日記なんかつけてみたりして

コメント歓迎期間中

京都音楽博覧会2023

 どこよりも早い音博レポートをしたためようと思っていたのに、多くの参加者に先を越され、更に季節の流れは私の執筆速度を遥かに凌駕していて、気付けばゆっくりと12月のあかりが灯りはじめ慌ただしく踊る街を誰もが好きになる季節。暖かいから油断していた。カレンダーは否応なく進んでいた。マックでグラコロの温かさを口の中に感じながら、もう冬かよそういえばまだ書いてないやんけ、と書きかけの記事をふと思い出す。もはや記憶の彼方に過ぎ去ろうとしている京都での出来事は、今ならまだ残した写真やX(旧ツイッター)のポスト(旧ツイート)の助けを借りて復元可能だと、慌ててiPhoneはてなブログのアプリを開いてフリック入力。どこよりも早いはずだったどこよりも遅い音博レポートを今ここにお届けすることにする。お待たせしました。お待たせしすぎたかもしれません。誰も待っていなかったかもしれません。

 

 気がつけば一年で最も天気の心配をする日になっていた。毎年秋に開催される京都音楽博覧会。過去を振り返ってみると、2016年には、滝のような雨に打たれながら桜井和寿岸田繁の演奏する『シーラカンス』を聴き、自分たちがまるで深海の底で音を聴いているような強い非現実感に襲われ、曲の世界にどっぷり浸かるという体験ができた。2019年には、そのときを狙って降り出したかのような豪雨が、活動再開したNUMBER GIRLの演奏をドラマティックに盛り上げてくれた。そんな風にポジティブに捉えられるのは、後から振り返ってその苦難を無理やり変換しているからであって、実際に降られている最中は「もうやめてくれよ」のオンパレード。インドア黒帯の私にはつらい。野外イベントにおいて雨は降らないに越したことはない。

 記憶に新しい昨年2022年の音博は開演から雨に打たれて長時間の滝行。それで精神が鍛えられて、例えば仕事に対する前向きな姿勢などが得られればいいのだが、実際は音博ロスにとらわれ、心は会場の梅小路公園に残されたまま、音博の最後に演奏された定番曲、くるりの『宿はなし』を脳内再生して業務に取り組む私にやる気はなし。野外イベントにおいて雨は降らないに越したことはない。

 今年は二日間の開催となった音博、一週間ほど前にウェザーニュースをチェックしてみるとまさにその二日を狙ったかのように傘のマークがついている。まあまだ一週間あるし、そのうちずれてくれるだろう、という願い虚しく、その日が近づいてきても動く気配のない傘二つ。くそっ、現代の天気予報の正確性が憎い! 今年も音博に参戦するつもりですか雨雲。であれば共に楽しみましょう。雨にも負けず、風にも負けず、音博を最後まで楽しみ尽くすことをここに誓います、とZOZOTOWNで雨具をポチポチ。ドラクエのラスボスに挑むぐらいの重装備で、昨年とは一味も二味も違う自分を見せてやろうではないか。

 10月初旬の3連休の初日朝に新幹線で京都入り。京都駅南口のホテルにチェックインを済ませ、駅構内のコンコースを抜ける。京都タワーが目に入る瞬間、京都に来たのだという強い実感が湧き上がってくる。音博初日前日の京都の空は青空が広がる心地よい気候で、もう今日開催でいいだろう、と音博会場の梅小路公園に足が向きそうになるのを抑えてバスに乗った。

 毎回、京都訪問前に行きたい場所をリストアップして音博の前後に駆け足で回っていたが、今回は激務続きの毎日でプランを考える余裕がなかった。そもそも今年は音博が二日間開催となったため観光に割ける時間も少なくなったし、もう既に何度も訪れている京都である。音博前日に伏見稲荷神社を訪問し引き返すタイミングが分からず結局登頂して体力を使い果たしたこともあったし、森見登美彦の小説を読んでその舞台を巡ったこともあった。哲学の道で猫と戯れたこともあったし、宇治へ足を伸ばし抹茶に溺れたこともあった。とにかく、気になるところは行き尽くした感がある。そんなわけで、とりあえず何となく毎回訪れている定番の鴨川デルタを目指すが、ぶらり途中下車の旅、お昼どきで胃袋が京極かねよのきんし丼を求めていた。

 店の前で少し待って入店、オーダーして出てきたきんし丼は分厚いだし巻きをめくると鰻が顔を覗かせる。冬の朝の布団の中の私か。もう少し寝かせてあげたいところであるが、有無を言わさずいただきますこれが社会の厳しさ。

f:id:m216r:20231217153947j:image

 卵と鰻のハーモニーを堪能した後は再びバスに乗り北上、デルタ付近でバスを降りると長蛇の列が目に入る。美味しいから並ぶのか、並ぶから美味しいのか、出町ふたばの豆餅。今回もいただきたいところであるが、観光の時間と天秤にかけて今回はスキップ。嗚呼、遠く東の地から訪れた私にファストパスをください。鴨川を眺めながら食す豆餅の味を思い返す。またいつか。美味しいから並ぶのです。

 そしていざデルタ。まずは定番の角度、賀茂大橋の上から三角州を拝む。目の前で賀茂川と高野川が合流し、鴨川となって流れてくる。何度見ても美しい景観、この景色のどこかに黄金比が隠れているのかもしれない。

f:id:m216r:20231217154015j:image

 賀茂川の岸から飛び石を渡り中州へ。いつかスムーズに渡り切れないときが来たら、その時には自らの老いを認め、運転免許証の返納を真剣に検討しようと思うが、当分は大丈夫そうである。華麗に飛び石を渡り、鴨川デルタ飛び石渡りがオリンピックの新種目になった暁にはメダル狙えそうなほど。

 森見登美彦万城目学、そして過去を遡れば数多の文豪らが作品に登場させてきたデルタ、その三角の中でのんびり時を過ごす。私は、NHKドキュメント72時間でここ鴨川デルタが取り上げられた回を思い出していた。配偶者のプロモーションビデオを撮影する男性、卒業までに鴨川デルタで過ごした時間を記録する大学生、震災で家族を亡くし人生が狂った老人、大学が爆破予告されて休校になり遊びに来た大学生、小説の登場人物よりもユニークなキャラクターたちが鴨川デルタでそれぞれの物語を紡いでいた。そして自分も願わくばその一部になりたかったと、京都の大学生として過ごしたパラレルワールドの自分を夢想したりする。

 鴨川デルタはこの日も人々の憩いの場となっていた。ここは、二つの川だけではなく様々な思いも交錯する場所、なのかもしれない。

f:id:m216r:20231217154108j:image

 鴨川デルタを離れ、鴨川沿いをあてどもなくさまよう。夜は短し歩けよ乙女。夜でもなければ乙女でもないが歩き続ける。立誠ガーデンヒューリック京都を覗き、梅園の甘味で一休み、BIG BOSS京都でいつ使うのか京都五山送り火ピックセットを購入し、スターバックスコーヒー京都BAL店を訪れ、先斗町のあたりを徘徊する。音博の前はなるべく体力を温存しておきたいのに気付けば2万歩弱。人はなぜ歴史から学べないのだろうか。青すぎる空を飛び交うミサイルがここからは見えない。

f:id:m216r:20231217154350j:image
f:id:m216r:20231217154514j:image
f:id:m216r:20231217154518j:image
f:id:m216r:20231217154524j:image
f:id:m216r:20231217154521j:image

 さて、ここまで約2,800文字を費やしたがまだ音博開催まで辿り着いていないとはこれいかに。イントロがB'zの『LOVE PHANTOM』ぐらい長くなってしまった。記事の中の私は疲弊していて、これを書いている私も相当言語野を酷使して疲弊している。このあたりでひとまず筆を置き、どこよりも遅い音博レポートをますます熟成させることにしよう。

 果たして続きを年内に投稿することができるのか、期待しないで待っていてください。

f:id:m216r:20231217154238j:image

引越初夜

 暑い夏だった。夏は基本的に暑いものだが、今年の夏は例年にも増して暑かった。いや、去年の暑さの記憶なんて、その間にある冬でリセットされて覚えているはずもなく、実際はさほど変わらないかもしれない。でもテレビやらネットニュースやらで「真夏日」「猛暑日」が流行語大賞を受賞する勢いで使われ、それが私の「例年にも増して暑い」という感覚を後押しする。本当に暑い夏だった。ここまでの文章で「暑」という漢字が8回使われるぐらいに暑かった。これで9回目。現実にはもう何回「暑」を積み重ねたのか分からないほどの暑い夏を、引っ越して間もない新居で過ごした。

 帰宅する少し前、スマホを操作してリモートで冷房のスイッチを入れる。帰宅後、独立洗面台に置いたソープディスペンサーから出てくる泡で手洗いをして、ダイニングのサイドテーブル兼空気清浄機のスイッチを入れる。汗だくになったシャツはドラム式洗濯機の中に投げ込んで、新しいシャツに着替える。引っ越しのタイミングで家具を買い替え、また、新たに買い足した私の生活は引っ越し前と比べて一変していた。最強の装備で猛暑と対峙した。

 全てが変わった2023年6月3日、土曜日、引っ越し当日。事前に不動産に鍵を取りに行くタイミングがなく、結局この日の朝に電車を乗り継いで鍵を受け取った。引っ越し業者が来るのは午後2時で、旧居の最寄駅の駅ビルで最後のランチを食べる。名残惜しい気持ちは、新居との距離わずか二駅という近さが和らげてくれていた。

 帰宅した後、引っ越し業者から連絡があり、予定より少し早く到着した作業員たちが、慣れた手つきで荷物を運び出していく。手持ち無沙汰の私は部屋の隅っこでスマホをいじる。携帯がない時代の人たちはどうやってこの時間を過ごしていたのだろう。業者さんにエールでも送っていたのだろうか。この日のために応援ソングを作って、今まさに運び出されようとしているギターで弾き語りをすべきだっただろうか。この時間の過ごし方を義務教育で教えて欲しい。なんてくだらないことを考えている間にも手際よく運び出される家具たち。

 10年間過ごした部屋が、空っぽになった。私が暮らした痕跡はそれでもなお、床の傷や壁の汚れといった形でしぶとくそこに居座っている。それすらクリーニングが入り、リフォームされて綺麗になくなってしまうのだろう。この部屋で過ごした記憶さえも、この記事を綴っている11月頭にはもはや海原はるかかなた

 鍵をかける必要もなくなった部屋に鍵をかけて、新居に移動した。20分もかからず到着した新居、まだカーテンのない窓からは日光が燦々と差し込み、新しい門出を祝ってくれているかのよう。そして引っ越し業者とHello, Againのち運び込まれる逆レイモンドチャンドラー短いお別れの家具たち。

 窓の外の景色を見て、作業員が感嘆の声を漏らす。ああ、人から羨ましがられるタワマンという建物にこれから住むことになるのか、と思った。低層階とはいえ、一般のマンションで言うとそれなりに高い位置にあって、かつ周囲にそんなに高い建物がなく、眺望は良好だった。

 引っ越しのタイミングでベッドと洗濯機は買い替えることにしていて、引っ越し業者に回収してもらった。時間をずらして設定していたはずのガスの業者もだいぶ早めに登場、ダブルブッキング状態の私は双方に同時対応のプチ聖徳太子だった。

 部屋と段ボールと私を残して、業者たちは去っていった。荷物の整理を後回しにして、マンションの管理人に挨拶を、そして、ラウンジやゲストルームなどの設備の見学をさせてもらった。低層階住民だけど、管理費ゼロだけど、それらを使う権利はあるのだ(管理費は家賃に組み込まれている扱いなのかも知れないが)。そして、提出しなければならない数々の書類を受け取る。まだやるべきことは山積みだが、それでも何とかここまでたどり着いた。タワマンの一室で、仮置きした家具に囲まれた私はひたすら書類にペンを走らせる。

 北西向きの窓からは沈みゆく夕陽が綺麗に見えた。脳内では荒井由実が『翳りゆく部屋』を歌っていた。アウトロのギターソロがフェードアウトして曲が終わる頃に空腹を覚え、新居近くの立ち食いそば屋で引っ越しそばを食べた。この界隈では有名な蕎麦屋だそうで、名物のジャンボゲソ天をトッピングした。やけに噛みごたえのある引っ越しそばだった。

 食後、部屋に戻って届いたベッドを組み立てた。新しい部屋の新しい寝具で、新しい生活を始める。10年ぶりの引っ越し。10年前のことはほとんど記憶にないけれど、今日と同じように新しい生活に対する期待感を抱いていた気がする。この部屋に最初に訪れるのは誰だろうか。この部屋で何を考え、どんな本を読み、どんな曲を聴いて過ごすのだろうか。ここにどれくらい長く住むのだろうか。脳内では、荒井由実にかわってカネコアヤノが「たくさん抱えていたい〜」と歌っていた。少し広くなったこの部屋で、以前よりはたくさん抱えていても許されるような気がした。

 窓の外には東京の下町の、スカイツリーや東京タワーなど見えない地味な夜景が広がっていた。ランドマーク付きの煌びやかな夜景は特別な場面に取っておいて、とりあえずこれぐらいの景色が自分にはちょうどいいように思えた。しばらく眺めていたい気持ちを、引っ越しの疲労感が上回り、新しいベッドにダイブする。翌日は朝にドラム式洗濯機の搬入をしなければならない、そして午後に旧居の立ち会い、翌週は休暇をもらって区役所に、と羊ではなくやることを数えていたらいつの間にか眠っていた。

引越前夜

 なんで、私が東大に!? という某予備校の広告に似た思いが脳裏をよぎる初夏だった。私は10年間住んだマンションからの引っ越しを控えていた。10年間、長い期間である。気付けば私の人生において最も長く住んだ部屋になっていた。その間、年齢も年収もじわりじわりと上昇、片方は焦り、もう片方は喜びを持ってその数字を数えた。毎月、胸をえぐられるような思いで迎えていた家賃引き落としの27日。その家賃の貯金通帳における存在感が次第に薄れていくとともに、部屋の狭さが気にかかる。この年齢で学生が住むような狭い部屋に住んでいるのはまずいのでは。本来であれば結婚や同棲を機にパートナーと新居を選ぶのが理想ではあったが、残念ながらこの10年間でそういう運びにはならなかった。そういう運びにならないのはそもそもこの部屋が原因か。椎名林檎は「小部屋が孤独を甘やかす」と歌っているが、孤独を甘やかされて過ごした結果なのだろうか。風水などはよく分からないが、自分の好きな部屋に住み、環境を変え、生活を整えることで運気も上向いてくるのかもしれない。そんな思いがズボラな私の背中を押し、引っ越しを伴う異動がないことがほぼ確定した3月初旬、流れる季節の真ん中でふと日の長さを感じつつ部屋探しを開始した。ネットで物件を検索し、不動産を訪れ、契約を済ませた。

 そして夏の足音が聞こえてくる5月、私は引っ越しの準備に追われていた。部屋の掃除、断捨離、荷造り。思えばこれまでの人生で引っ越しはこれで7回目、もはやベテランかもしれないがブランクが長すぎた。面倒くさい。そもそもこれまでの引っ越しは、進学、留学、就職等のタイミングで、言わば外的要因によるものだった。自らの自由意志で引っ越すのは初めてであり、だからこそ自分の選択が正しかったのか、なんでこんな選択をしてしまったのか、と目の前のTO DOリストの山を見上げて後悔する。それでも決めてしまったからには前に進むしかない。何となくつけていたテレビからは何かのCMでカネコアヤノが「たくさん抱えていたい〜」と歌っていた。それをB'zの「いらない何も捨ててしまおう」で上書きした私は、これまで抱えていたものを捨てる作業をひたすら進めた。狭い部屋で物欲は抑えつけて過ごしてきたと思っていたが、クローゼットからは無限に物が出てきた。ブラックホールの出口がそこにあった。こんまりを憑依させ、ときめかないものは全て捨てようと思えど、様々な思い出が去来し、それらの物たちは新居へ連れてってくれと懇願した。完璧にこんまりになりきれない私は、ときめかないものを捨てるか売るか実家に送るかした。

 引っ越し先の物件は旧居住区から二駅分という近さである。これまでさほど意識していなかったが、生活圏内でふと新居の建物が遠くに見えることに気づく。遥か高みから私を手招くように見下ろしている。いずれあそこに住むことになるのか、と期待に胸を膨らませるのと同時に、自分自身の決断にこう問いかけていた。なんで、私がタワマンに!?

 タワーマンション、おおむね20階建て以上のタワー状の集合住宅、通称「タワマン」。私がタワマンに住まない理由を列挙するのは簡単だった。エレベーターに時間がかかりそう、忘れ物を取りに戻るのが面倒そう、家賃が高そう、などなど。しかし、タワマンに住んでいる今思い返すと、それらは羨望や嫉妬を覆い隠すための言い訳だったのかもしれない。

 引っ越しは、自分の年収に見合った家賃を知ることから始まった。「年収 家賃」でネット検索すると、年収の20〜30%程度が一般的のようだった。家賃の上限を設定し、この一年間の貯蓄を振り返り、家賃が増えたらどうなるかをシミュレーションした。そして、諸条件を入力してネット検索をする。これまでよりも会社に近いこと、某路線の沿線であること、そして今までよりも広いこと。条件入力後、検索結果として出てきた物件を5つ程度に絞り、MacBookのNumbersで一覧表にする。物件名、家賃、管理費、階数、平米数、平米当たりの家賃、居室の畳数、畳数当たりの家賃、方角、最寄駅までの距離、会社までの所要時間、美容院までの所要時間……。表とにらめっこして、様々な面から検討を重ねた。そして最終的に決めたのが、当初は現実味を帯びていなかった、何となく候補に残していたタワマンの1室だった。タワマンと言っても、立地も地味、共有施設も地味、部屋の階数も地味だから景色も地味で家賃も地味な地味タワマンの地味部屋である。候補の中では会社から遠く、平米あたりの家賃も少し高かったが、インターネットが付いていること、ゴミステーションが各フロアにあること、共有施設が使用できること、といったタワーマンションの特権に惹かれた。低層階である分家賃が抑えられるし、地上にも出やすい。そしてほぼ駅というぐらい駅近。より会社に近い別の物件と最後まで迷っていたが、その物件のトイレがアメリカンセパレートという洗面所と同じ空間にあるタイプだったことがネックで結局手を引いた。また、実業家のひろゆき氏がタワマンの低層階を賃貸で住むことに対するコスパの良さについて語っている動画を見かけ、背中を押された形でタワマンの賃貸の契約書に判子を押した。

(因みに、持ち家か賃貸か、という問題に関して、私は賃貸派である。両者の比較については、経済評論家の山崎元氏の考えに同調するところが多く、例えば朝日新書『超簡単 お金の運用術』で語られている「将来の物件価値はいくらくらいあるのかといった損得を考えてみるべき」「不動産物件を買ってしまうことによる自由度の低下」等々の意見に同感である。そもそも離島で生まれ育ち、これまで様々な場所で住んできたことが、一つの場所にずっと留まるという意識を持ちづらくさせているのだとの思うし、だからこそ賃貸派の意見を好意的に捉えているフシもある。転勤の可能性があることも一つの大きな要因であるし、いつか田舎でゆっくり暮らしたいと心のどこかで望んでいるのかもしれない。あるいは、人生で一度の大きな買い物を決断する度胸がないだけかもしれない……。)

 永遠に終わらないのではないかと思えた引っ越しの準備だったが、さすがに切羽詰まると人は物凄い力を発揮する。自分の中に秘められた引っ越し力が解放され、サブスクやYouTubeを倍速にしたときの人の動きで準備を進めた。そして、引っ越しの前夜には何とか引っ越し業者を招き入れる準備が整った。

 2023年6月2日、金曜日、段ボールの積み上がった部屋で、最後の夜を噛み締める。脳裏に浮かぶのはこの部屋で過ごした数々の思い出、ではなく、掃除が不十分なところを業者に見られてしまうきまりの悪さである。立つ鳥跡を濁さず、と言うが、濁した状態で立つ私は感傷的な気分に浸ることなく、翌日の引っ越し当日の分刻みのスケジュールを不安視しながら眠りについた。

 そして夜が明けた。

東海地方行脚の旅4

f:id:m216r:20230408110806j:image

 2016年2月13日、私は名古屋駅前の超高層ビル、ミッドランドスクエアの42階にいた。お世話になった軽音楽部の先輩の結婚式に参列していた。久々に部活の先輩方と会い、テーブルは同窓会の雰囲気で、学生時代と変わらない先輩方の立ち振る舞いが否応なしに私を学生時代に引き戻した。学生時代の心地よさが披露宴にそのまま繋がっていて、本当に自分は先輩方に可愛がってもらっていたのだと実感した。こだわりを持って選ばれたであろう式中に流れる曲の数々は、我々元軽音楽部員の共通言語でもあり、好きな音楽を共有して過ごした学生時代から長い時間を経て、こういう場でまたそれを共有できるのは素晴らしいことだと思った。豪華な料理と、楽しい語らいと、あたたかい雰囲気の中で披露宴は進んでいく。高層階にいて、私の結婚願望も高まっていた。

 それが、前回名古屋を訪れたときの記憶。あれから7年が経過し、久々の名古屋滞在も最終日となった2023年3月19日、7年前の新郎である先輩とお昼前に名古屋市美術館の前で再会を果たした。同じくお久しぶりの先輩の奥さんと、はじめましての娘さん。幸せな家族の形を目の前にして、7年という月日の重みを感じる。少し立ち話をした後、奥さんと娘さんは名古屋市科学館へ、先輩と私は大須観音の飲食店へ移動した。

 店名に「ワインのー」と付いていたので、ランチプレートにワインを付ける。昼からアルコールを注入、店名に「ワインのー」とあるのでこれはもうどうしようもない抗うことができない。店名を決めた人の気持ちに寄り添う優しい私。

f:id:m216r:20230408110955j:image

 2つ上のその先輩とは、私が1年生の頃に1度だけバンドを組んだことがあった。先輩はベース、私はギター、加えてボーカル、ドラム、キーボード、と先輩方を中心とした5人編成のバンドであった。さてバンド名をどうしようかと学食で会議をしていて、様々な案が挙がったが、私が少し席を外したときにベースの先輩が口にしたバンド名「216R」に決まっていた。175R(イナゴライダー)のパロディで、私の苗字をもじって216R(ニイムライダー)、後の私のHN誕生の瞬間である。その時歴史が動いた。因みに175Rコピーバンドではなく、フィオナ・アップルクラウドベリー・ジャムなどをコピーし、私は先輩を引き立たせるべく隅っこでひたすら和音を刻んでいただけだったが、バンド名は下っ端のはずの私の名を冠していた。

 それまで馴染みのない曲を演奏するのは、難しくもあり楽しくもある行為だった。振り返ってみると、自分にとって新しいジャンルの曲が自然とインプットされる軽音楽部の環境はとても恵まれていたように思う。当時、様々な新しい音楽と出会い、私の学生生活を彩ってくれた。

 もし軽音楽部ではなくサッカー部に入部していたら、と考える。216Rは存在せず、私は違う名前でインターネットの海を徘徊していたかもしれない。弾き語り動画ではなく、リフティング動画をアップしていたかもしれない。それはそれで違う人生、違う幸せがあっただろうが、とにかく私は、軽音楽部を選んだことで得られたあれこれにとても満足している。

f:id:m216r:20230408112947j:image

 車で来ているかつ普段からそんなに飲まないシラフの先輩の横でワインをがぶ飲みし、アルコールが記憶を呼び起こし、昔話に花を咲かせた。

 家族サービスの予定がある先輩と別れて、ほろ酔いの私は大須を散策する。よく古着を求めてさまよった大須の街は、当時とは違う店舗が並んでいたけれど、雰囲気はあの頃のままでなんだか懐かしい。コメ兵、変わらずいてくれてありがとう。

f:id:m216r:20230408111149j:image
f:id:m216r:20230408111152j:image

 栄のホテルへ戻る途中、矢場とん矢場町本店前を通った。まわしを締めた豚の像は、連日飲んで食うての今の私の姿なのかもしれなかった。伊勢志摩でも名古屋でも、舌が喜ぶ瞬間の多いこと多いこと。また次の機会に矢場とんも味わうことにしよう、という気が削がれるぐらいの長蛇の列のそばを通り過ぎる。

f:id:m216r:20230408111236j:image

 ホテルに預けていた荷物を受け取り、バスで名古屋駅へ。ナナちゃん人形に別れを告げる。名古屋を離れて十数年、東京で様々な経験を積み、人間的に成長して大きくなったつもりでいたけど、身長ではまだまだナナちゃん人形に勝てなかった。

 17時前の新幹線で帰路についた。

f:id:m216r:20230408113202j:image
f:id:m216r:20230408113206j:image

 学生時代6年間を過ごした名古屋、ここに来た当初は、飛行機はおろか電車も一人で乗れず、父親同伴で小牧空港に降り立った。生まれてから高校卒業までの18年間を過ごした島から遠く離れて暮らすのは、期待より不安が大きかったかもしれない。実家を思って枕を濡らす日々が訪れたらどうしよう、と思っていたが、ホームシックのホの字も子音のHすらもない、少しは家族のことも考えてホームシックになれよと思うぐらいに毎日が楽しく充実していた。

 島出身の私にとっては、世間一般のことが新鮮だった。電車が走っていること、コンビニがあること、CMでしか見なかったマックがあること。世間知らずだった私が、社会で真っ当に生きていく術を学んだ場所が名古屋だった。

 床屋ではなく美容院に行き始め、スパゲティのことをパスタと呼び始め、ニッセンのカタログではなくセレクトショップで服を買うようになった。都会の絵の具に染まり、気が付けば髪まで茶色に染まり、ステージの上でギターをかき鳴らしていた。

 大学3年生のときには交換留学で香港へ。ドメスティックな世界で育った私は、名古屋経由で世界に繋がっていったような気がする。電車も一人で乗れなかった自分が、海外で現地の公共交通機関を乗りこなしているとき、随分と遠くまで来たな、と物理的ではなく比喩的な意味で思うことがある。

 森見登美彦の小説を読み、くるりの音楽を聴くと、つい京都で過ごす大学生活に強い憧れを抱いてしまうけれど、名古屋での生活を振り返ってみて、いやいや自分は名古屋でも個性的な友人らに囲まれて延々と語れるような物語の数々に恵まれたなと思う。

 名古屋・東京間は新幹線に乗ってしまえばあっという間、わずか1時間半の距離だけれど、名古屋で過ごした学生時代はもうずっと遠い過去の出来事。時間の流れはそのときに築いた関係性も記憶も風化させてしまうけれど、時には全力で抗うことをしたい。東海地方行脚の旅は、ひたすら時間の流れに抗う旅だった。

東海地方行脚の旅3

 昨夜降っていた雨がまだしぶとく名古屋の街を濡らしていた。ホテルで朝食を取った後、傘を差して雨の栄を歩く。大学生の頃、街に出かけると言うときは今住んでいる東京ほど選択肢がなく、せいぜい栄か大須観音ぐらいで、休日にそこへ行くと結構な確率で知人と遭遇した。特に名古屋PARCO島村楽器タワレコは軽音楽部員の出現率が高い場所だった。今や誰ともバッタリ会うことなどまずない栄の街、少し歩くたびに懐かしさが込み上げてくる。

f:id:m216r:20230402031350j:image

 思い出すのは日韓W杯の光景で、午後の講義をサボって大学近くの私の下宿先で友人らとチュニジア戦の勝利を見届けた後、栄の街へ繰り出したことがあった。日本代表がW杯で初めての決勝トーナメント進出を決めた直後の栄の街は青く染まっていた。社会人になってからもW杯が来る度に胸を躍らせ一喜一憂しているが、日本のサッカー界が大きく前進した歴史的なあの瞬間を名古屋で体験したことは忘れられない。

f:id:m216r:20230402031449j:image

 変わらないようでいて、確かに変わっている街を、郷愁に満ちた間違い探しのような感覚で歩く。雨を避けて地下街へ。サカエチカを歩き、クリスタル広場に差し掛かったときだった。

 ない。

 広場の中央に噴水とクリスタルのオブジェが設置され、その前で待ち合わせをするのが栄での待ち合わせの定番だったはずが、そこはただの平地になっていた。

f:id:m216r:20230402031518j:image

 クリスタルがなくなってしまったクリスタル広場、一部の喫茶店で一日中提供されるモーニングみたいに、名が体を表していないのもまた名古屋らしさ、なのだろうか。それとも、誰か大切な人と待ち合わせをする人々の心にクリスタルが宿っていればそれでいいということなのか。調べてみると、前回私が名古屋を訪れ、正にここで友人と待ち合わせをした半年後の2016年10月の工事で撤去され、その後イベントスペースに生まれ変わったとのこと。クリスタルが失われてショックを受けるのはファイナルファンタジー5以来である。

f:id:m216r:20230402030926j:image

 気を取り直して昔住んでいたいりなか駅へと向かうことにする。地下鉄の車両、流れてくるアナウンス、名城線から鶴舞線に乗り換える動線がいちいち懐かしい。

 御器所を通過する。地元民以外には難読地名の御器所(ごきそ)には昭和区役所があって、田舎から名古屋に出てきた私がまず引っ越しの手続きのために地下鉄で向かった先だった。二十歳前にして初めて一人で電車に乗れた当時の私は一つ大人になったような気がして、普通に子供が一人で乗っているその横でいたく感動していた。私にとっては、ニール・アームストロングが人類で初めて月面に降り立ったあの瞬間ぐらい歴史的な出来事。御器所に降り立った私の足跡も形として残して、名古屋市美術館にでも展示してほしかったところである。御器所は私の心の中の初心者マークを捨てた場所だった。

 そして地下鉄はいりなか駅へ到着。駅のホームも改札も全てが懐かしい。当時はICカードなんてなく、切符かユリカというプリペイドカードで通っていた改札を、iPhoneをかざして抜ける。階段をのぼり、外へ出て、曇天の空の下、飯田街道沿いに並ぶお店をチェックしていく。

f:id:m216r:20230402105555j:image

 マックがない、ブックオフがない、異人館らーめんがない。鳥貴族ができた。ココイチと定食屋のマリオは健在。三洋堂書店がないと思ったらドラッグストアの二階に追いやられながらもしぶとく生き残っていて、足繁く通った吉野家は元の場所にあった。

f:id:m216r:20230402125124j:image

 昔を思い出して吉野家に入り、よく食べていた並と卵を注文する。建物も綺麗にリフォームされている上に、東京でも頻繁に食べる懐かしくも何ともない牛丼の味は、懐メロを聴きすぎて全然懐かしくなくなるのと似たような感覚で、この行為にどんな感情を抱けばいいのか分からなくなってくる。だけど確かに当時の私はここで卵をかき混ぜ、牛丼の上にかけて食べていた。当時280円だった並盛が今や448円になっていた。

f:id:m216r:20230402105643j:image

 物価高を憂いながら大学へ向かった。途中にあるみどり楽器は、私がいつもギターの弦を購入していたお店で、まだ存在していることが嬉しい。愛知県出身のスキマスイッチの二人もこの楽器店にあるスタジオで練習していたようだ。大学の最寄りの楽器店なので、軽音楽部の後輩らもここにお世話になっているのかも知れない。楽器店の前を通り過ぎ、いりなか駅近くの学生寮に住んでいた一年生の頃の通学路をひたすら歩いていく。通学路にあった店舗も多くがなくなっていた。バーミヤンがない、コンビニがない、NAI-NAI-NAI 恋じゃNAI、とシブがき隊が脳内再生されたところで母校に到着した。

 正門前には部外者の立ち入りを禁ずる旨の張り紙が貼ってあり、部外者の立ち入りを阻止すべく守衛が立っていた。OBである私は果たして部外者なのだろうか。学生たちが数多く行き交う平日ならまだ学生らに混じって自然と学内に入ることができたかもしれないが、この日は土曜、そして春休みでもある。閑散とした正門前で私は戸惑っていた。そんな躊躇した思いが挙動不審さを助長させ、これは見た目にも良くないぞ止められてしまう。私はこの大学の在学生でこれからテニスサークルの練習があるということにしようか。いや、証拠を要求されてしまったら、ラケットもないし、テニス経験者だけが持ちうる美しいフォームも見せることができない。よし、ここは正攻法で行こう。止められたときに伝えるべきことをシミュレーションする。この大学の卒業生であり学生番号は◯◯、数年ぶりに近くまで来たので是非母校を訪問したい、もし入れなかったらこの大学で過ごした素晴らしい思い出に悲しい思い出が上書き保存されてしまう、どうか通してください……!!!

 すんなり通れた。声をかけられることもなく堂々と校内へ。全ては杞憂に終わった。

 学内のメインストリートを歩く。懐かしいことは懐かしいのだが、どんよりとした天気、そして校内は閑散としていて、懐かしさにうら寂しさが混じった奇妙な感覚で歩く。よくバンドの練習をしていた第一食堂の地下のスタジオは建物ごと跡形もなく消え去っていて、思い出の数々を踏みにじって真新しい校舎が屹立していた。変わったことは数多くあれど、それでも6年間を過ごした場所。その6年間は遥か遠くの出来事になってしまって、思い出すら心の隅の隅の、ルンバが見落としてしまいそうなぐらいの片隅に追いやられているが、私にとっては相変わらず大切にしたい場所である。

f:id:m216r:20230402105813j:image
f:id:m216r:20230402105816j:image
f:id:m216r:20230402105819j:image

 大学を後にして、引き続き周辺を散策する。昔住んでいたマンションの前を通り、よく半額の惣菜を買っていた松坂屋ストアが医院になっているのを確認、そして、在学中に新しくできた名古屋大学駅から栄に戻った。

 夜、世界の山ちゃんの前で学科の友人と待ち合わせをして、手羽先を食べた。我々が属していた外国語学英米学科は男子学生が少なく、だからこそ今般のWBCの日本代表のように一体感を持って、全員野球で課題や試験に立ち向かっていた。卒業後も続くと思われたその一体感は呆気なく歳月に負けてしまった。歳月は強い。大半が、某テレビ番組ではないが、あいつ今何してる?状態になってしまった。幻の手羽先を食べながら、あの頃築いた関係も幻だったのだろうか、と考える。時を経て、各々が大学時代の繋がりより大切にしたい関係性に恵まれているのだとしたら、それはそれで素晴らしいことなのかもしれない。みんな元気にしているだろうか。私は、あの頃流行っていたブログで、頻度こそ落ちたものの今もこうして声を上げ続けている。

 部活も勉学も充実していた大学時代、あの頃の僕らはきっと全力で少年だった。同じ専攻を持つ友人らとの時間は、軽音楽部とはまた違う形での充実した時間が流れていて、ランチタイムに学食で集まっていた当時のように、いつかまた同窓会でもできたらと思うのである。

f:id:m216r:20230402111427j:image
f:id:m216r:20230402111430j:image

東海地方行脚の旅2

f:id:m216r:20230327205847j:image

 ブログを書くのが面倒で、今流行りの某AIに助けを求めたが、学生時代6年間を過ごした名古屋を7年ぶりに訪れた私の感情はAIにすくい取ることはできず。ならば細かく条件を与えてみたらどうかと思えど、それでも痒いところに手が届かない。では更に細かく条件を、とそんなことをするぐらいなら自らの言葉で語ったほうが早いかも知れぬと思い直して、結局自ら文章をしたためている次第である。

 7年の不在、これが8年ならちょうどW杯2回分であるが、7年間というのは中途半端に長い期間である。素数だし。17年または13年周期で大量発生するアメリカの蝉、素数ゼミのことを思い出した。なぜその周期で発生するのかというと発生周期が3年や4年の捕食者や寄生虫と同時発生しないためだという説があり、自然界に素数がこういう形で出現することにいたく感銘を受けたが、7年ぶりに名古屋を訪れる私は一体何から逃れようとしているのか。

 大学院を修了して、就職で上京してからの数年は、主に友人の結婚式のために1〜2年に1度のペースで名古屋を訪れていた。気づけば結婚ラッシュも落ち着き、そのラッシュに乗り遅れた自分自身に忸怩たる思いを抱いていたら7年もの月日が経過していた。

 ちょくちょく名古屋の近くまでは来ていたのだ。いや通り過ぎていたというほうが正確か。毎年秋口に京都で開催される京都音楽博覧会へ向かう新幹線の中で「名古屋」の駅名標を見るたびに、ふとここで過ごした月日が脳裏をよぎるものの、すぐその後には京都でやりたいことに思いを馳せていた。

 そのうち行かねば、の「そのうち」が積み重なって気付けば7年。コロナ流行による自粛を経て、昨年からは少しずつ国内旅行に行き始めた私、このあたりで青春の地、名古屋を訪れ、旧友らと久々の再開を果たすのもいいだろう。折しもドラマ『ブラッシュアップライフ』を見て「友達ってやっぱいいよね」という感覚を抱いた人生1周目の私は、こうして名古屋に行くことを決めたのだった。

 3月17日金曜日、観光列車しまかぜで伊勢から名古屋に戻ったのは18時前、名古屋駅構内のコインロッカーに荷物を入れ、すぐさまJRで豊橋へ向かった。1週間の勤務を終え帰宅の途につく疲れた顔の会社員らに混じり、それ以上に疲れた顔で電車に揺られること1時間、伊勢湾と三河湾の二つの湾を跨いだ先には、初めましての豊橋と久しぶりの友人。大学の入学式で隣に座っていた彼に私が話しかけたことから始まった関係が今の今まで続いている。ど田舎から出てきてなんとか友達を作りたいという焦りが、コミュ障の私にここまで大胆な行動を取らせてしまった。高校生までの私はいわゆる優等生キャラで、前述のブラッシュアップライフで言うまりりんタイプ(未履修の方ごめんなさい)、友達が決して多いわけではなく、大学生活は友人に囲まれた素敵なキャンパスライフを、と意気込んでいたわけである。1年生になったら友達100人できるかな、のあれを小学校ではなく大学の1年生で実現しようとしていた。

 大学入学時、軽音楽部かサッカー部かで迷っていた私が軽音楽部に入部したのも、この日会う彼が偶然軽音楽部に入ることを決めていたからだった。その後、彼と一緒にバンドを組んで名古屋の音楽シーンを席巻し、レコード会社から声がかかったこともあった、というのは明らかに記憶の改ざんだが、大学の第一食堂の地下にあったスタジオで練習を重ね、小さいステージの上で青春を垂れ流したあの時間は何事にも代えがたい。そんな彼と数年ぶりの再会、コロナ禍での近況と雑多な話題にアルコールが混じり、夜が更けていく。

f:id:m216r:20230401183555j:image

 名古屋への帰路は新幹線を予約していて、時間に間に合うよう解散した。

f:id:m216r:20230401183618j:image

 わずか20分程度で三度名古屋着。金曜の夜、名古屋駅前で明らかに飲み会帰りのサラリーマンたちとタクシーの列に並び、ようやく順番が回ってきて、車内で雨にけぶる名古屋の街をぼんやり眺めながら栄のホテルへ移動。なんとか日付が変わる前にチェックインを終えた。

東海地方行脚の旅1

 目の前の駅名標には「伊勢市」と書かれていた。7年ぶりの名古屋訪問の予定が、乗り過ごして伊勢まで来てしまったようだ。いや、これは当初から予定していたことで、そもそも東京から名古屋を乗り過ごして伊勢に向かう電車などない。確信犯。確信犯という言葉の使い方が間違っているような気がするが、誤用がマジョリティになれば即ち正しい使い方になるのであまり気にしないで筆を進めることにする。そもそもこの記事のタイトルの「行脚の旅」という言い回し、「行脚」に旅の意味が入っているような気がして、もしかしたら重言なのかもしれない。でもネットで調べたら使用例に枚挙がないのであまり気にしないで筆を進めることにする。とにかく、3月15日の水曜日から3日間有給休暇を取得して、土日にひっつけて5連休、前半伊勢志摩、後半名古屋の旅が始まったわけである。

 三重県というと、大学生のときに同級生とナガシマスパーランドに行って苦手な絶叫マシンに何度も乗ったり(乗せられたり?)、大学院生のときに当時の交際相手とジャズドリーム長島に行って買い物に散々つきあったりしたことがあったが、いずれも愛知県に隣接した三重県桑名市長島町、もはやほぼ愛知県と言っていい場所に日帰りで訪れただけであった。伊勢志摩まで足を伸ばし、宿泊してじっくり観光するというのは初めてである。

f:id:m216r:20230401075611j:image

 伊勢市駅を出て、駅前のホテルに荷物を預け、目をつけておいた山口屋というお店でランチの伊勢うどんを食べる。せっかくなので松阪牛すじを載せた。真っ黒なタレに絡む柔らかい極太麺が美味しい。

f:id:m216r:20230401075640j:image

 普段は自ら進んでうどんを食べることがあまりなく、麺類のアイドルグループ「MEN48」があったとしたら、私の推しメン(推し麺)はラーメンであり不動のセンター。悲しいかなうどんやそばは隅っこに追いやられてしまっている。だが、この日食べた伊勢うどんは、うどんもセンターになれるポテンシャルを感じさせるものだった。うん、美味い。一口にうどんと言っても、世の中には様々なうどんがある。

 奥が深いうどんの世界、とマツコ・デラックスの某番組のようになってしまったところで始まるお伊勢参り伊勢神宮は外宮と内宮があり、まずは伊勢市駅から参道を5分ほど歩いた先にある外宮へ。正宮参拝の作法やお参りの順番など、楽天マガジンに入っていたまっぷるで予習していたが完璧ではなく、持ち込み可の試験よろしくスマホまっぷるを見ながら回る。平日ではあったが、それなりに混んでいるのは春休みの時期だからか。自由な時間がたっぷりあった大学生の時分に戻りたい。

f:id:m216r:20230401075731j:image
f:id:m216r:20230401075734j:image
f:id:m216r:20230401075737j:image

 外宮の参拝を終え、バスで内宮へ。旅先のローカルバスでSuicaが使えると移動のハードルがぐっと下がって嬉しい。内宮に到着し、広大な敷地内を移動して参拝を無事終える。それにしても広い伊勢神宮、神域と宮域林を合わせて5500haあるとまっぷるに書いてあったが、5500haがどれくらい広いのかイメージが掴めないし、宮域林(きゅういきりん)という言葉も新出単語であった。

f:id:m216r:20230401075837j:image
f:id:m216r:20230401075840j:image
f:id:m216r:20230401075843j:image

 多くの神々に参拝し、その度にお賽銭を入れ、二拝二拍手一拝をした。合計で20拝20拍手10拝ぐらいしてご利益の塊となった私は参拝後、近くのおはらい町へ移動する。木造建築が建ち並ぶ参道は賑やかで、目についたお店に入り、名物の赤福をいただいた。伊勢神宮の外宮と内宮で1日目終了。

f:id:m216r:20230401080817j:image
f:id:m216r:20230401080813j:image

 2日目、3日目はそれぞれ志摩、鳥羽を訪問した。この旅で一番気になっていた横山展望台からの景色は好天も相まって素晴らしかったし、その後訪れた地中海村は異国情緒に満ちあふれていて英虞湾が本当に地中海に思えてきたほど。翌日の夫婦岩は今にも雨が降り出しそうな天気であったが、二見浦に浮かぶ2つの岩は神々しい。

f:id:m216r:20230401080957j:image
f:id:m216r:20230401081000j:image
f:id:m216r:20230401081003j:image

 名古屋へのはやる気持ちが、2日間をわずか数行と3枚の写真で済ませてしまった。名古屋に対するほとばしる熱い想いを一刻も早く形にしなければならぬ。大胆なショートカットを用いた私は次の瞬間、名古屋へ向かう観光列車しまかぜに乗っている。

f:id:m216r:20230401172637j:image

 3月17日金曜日、16時24分発の列車で、私は伊勢を発った。名古屋編に続く。