少なく綺麗な状態が保たれているナーガ(蛇神)の像が並んでいる。一方で遺跡の壁面は崩壊が進み「壁」と呼ぶのに抵抗があるほど。遺跡上に組まれた木の歩道を進み、暗い回廊の中を通る。まるでRPGの主人公になったような気分で、攻略本『地球の歩き方』を手に遺跡を巡る。現れたのはモンスターではなく「勝手にガイドおじさん」であった。自ら進んで私の写真を撮ってくれたが直後チップをねだってくる。日本人だからと言って甘く見られたくはない、それでも国が背負ってきた悲しい過去(内戦やポル・ポトの虐殺等)を乗り越えて何とか生きていこうと必死な彼らに嫌悪感を抱くこともできない。私の財布の紐は中途半端に開かれた状態で、余っていたリエルをおじさんに手渡した。

ベンメリアの観光を終え、再びシェムリアップ方面へと移動する。時間は午後3時半、朝食ビュッフェを遅い時間に食べすぎた私はまだランチをとっておらず、道中ドライバーに何か食べたいことを告げる。車は一軒のレストランの前で停車した。テラスが川に突き出しているローカルなお店で、板張りの床をヤモリがはっている。まず失敗することがない炒飯を注文すると、出てきたのは皿の中央に炒飯、それを取り囲むように唐辛子や炒り卵や玉ねぎといった具材が添えられているものだった。味は我々が「炒飯」と聞いて想像するものとほぼ同じで、癖がなく美味しい。

食後、プノン・クロムへと移動する。

午後4時半、登山口に到着し、ドライバーと別れた。目の前にそびえる階段、登りきったものだけがその目で見ることのできる絶景、私は一歩を踏み出した。

しばらく登ると階段が途切れ、舗装された道を歩いていく。登りきるまでもなく、眼下には絶景が広がっていた。カンボジアの簡素な家並み、その向こうに広がる手付かずの大自然が足を軽くする。野生の山羊とすれ違い、山頂近くの寺院では小中学生ほどの年代の若い僧が気さくに話しかけてくる。少しずつ姿を変える絶景に都度立ち止まりながら登ったせいか、さほど疲れることなく30分ほどで遺跡にたどり着いた。山の斜面に立って遠くまで広がる景色を見る。手前には区画整理された田畑、そして遠く地平線の方には鬱蒼と生い茂る木々が見える。

落陽まではまだ1時間半ほどの時間があった。遺跡入口にあるベンチに座ってその時間を待つ。時折目の前を通っていくのは恐らく地元の住民か。観光客らしき人々の姿はない。母娘に声をかけられ、写真を撮ってあげる。観光地というより地元の人々の憩いの場所なのだろうか。

太陽は私を焦らすように少しずつその高度を下げていく。再び山の斜面に立って、もうだいぶ低くなった太陽が照らす景色を見つめる。

少しずつ橙色に染まっていく空、草木のグリーンと、水田に映るオレンジのコントラストに息を呑む。前日は肝心なところで雲に遮られていた太陽がカンボジアの大地を染めている。これが、プノン・クロムで見る夕日。雨季にはトンレサップ湖の水かさが増し、辺り一面が水に囲まれる絶景を見ることができるようだが、私にはこれで十分だった。

迷っていたが、来てよかったと思った。ここを訪れなかったら私のカンボジア旅行に何か大きなものが欠けていたとすら思う。

暗くなる前に坂道を駆け下りるように戻り、ドライバーと合流した。頂上で見た景色の素晴らしさを共有しながら、車はシェムリアップ国際空港へと向かう。

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ロックフェス(カンボジア篇3)

暗闇の中、iPhoneの懐中電灯機能を頼りに歩く。視覚からの情報の不足を昨日の記憶が手助けする。参道の石組みはガタガタで――これは一方から力がかかってもそれを分散させる工夫らしいが――ところどころ水が溜まっていて、足を取られないように慎重に歩みを進める。朝五時半、私はアンコール・ワットの西参道を歩いていた。

私と同じくアンコール・ワットでの朝日鑑賞に期待を寄せる人々の話し声、息遣いが聞こえる。否、期待というと語弊があるかも知れない。恐らく誰もが朝日鑑賞にそぐわない日であることを感じている。ホテルを出た瞬間、湿り気を帯びた空気がまとわりつき、トゥクトゥクに乗って受ける風は東南アジアの熱気とは程遠い、少し肌寒さを感じるほどのものであった。風に戸惑う弱気な僕、通りすがるあの日の幻影。

聖池の前にたどり着く。群青色に染まる空にアンコール・ワットのシルエットが黒く浮かび上がる。空は次第に明るみを帯びてくるが、朝日が姿を見せる気配は全くない。世界各国からの観光客も落胆の色を隠せない。英語圏から来た者は恐らく「晴れていればなあ」と仮定法過去を使って嘆いていることであろう。嗚呼、失望を共有した観光客とアンコールビールを飲みながら残念会がしたい。否、ここはアサヒビールにすべきか。落胆する我々の隙間を一匹の猫が通り抜け、スカーフ売りの少女に悪戯をする。影絵職人が自らの作品を地面に並べ、制作過程を実演して見せる。そんな光景がはっきりと分かるぐらい、空は十分に明るくなっていた。私はこの旅で二度目のアンコール・ワットの内部に足を踏み入れることにする。

ホテルに戻り、朝食をとり、シャワーを浴びて、睡眠。日本との時差が僅か二時間のカンボジアで私の体内時計は狂っていた。午後一時にホテル前で再びトゥクトゥクのドライバーと合流、いよいよここから半日、アンコール遺跡群を巡る本格的な観光の始まりである。まずはアンコール・ワットの造営から半世紀後に築かれた王都、アンコール・トムへと向かう(以降、遺跡の名前が頻繁に登場するが、読者諸君にとっては新出単語で、どのような歴史があるのか気になるところであろう。しかし、アンコール遺跡には一つ一つに膨大な歴史があり、それを逐一語る余裕もなければ知識もない。向学心の塊である読者諸君には、めこん社『アンコール遺跡とカンボジアの歴史』を紹介するので、何の役にも立たない当ブログを読むのを今すぐやめて書店に走って欲しい)。

ドライバーがトゥクトゥクを止めた。橋の向こうに観世音菩薩の彫刻が施された大きな門が見える。橋の欄干にはヒンドゥー教の天地創生神話「乳海攪拌」を表現した像の数々、アンコール・トムの南大門である。何度かカメラのシャッターを押した後、再びトゥクトゥクに乗り込み、門をくぐる。一辺約3kmの城壁で囲まれたアンコール・トムは広く、中に幾つかの遺跡が点在している。その中心地、バイヨン寺院の前で降ろしてもらい、待ち合わせ場所を指定してドライバーと別れた。

顔、顔、顔。バイヨンを表現するのに最も適した漢字「顔」。バイヨンには穏やかな微笑みをたたえた観世音菩薩の四面塔が全部で54あるという。この遺跡には屋根がなく、観世音菩薩の優しい微笑みとは異なる、厳しい顔つきの日差しが容赦なく私を襲う。嗚呼、数時間前に貴方の姿を拝みたかった……。私と同様、周囲の観光客も汗を拭い、水を口にする。日本には「心頭を滅却すれば火もまた涼し」という言葉があるが、現代を生きる我々が頼るのは精神論ではなく文明の利器。帽子、日焼け止め、冷感スプレー、冷感タオル、冷感シャツ、とラスボスに立ち向かう勇者の装備でカンボジアを訪れたわけだが、灼熱の呪文にHPは削られるばかり。暑い。集団我慢大会の様相を呈してきたこの状況で結局は精神論に頼り、BUMP OF CHICKENの『スノースマイル』を口ずさむ。この暑さに負けず12世紀末に思いを馳せることができた者に観世音菩薩は微笑んでくれるのだ! 否、既に微笑んでいる!

私はバイヨンを後にした。象のテラスの前を通り過ぎ、屋台が数件並ぶ一角へと足を向けた。ホテルの朝食ビュッフェで貧乏性を遺憾なく発揮して過食した結果、午後3時前にしてようやく遅めのランチとなった。「アジノモト!」という謎の客引きに吸い寄せられ、フランスパンに豚肉と野菜を挟んだものと、ハングル文字が書かれたエナジードリンクを購入する。パンはそれなりに美味しく、エナジードリンクは海外のものがたいていそうであるように炭酸がなく甘ったるい。暫く休んだ後、クリアンとプラサット・スゥル・プラットという遺跡を見学してアンコール・トムを離れることにした。南大門と比べると地味な東側の勝利の門から出る際、ドライバーがトゥクトゥクを止めて説明をしてくれた。戦いに勝利した兵士たちがこの門を通って凱旋したとのこと。ここを出て行く私は暑さに完敗である。アンコール・トム、東京ドーム60個分と言われてもその広さを想像するのが難しく、またカンボジア行きを決めた3月初旬に摂氏30度超の気温を想像するのも難しい。

勝利の門を出てすぐのチャウ・サイ・テボーダとトマノンという二つの小さな遺跡を見学し、またその近くにあるピラミッド式寺院タ・ケウの急な階段を登りきった。その後、修復の手を下さないまま据え置かれてきたタ・プロームを訪れる。映画『トゥームレイダー』のロケ地としても有名なこの遺跡は神秘的な雰囲気が魅力で、巨木が意思を持って遺跡にまとわりついているような、自然の猛威を目の当たりにすることができた。日本国内でVIVA LA ROCK、JAPAN JAMといったロックフェスが開催されていたこの日、私は一人カンボジアで岩のほうのロックフェスを満喫していた。

この日のトリは、最上部からの眺めが素晴らしいプレ・ループという遺跡である。その最上部で落陽を待つ。周囲には私と同じく素晴らしい景色を見ようとその時を待ち構える各国からの観光客が。しかしこれはデジャヴか、西の空には雲がかかり、またしても太陽ははっきりとその姿を見せない。結局この日、朝日も夕日も私に微笑んではくれなかった。ただ、バイヨンの観世音菩薩像とトゥクトゥクのドライバーだけが私に微笑んでくれた。

シェムリアップのナイトスポット、パブ・ストリートでトゥクトゥクを降り、ドライバーと別れた。『トゥームレイダー』撮影時にアンジェリーナ・ジョリーが通っていたというバー「レッド・ピアノ」で、アンジェリーナ・ジョリーが良く注文していたことでその名がついたカクテル「トゥームレイダー」を注文する。このカクテル、10杯売れる度に次注文した人が無料になるようだが、ツキに見放された私にそんな幸運が舞い降りてくるわけがなく、ただ疲れた体にアルコールが心地よく染み渡っていくのであった。

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フルマラソンのランナーのように(カンボジア篇2)

朝、九龍公園を散歩していると太極拳に勤しむ集団を目にし、見よう見まねでそれに混じる、一汗かいたところで行きつけのレストランで朝の飲茶、小籠包のスープが疲れた体に染み入る、これは私の理想的な朝の香港の過ごし方であるが、実際のところは惰眠を貪っていた。昨夜「小心地滑」の看板を気にすることなく駆け足で香港を見て回ったが、あくまでも旅の目的はカンボジアであり、香港で体力を使い果たしてはならぬ。私はもう疲れ知らずの20代ではない。フルマラソンのランナーのようにペース配分に気を配り、笑顔でゴールテープを切らなければならない。

十分に睡眠を取った私は9時頃にホテルをチェックアウトし、タクシーで九龍駅へ向かった。車窓から見える香港島のビル群を厚い雲が覆っている。そして、エアポートエクスプレスで空港へと向かっている最中、降り出した雨の水滴が窓を斜めに走っていく。

香港国際空港に到着、スムーズに手続きを終え、搭乗口近くで出発時刻を待つ。しかし、所定の時刻を過ぎてもなかなか搭乗開始とならない。LCC名物のひとつ「遅延」である。現地でピックアップに来てくれるはずのまだ見ぬホテルのスタッフのうんざりした顔を想像する。天候のせいなのかはたまた他の要因か。僅か17時間の滞在を香港が引き止めているようで「香港を愛し、香港に愛された男ぉ!!!」とサンシャイン某が脳内で自己紹介を始める。

30分ほど遅れてようやく搭乗開始となった。搭乗口から近くに停まっているバスへ向かう途中に一人ずつレインコートが手渡される。粗悪な薄手の量産型レインコートを着た我々を乗せてバスは走る。けっこうな距離を走る。かなり走る。このまま陸路でカンボジアまで行ってしまうのではないかと思ったところで我々が乗る旅客機が目の前に現れ、粗悪な薄手の量産型レインコートを着た我々は雨の中その旅客機に乗り込む。LCC未体験だった私へ、これがLCCである。雨天時には粗悪な薄手の量産型レインコートが支給され雨の中自らの足で搭乗するのだ。

何はともあれ、無事香港国際空港を飛び立った私、果たしてカンボジアでは一体どんな困難が待ち受けているのだろうか!? アンコール・ワットへは無事たどり着けるのか!? 熱中症で倒れたり、お腹を壊したりはしないだろうか!? 現地で美女と知り合ってなんていうかそのあのアレはあるのだろうか!? 待望のカンボジア篇はこの後すぐ!!!

CM(香港エクスプレスの点心セット) f:id:m216r:20170529214220j:image

 

旅客機の窓の外に広がる雄大な大地、シェムリアップ国際空港到着直前に飛び込んでくる景色に目を奪われる。程なく旅客機は降下を始め、着陸の衝撃が体に伝わる。現地時間14時過ぎ、私はとうとうカンボジアにたどり着いた。タラップを降りて、空港の建物へと徒歩で移動する。体にまとわりつく熱気、これが、カンボジアの熱気。

入国審査を前に提出書類の整理をしていると「日本人ですか?」と若い青年に声をかけられた。どうやら入国審査の書類の書き方が分からないようだ。「これはね」と自分も地球の歩き方を見て記入した内容を偉そうに説明する。彼の持つパスポートの色は黒、学生だろうかと思い尋ねたら「一応働いてます」との回答。日本国内で事前に準備していたビザとパスポートを提出し、指紋をとられて無事入国。トランジットでよくあるというロストバゲージもなく、その青年と話しながら空港の外へ向かう。関西から来てシェムリアップでは一泊した後また別の地へ向かうようだ。空港の外へ出る。そこでホテルのスタッフが私の名前を書いた札を持って立っている、はずであったが……。否、立っていることは立っていた。しかし数が多すぎた。私はたくさんの札の中から自分の名前を探す。現地の方々が「君の名は。」という表情で私の顔を見つめる。前前前世から、とまではいかないが、飛行機が遅延した分私を待ちわびているはずのホテルのスタッフはどこだ。ようやく私の名前を見つけ、安堵とともにホテルのスタッフに挨拶をする。新海誠監督も驚愕の感動的物語はハッピーエンドで幕を閉じた。否、私の旅はまだ始まったばかりである。

青年と別れ、ホテルが用意してくれた車に乗り込むと、冷たい水とおしぼりが手渡された。スタッフのクメール語訛りの英語に日本語訛りの英語で対応しながら、窓の外を眺める。見慣れぬクメール語の看板、走るトゥクトゥク、強い非現実感が私を襲う。運転するスタッフに、ホテルのサービスや、夕日スポット、アンコール遺跡の入場券等について訊いた。ウェブ上の口コミで「アンコール遺跡の入場券を所定の料金所ではなくそのホテルで作ることができる」という情報があったが真偽の程が不明で、確かめてみたところ「以前は民間で管理していたのでうちのホテルで発行することができた。しかし今は政府の管轄であり、うちで発行はできない。入場券の値段も高くなってしまってね……」とのことであった。

20分ほどでホテル「ソカ・アンコール・リゾート」に到着した。繁華街からもアンコール遺跡からもほど近い五つ星ホテルだが、シェムリアップはホテルが安い。ドアマンがドアを開け、両手を合わせて挨拶をする。ロビーは広くゴージャスなインテリアで彩られている。チェックインをしようとするとロビーの一席に案内され、再び冷たいおしぼりとウェルカムドリンクが用意される。飲みながらチェックインの手続きを済ませ、部屋に案内される。手厚い「お・も・て・な・し」に感謝しつつドアを開けると一人にはもったいないほどの空間が広がっていた。十分な広さにセンス良く配置されたモダンな調度品、シャワーブースとバスタブはセパレートタイプになっており使い勝手が良い。楽園だ。このままここでゆっくり過ごしたい、だが、世界遺産がすぐそこで私を待っている、しかし、アンコール・ワットは17:30までに外へ出なければならない、飛行機の遅延もあった、料金所で入場券も作らなければならないし、十分に見学する時間は果たしてあるのだろうか、否、滞在時間も限られているしやはりここは初日からできるだけ観光を、ちょっと待て、旅の疲れもたまっているし今日はゆっくり過ごしたほうがいいのでは、いや……。悩むこと五秒、私は結局出かける準備を済ませ、ホテルのロビーに移動、コンシェルジュトゥクトゥクの手配を依頼した。

一年を通して最も暑いと言われるシェムリアップの五月だが、トゥクトゥクに乗って頬に受ける風は心地よい。ホテルとアンコール・ワットの中間地点にある料金所で三日間有効の入場券を作ってもらい、いざアンコール・ワットへ。トゥクトゥクアンコール・ワットのお堀を回り込むように進む。期待に胸を膨らませる私を野生の猿が見ている。16時半頃、アンコール・ワット正面にほど近いトゥクトゥクの待機場所に到着し、ドライバーと一旦別れることに。その前に念のため車体とドライバーを一眼レフで撮影させてもらう。一時間後に戻ってきた際、目的のトゥクトゥクが判別できないと困るからだ。

アンコール・ワットの西参道を進む。西塔門の階段を登ると、暗い塔門の中央部に開いた縦型のフレームの中に中央祠堂が一つ現れる。その計算しつくされた空間構成に当時の人々の叡智を感じずにはいられない。参道を進み、北側の聖池を挟んで中央祠堂を見る。五つの尖塔が聖池に映り込む、誰もが「アンコール・ワット」と聞いてイメージするその景色が目の前に広がっていた。本当に、来てしまった。

アンコール・ワットの内部へ。『ラーマーヤナ』や『マハーバーラタ』のレリーフ、沐浴の池の跡、壁面に掘られた精巧なデバター(女神)の数々……、最盛期にはインドシナ半島の大部分とマレー半島の一部まで領土としたクメール王国、もしかしたら私の前前前世ぐらいに栄華を極めていたその王国の壮大さが凝縮されてまだこの空間に引き継がれているような印象を受ける。曇天でそこまでの暑さは感じなかったが、気が付けば体中の汗腺から汗が噴き出していた。

トゥクトゥクのドライバーと合流し、王の沐浴池と言われるスラ・スランへと向かった。夕暮れ時、水面がオレンジ色に染まる光景を期待して行ったが前述のとおり曇天、過ごしやすさと引き換えにその光景は見ることができなかった。それでもあたりが少しずつ闇に包まれていくその様は幻想的であった。

ホテルに戻ることを告げると、ドライバーが明日の予定について訊いてきた。アンコール・ワットで朝日を鑑賞、その後ホテルに戻りひと眠りして、午後からはこのあたりの遺跡群を観光したい、と伝えた。一人でやってきた初めてのカンボジアで不安を抱きながら半日が経過したが、心細さを彼の笑顔に救われたことは確かで、英語での意思疎通も問題ない。明日も引き続きチャーターをお願いした。ホテルに到着し、入り口で別れる。明日は朝5時にここで、と言い残してドライバーは去っていった。

シェムリアップいちのナイトスポット、パブ・ストリートが私を呼んでいるような気がしたが、さすがに今度は五秒も迷うことなく、ホテル近くのレストランでさっと食事をとった後、おとなしく早めに眠ることにする。私はもう疲れ知らずの20代ではない。フルマラソンのランナーのようにペース配分に気を配り、笑顔でゴールテープを切らなければならない。

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夏に着る着物(カンボジア篇1)

――死のうと思っていた。ことしの正月、よそから着物を一反もらった。お年玉としてである。着物の布地は麻であった。鼠色のこまかい 縞目が織りこめられていた。これは夏に着る着物であろう。夏まで生きていようと思った。

太宰治『葉』の書き出しの文章を反芻していた。解釈の仕方によっては私の心境と重なる部分があった。もちろん死のうなどとは思っていない。ただ、死んだも同然の日々の中で、自らに「夏に着る着物」を用意し、袖を通すのを心待ちにしていた。

ゴールデンウィーク。カレンダーに忠実に生きる私の昨年のこの時期はいわゆる飛び石連休というやつで、ジムで鍛えた脚力をもってしても軽やかに渡り切ることはできず、つまずき、頭をしたたかに打って、つまるところどう過ごしたのかはっきりと覚えていない。

2017年、祝日が次から次へと土曜日に吸収されてしまう悲劇のこの年において、ただ五月初旬の五連休が光り輝いて私に迫ってくる。ありがたみの失われたたくさんの祝日たちのためにもこの五連休を楽しまなければならぬ。

三月中旬、私の脳内では「ゴールデンウィークの過ごし方」という議題で首脳会議が開かれた。「せっかくの連休なので連休でしかできないことを」と主張する海外旅行派が音楽フェス派や自宅でまったり派を圧倒、しかし、海外旅行派のなかでも行き先が定まらず、会議は踊るされど進まず状態。台湾や香港は魅力的だが週末でも気軽に行くことができる。却下。ヨーロッパへの弾丸旅行は航空券が高額。却下。海外旅行派の内部分裂を見た音楽フェス派が息を吹き返し「素晴らしい音楽に触れれば世界中どこへだって飛んでいける」とJ-POPの歌詞みたいなことを主張する。このままでは、会議の収拾がつかないままゴールデンウィークを迎えてしまうぞ。

会議が混乱を極める最中、たまたま旅行代理店に勤める友人が添乗で東南アジア諸国を訪れていた。「東南アジアはどうか」と海外旅行派が主張する。私にとって未踏の地、五連休で楽しむのにちょうどいいのではないか。では東南アジアのどの国にすべきか。とりあえずスカイスキャナーで各国行きの航空券をあたっていたところで目にした香港経由シェムリアップ行き。乗り継ぎには香港で一泊しなければならない。日本からの直行便がないシェムリアップ、それを逆手にとって乗り継ぎ地でも充実した時間を過ごせばいいではないか。香港とカンボジア、双方を楽しむためのプランを提示された私はそれを採用するしかなかった。こうしてサミットはスタンディングオベーションの中、幕を閉じたのである。めでたしめでたし、とはいかず、行き先が決まったら決まったで用意しなければならないことが数多くあった。航空券、宿、ビザ、レンタルWi-Fiの手配を終え、地球の歩き方2017~18(アンコール・ワットカンボジア)を購入し、ネット上でカンボジア関連の動画を漁り(一般人の旅行動画から、あいのりでラブワゴンがカンボジアを旅している動画、電波少年の企画でアンコール・ワットへの道の舗装をしている動画まで)、世界史の授業でただ単語として記憶するだけだったマハーバーラタラーマーヤナの物語にも触れた。あとは「夏に着る着物」に袖を通すだけである。

2017年5月3日、正午過ぎの成田空港。テレビのニュースで映し出される「出国ラッシュ」の地獄絵図に恐れをなし、便出発三時間前に到着した私は肩透かしを食らった。空いている。スカイライナーに乗っているときに時空が歪んでゴールデンウィーク後の世界にたどり着いてしまったのではないか。否、午後便であったことと、海外旅行者の多くは既に4月29日に出発し九連休を謳歌しているからなのか。俺のフレンチ俺のイタリアンに並ぶことなくすんなり入れたような心地で、俺の海外旅行は幕を開けた。レンタルWi-Fiを受け取り、スーツケースを預け、手荷物検査・出国審査をスムーズに終えると出発までまだ十分時間があった。搭乗口近くのレストランで空港の景色を眺めながらカツカレーを咀嚼回数多めで食べ、買いもしない免税品を漁ったり、行きもしないロサンゼルス行きの搭乗口の前で記念撮影をしたりした。

そうこうしているうちに搭乗のアナウンスが流れ、私自身初のLCCである香港エクスプレスに乗り込む。便名の「UO 819」が私の誕生日の数字であり、狭い機内で旅の期待は膨らむばかりであった。香港着は18:55、香港発は翌日の11:55。与えられたこの17時間で香港を堪能しなければならない。既に脳内でタイムスケジュールを組んでいた私は、空港と市街地を高速で結ぶエアポートエクスプレスの往復チケットを機内で購入した。

四時間半のフライトの後、ほぼ定刻通りに香港に到着。タラップを降り、九ヶ月ぶりに香港の大地を踏みしめる。肌にまとわりつく懐かしい熱気、「我返嚟喇(ただいま)!」と叫びたい気持ちをすんでのところで押しとどめ、バスに乗り空港の建物へ。スーツケースは受け取らずに外へ出て、到着フロアの太興というローストのレストランで私が中華料理で最も好きな燒肉(皮付き豚の丸焼き)が載ったご飯を咀嚼回数少なめで胃に流し込む。食後、トイレの個室で長袖から半袖に着替え、エアポートエクスプレスに飛び乗った。はやる気持ちを抑えられなかった。初めてエアポートエクスプレスを遅いと感じた。

香港駅でIsland Lineに乗り換え、太古で下車。このところネット上で話題となっている密集アパートの景色、前回香港訪問時に来ることができなかったこの場所を訪れ写真に収めたい。ネット上の情報を頼りに少し迷ったものの目的の場所にたどり着いた。見上げると、福昌樓、益昌大廈、益發大廈、康蕙花園の四つの高層住宅が夜空を取り囲む。数え切れないほどの窓、人々の営み、その香港らしさが凝縮された景色にただ圧倒された。街を歩いているとき、列車に乗っているとき、ふと香港の集合住宅に目を引かれることがある。びっしりと並ぶ窓、その一つ一つに想像もできないようなドラマが凝縮されていることを私は星野博美のノンフィクション『転がる香港に苔は生えない』から学んだ。

大学生の頃、交換留学生として八ヶ月間香港で暮らした。帰国してからも片手では足りないほど香港を訪れ、香港を分かっているような気になっている一方で、訪れるたびにまた違った顔を見せつけられ、「そんな薄っぺらい街ではない」と香港に諭されているような気さえする。これからも飽き足らず香港を訪れ、ガイドブックに載っていないお気に入りを増やしていくだろうと、高層住宅の谷間で私はそんなことを考えていた。

地下鉄を乗り継いで尖沙咀へ。ガイドブックにも載っているお馴染みの香港島の夜景は、留学中に初めて現地の学生らに連れてきてもらったあの時から色褪せることなく、今も変わらず鮮やかな色をビクトリア湾に反射させている。

飽きない。しかし、ずっと見ていたいという思いを脳内のタイムスケジュールが断ち切る。そろそろホテルへ向かわなければならなかった。私は彌敦道を北上する。何度か宿泊した九龍酒店、本格的なインドカレーを食べた重慶大厦、街の喧騒に疲れたとき一息ついていた九龍公園、「ニセモノトケイ」と声をかけてくる怪しい男性にすらノスタルジーを感じながら、ただ、昔を回顧している時間はなく、私は一泊分の荷物を抱えてひたすら彌敦道を北上する。

九龍公園北側に位置するBP Internationalにチェックイン。フロントが無愛想だったり、最初に渡されたカードキーで部屋に入れなかったりしたが、部屋は角部屋で広く快適で、サービスの至らなさを補って余りあるものであった。長い間、香港と向き合ってきた中で嫌なこともたくさん経験してきたけれどどうしてもこの街を嫌いになれない、そんな香港に対する私の想いが一つの出来事としてこの17時間の中にきっちりと組み込まれているようでなんだか可笑しい。

ベッドに横たわり、いよいよ明日訪れることになるシェムリアップの天候をチェックする。覚悟はしていたものの、いざその過酷な旅を目の前にすると少し怯んでしまう。気温は30度超、夏に着る着物ですら脱ぎ去ってしまうほうがよさそうな、そんな気がした。

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